潮織りの比売(ひめ) 十四



 盛んにはぎの香のする季節となりました。

 涼風がさわやかに野を渡るころです。細蟹は、女官のひとりとともに庭を歩いていました。

 萩。

 尾花すすき

 葛の花。

 なでしこ。

 朝貌あさがお

 おみなえしにふじばかま。

 さやさやと花のさやぐ庭は、漠々として感じられます。広き野に放られたような、透きとおった冷たさがあるのです。


――……あかる、


 細蟹は、思わず正殿のほうをふりむきました。すると女官が慮るように声をかけます。


「細蟹さま」

「ええ、わかっています。押しかけたりはいたしません」


 細蟹は前を向き、ふたたび庭を歩き出しました。

 女官は、そんな細蟹へ添うようについてきてくれます。彼女はといい、子を産んだことのある人です。ゆえに親しみやすく、近ごろよく話をしているのでした。

 とがのは細蟹を励ますように、しっとりとした声音で言いました。


「細蟹さまのご心痛は、わたくしも覚えがございますわ。わが一族は弓をつくる技人わざひとでございますから、男児は二つになれば、父とともに弓の材を採る森へゆくのです。わたくしの子も、幾年か前にその儀をいたしました……」


 子は母の腕を離れ、父とともに樹を伐る習いを始めるのです。

 とがのはその朝、誇らしげに家を出る子をほほ笑んで見送ったといいます。母としての寂しさを、胸の底に押し隠しながら。


「母として、子の生い立ちは喜ばしゅうございます。されども母として、子が離れゆくことは寂しゅうもございます」

「……ええ、」


 細蟹は頷き、正殿にいるあかるのことを思いました。

 あかるはもう、二歳になっています。

 ことばも、からだつきも大きくなり、大人を驚かせるような知恵をみせるときすらあります。そうしたよわいとなり、皇子としての学びを始めることとなりました。

 黒海臣を師として、まつりごとを習うのです。ほかにも皇子としてのふるまいや礼儀作法、心の持ち方など、覚えることはたくさんあります。

 いずれも、やがて正式な世継ぎとして立つための備えでした。あかるの立太子礼は、あとひととせに迫っています。


――それが黒海臣さまとの約束だった。かがよひが亡くなって……あかるが生まれてとせが経てば、あの子はただしくこの国のみことなる。


 細蟹も、その約束を承知したはずでした。少しでも、あかると母子として過ごせればそれでよいのだと心に決めて。


――けれども、やはり寂しい……。


 いざそのときが近づきだすと、胸に孤独が迫ってきます。ひたひたと、哀しみの波が寄せてくるようです。

 細蟹は手で花々のかたちを確かめ、なでしこの花を摘みました。


が真子 しけ珠の子 撫でし吾子わこ……」


 祈るように歌いながら、花を茎でまとめます。それをうしろの護衛に渡しました。


「申し訳ないのですけれど、これをあかるのみこさまに届けていただけないかしら」

「……しかし、」


 きょうの護衛は、こまではありません。駒は黒海臣の手伝いで正殿へ行っています。代わりの兵士は、戸惑ったようすで細蟹に対しました。

 そこで、とがのが口を挟みます。


「護衛どの、わたくしが細蟹さまの守り人をいたします。ですからどうか、細蟹さまのお心を汲んで差し上げてくださいませ」


 女人ふたりに言い募られては、無下にもできなかったようです。

 兵士はため息をつき、花を受け取りました。


「畏まりました。とがのどの、細蟹様をお頼み申します」

「承知いたしました」


 とがのが礼を取るそばから、兵士は狼のように音もなく去ってゆきました。

 それを送ると、とがのが細蟹をうながします。


「さあ、細蟹さま。気晴らしに歩きましょう。向こうにもっと、なでしこの群れている茂みがございます」


 とがのに導かれ、庭の奥へ進みます。

 樹や草の匂いが濃やかになり、とりわけ椿の、うっそうとした暗い葉むらの香が立ちました。風もしずまり、あたりは深い静寂の淵へ没してゆくようです。

 細蟹は少し、そら恐ろしいような気がしてきました。


「……あの、とがの、」


 そう、声をかけた直後のことです。


「申し訳ございません、細蟹さま」

「え、……――ッ!」


 うしろから男の手が伸び、細蟹の口をふさぎました。

 細蟹は身をよじって暴れましたが、男の力には敵いません。男は手のうちにくらくらする匂いの草を忍ばせており、それを細蟹に嗅がせます。

 とたんに頭の芯がぼやけ、膝から崩れ落ちました。


「……あ、」


 倒れる細蟹を、男の腕が抱きとめます。とがのはその男と、なにか低くことばを交わしているようでした。

 細蟹はそこまで耳にしたところで、ふっつりと気を途絶えさせました。



 目が覚めたとき、細蟹はそこが宮ではないと感じました。

 横たえられたむしろの手触り、部屋の匂い、気配のまろさ、なにもかもが異なります。

 宮と変わらぬほど上等のしつらえでありながら、このやかたにはあまり人がおらぬようです。部屋の中にはそういう硬さ、塵ひとつなく掃き清められたおごそかさがありました。


――この感じ、誰かに似ている……。


 細蟹はそう思いながら、身を起こしました。

 幸い、手足を縛られたり、傷をつけられたりはしていません。細蟹は耳をすませ、そっと床に這いつくばります。出口があるのか、ないのか、この部屋になにがあるのか――。

 探り探り手を伸ばしていると、外からささやき交わす声がしてきました。

 ひとりはかねを切るように高い男の、もうひとりはしろがねを打つように冴えた女の声です。男は女人を止めようとしているようでした。


「――比売ひめ様が、わざわざお出ましになることは……」

「くどい。出向くか否かはわたくしの決めること」

「は……」


 男が畏まったそのとき、部屋の戸が開けられました。

 細蟹は息をのみ、戸を開けた女人も一瞬あっけにとられたようです。しかしすぐさま、細蟹を上から下まで眺め下ろしました。

 そのまなざしは、どうやら見えている人の目です。久しくこうした目にさらされていなかった細蟹は震えました。


「……なんと、小さな比売だこと」


 女人が低くつぶやきます。

 男がその脇をすり抜け、手探りで細蟹の腕をつかみました。この男は目の見えない――つまり、かがよひに目を斬られた宮びとであるようです。


「おい、下民。控えよ。この御方は、汝とは比べものにならぬほどあてなるお血筋の――」

「よい。私が話す」


 女人はかがみ込み、細蟹の顎を手ですくい上げました。


「――っ、」

「あかるのみこを産んだ国母、細蟹ささがに比売ひめ。それはそなたのことで間違いないか?」


 細蟹はことばに詰まり、どう答えるべきか迷いました。頷くべきか、拒むべきか、どちらがあかるの身に障らぬのか。

 ですが女人は、考える隙もあたえず顎を絞めつけてきます。


「答えなさい。でなければまずこの髪を引きちぎる」


 まことに頭をわしづかみされ、細蟹は苦痛に口を開きました。


「……ッ、……さようです、わたしは細蟹……」

「そう」


 ふり払うように手を放され、床にまろび伏します。呻く細蟹をよそに、女人はすっくと立ち上がりました。

 そのたたずまいは夜のごとく、あるいは堂々たる鷹のごとく、ただそこにあるだけで人を黙らせる厳しさに満ちています。

 それで細蟹は、この部屋とこの女人が、誰に似ているのかわかりました。


――闇彦祇くらひこのかみさま。……そして黒海臣くろみのおみさま。


 ふたりに似た女人は、やはり夜の静けさをまとって言いました。


わたくし小夜さよ。第十一代大君、闇彦祇の姉にして黒海臣の正妻です」


 細蟹はその名に驚き、ほうけたように彼女を仰ぐしかできませんでした。


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