小夜比売(さよひめ)のはなし 一


 小夜さよは、おのれのことが嫌いでした。

 女として生まれた身が、憎くてならなかったのです。なぜならば女には、世継ぎの位が与えられないからでした。

 小夜は、大君の一族に生まれた女王ひめみこです。

 お父君はみことおっしゃり、大君明時祇あかときのかみとは母君違いの弟御です。このお血筋からすれば、もしかしたら小夜のお父君こそが、大君の座に就かれる道もあったやもしれません。

 ですが、よひの王は病がちでいらっしゃいました。それゆえに、強くお健やかなみこが、たかくらへお登りになったのです。

 よひの王は、おやさしい方でした。女の小夜が生まれたときも、疎んじたり落胆したりはなさいませんでした。

 むしろ女であるがために、いっそう小夜におやさしく在られたのです。しかし小夜は、そのようにいつくしまれることが嫌でなりませんでした。


――父上は、わたくしを憐れんでおられる。


 お父君がとこを起き、幼い小夜のつむりをお撫でになるとき。

 お父君は乾いた咳をなさりながら、いつも哀しげな御目をお向けになります。そのまなざしは、こう呟いていらっしゃるように聞こえました。


――この子が、小夜が、もしも男王ひこみこであったなら……。


 ですが、お父君には男の御子もいらっしゃいます。

 小夜よりもふたつ下の弟である、くらひこのみこです。ところが小夜は、この弟では大君になれはしまいと思っていました。


――くらひこは、心根が細かすぎる。


 くらひこの王はまじめですが、それゆえに張りつめすぎるところがあります。人の噂や目にも弱く、国を背負って立つうつわではないと感じていました。


――くらひこには力が足りぬ。父上は、おからだが弱い。ならば父上のお血筋は……。


 小夜はそこまで考え、おのが心に誓いました。

 すなわち、小夜自身がお父君の血筋を守ることを。世継ぎになれぬ女のならいなど覆して、おのれこそが大君の座に就くことを。



 *



 しかし、小夜が思う以上に、女の身は厭わしきものでした。

 女にも大君の位をと、小夜がいくら叫んだところで聴き入れられません。宮びとたちは渋い顔をし、あるいは女童めわらわたぶれごとと侮って笑いました。

 ひそかに味方を増やそうとして動いても、やはりほほ笑んで諭されます。

 比売ひめ様、女人はじっとしているのが何よりなのです。年ごろになれば夫を迎え、子を産み、家の中を治めて過ごす。それが女人の役目なのです。幸せなのです。そのほかの道などございませぬ。

 そのようなことを、男のみならず女たちまでが言うのです。小夜はそれを聴き、血が出そうなほどに唇を噛みしめました。


――わたくしは、さような女には落ちぶれぬ。決して、……決してなりはせぬ。


 ところが、その矢先です。

 小夜が十二の歳を迎えたころ、お父君の御病が、とうとう危篤にわかなるものとなりました。

 限りを悟ったよひの王は、御枕元へ近しい者たちをお寄せになります。そうして苦しい息の合間から、ご遺言をお述べになりました。


「みな、むつまじく、……力を合わせて暮らすのだよ」


 よひの王は、まずそのように戒めました。

 それから妻やそば仕えの者らをねぎらい、小夜とくらひこの行く末を案じます。みこは、みなにくらひこを支えるよう頼んだあと、小夜のことを口にしました。


「小夜。そなたは賢く、聡き者に嫁ぎなさい。私は黒海のむすこに……佐弥さやびこにそなたを託す」

「――父上ッ?」


 小夜の声は、周囲のどよめきにかき消されました。

 これまで、よひの王が小夜の婚姻について語ったことはなかったのです。みながささやきを交わす中で、ひとり体躯のよい男が進み出ました。


みこ様」

多知たちひこ。……頼むよ、小夜のことを」


 男は、黒海臣くろみのおみ多知たちひこといいます。よひの王の護衛をつとめていた男で、先ほど話に出た佐弥彦の父でした。

 多知彦は眉を寄せ、ふるえる王の手を握ります。王はうっすらと笑み、多知彦を見つめました。


「そなたのむすこにならば、小夜を託せる」


 その直後、よひの王の御手から力が抜けました。お顔からはみるみるうちに血の気が失せ、みながくちぐちに叫びを上げます。

 小夜はそのあわただしい渦に呑まれながら、独り遠いところに座していました。

そうして、こぶしを握りしめました。



 *



わたくしは、嫁ぎません」


 小夜は、もう幾度となくくりかえした断りを口にします。途端に、そば仕えの女官たちがうんざりと舌を出しました。

 小夜と対する多知彦は、こうじた顔で頭を掻きます。


「とは申されましてもなあ、比売様。これはお父君のご遺言にございます。そのうえもはや、お父君の喪も明けてからひととせと半。そろそろ、御身のことを考えられてもよい頃合いでございますぞ」

「しかし母上は、いまだ父上を弔うて暮らしておられます」


 小夜はそのように言い返しました。

 お父君であるよひの王がまかられてから、すでに四年と半年が経っています。とせと定められていた喪も明けて、みな、哀しみが薄らいできた時分です。

 ですが、小夜のお母君――すなわち、よひの王の奥方であった水輪刀自売みなわのとじめは違いました。

 刀自売はよひの王がお隠れになったすぐあとに、宮を出ていってしまったのです。小夜とくらひこを残したまま、お独りで山里に籠もってしまわれたのでした。

 それからというもの、刀自売はずっと、夫君の死を弔っておいでです。お母君がそうでいらっしゃるのに、小夜には弔いが許されぬのでしょうか。

 そう問いつめれば、多知彦は嘆息しました。


「比売様のお母君は、夫君を亡くされたのだからよいのです。奥方は、むしろ夫君のたまをお慰めするつとめがございます。しかし比売様はご息女です、お若く先のある女人です。亡き人の弔いよりも、おのが身のことを考えて生きてゆかれねばなりません」

「別にわたくしは、弔いに捧げる生でもかまいません。何を重んじて生きるかは、私の決めることです」


 誰かに指図されて生きる生など、まっぴらです。小夜はまだ、大君の座に就く望みをあきらめてはいませんでした。

 小夜は口を開きかけた多知彦を制し、立ち上がります。


「それに私は、いまだ女のしるしが来ておりませぬ。これでどうして嫁がれましょうか?」


 お引き取りを、と静かに告げれば、多知彦はむうと呻いてうつ伏しました。

 やがて多知彦が立ち去るのを待ってから、小夜も歩き始めます。女官があわてて追ってきました。


「比売さま!」

「追わぬでよい。禊をしにゆくだけだ」


 小夜は手で払うしぐさをし、庭に下ります。そのまま、小川に沿って北へさかのぼりました。

 そのうちに泉があらわれ、衣のままに踏み入ります。しろがねの砂が膚(はだ)を撫でてゆくように、なめらかな冷たさに包まれました。

腰まで浸かると、ずんと胎の奥が冷えてきます。小夜はため息をつき、力を抜きました。


――そうだ、私は女になどならない。なりたくもない。


 ゆえにこそ、こうして水に浸かるのです。胎を冷やし続けていれば、月のものが来ずに済むやもしれぬと考えたからでした。


――月のものが来てしまえば、私はきっと嫁がされる。


 そうなる前に、大君の座を奪いたい。

 それが小夜の望みでした。この望みを果たすために、財や兵を蓄えてもきています。あと少し時があれば、機も満ちようと思われました。


――どうか、天の星々よ。


 小夜はそう祈り、水を両の手にすくいます。流れるしずくはきらきらと、天翔ける 星々のごとくきらめいておりました。



 *



 しかし、小夜の祈りは通じませんでした。

 十七の歳を迎えたその日、小夜に月のものが来たのです。夜明けに寝床を立った瞬間、ぬるりとしたものが股を伝い落ちました。


「――!」


 小夜は青ざめ、おそるおそる股ぐらに触れます。

 途端に、血の臭いのする粘りけがまといつきました。小夜はうろたえ、しかしとっさに、枕元の領巾ひれを掴んで引き裂きます。


――とにかく、この血を隠さねば……。


 領巾をたふさぎのように巻き、胎ごと塞げよとばかりに締めつけます。

 そうしてなに食わぬ顔で起き出したのですが、女のしるしはすぐさま知られてしまうところとなりました。小夜の裳裾を見た女官が声を上げたのです。


「まあ、比売さま! とうとう月のものが――」


 女官は、小夜の腰から下を大きな布で隠しました。どうやら、月の血が衣に染みついてしまっていたようです。

 小夜がはっとしたときには、もうほかの女官たちが駆けつけておりました。女官たちは目をかがやかせ、小夜を座らせてはつぎつぎと物を持ち込みます。

 胎をあたためる葛湯に、あまづらの蜜。それからぬくめた石を懐に入れさせられ、肩にはおりまでかけられました。

 小夜はいらぬと抗いましたが、かようなときの女人たちは他人ひとの言うことなど聴きません。またたく間に、小夜が女となったことは宮じゅうへ知れ渡っておりました。

 それはすなわち、小夜が嫁げる身になったと明かされることでもありました。そば仕えたちは浮かれ騒ぎ、多知彦もやってきます。小夜はきびしく見張りをつけられ、月のものが去るまで部屋に籠められました。

 そして障りの済んだ晩、夫となる男が、小夜の枕辺へやってくることになりました。

 小夜が逃げ出さぬよう、周囲が急いで手を回したようです。いちど契ってしまえば気も変わろうというたくらみが、ひしひしと感じられました。


――変わるものか。このわたくしが。


 小夜は胸を張り、ふるえを押し殺して端座します。

 いかな男が訪れようとも、ほしいままにされる気はありません。たとえ身を明け渡すことになったとて、小夜の心までは誰にも犯せないのです。


――いざとなれば、このかんざしで……。


 小夜は手のうちに、鋭く研いだ簪をしのばせていました。男が無体を強いれば、これで相手を刺すつもりです。

 そうして息をひそめていると、ほとほとと戸を叩く音がしました。


「失礼いたします、小夜比売様。黒海臣くろみのおみ佐弥さやびこと申します」

「……お入りなさい」


 入ってきた男は、入り口のすぐそばで叩頭み伏しました。そうして、青銅あおがねのごとく若々しい声を響かせます。


「お久しゅうございます。こたびは畏れ多くも勿体なき御役目をつかまつり、ありがたく存じます」


 そう顔を上げた相手は、小夜が覚えているよりも、りりしく長じていました。

 以前近くでまみえたのは、小夜のお父君の弔いがあったときでしょうか。佐弥彦はくらひこの乳兄弟であるので、そうした場にも侍っていたのです。

 男と女ということもあり、小夜とはあまり話をしなかったものの、姿ならば見知っていました。むかしから落ち着いた童でしたが、十五となったいまはいっそう、静かな重みが加わったように見受けられます。


――くらひこよりは、骨のある男であろうか……。


 小夜はそのように眺めつつ、礼を返しました。


「ねんごろな礼をいただき、痛み入ります。どうぞ楽になされませ」

「恐れ入ります」


 佐弥彦は頭を下げましたが、足を崩そうとまではしませんでした。小夜は眉をひそめます。


「くつろげませぬか」

「ああ、……いえ」


 佐弥彦は目をしばたたかせ、口ごもりました。そういう顔をすると、齢どおりの若者らしく見えます。佐弥彦は、きまりが悪そうにうつむきました。


「まさか、私のようにしがない男が、小夜比売様の婿となるとは思いませんでしたゆえ……。いささか狼狽しております」

「さようですか」


 小夜は頷き、佐弥彦を窺うようにしました。

 偽りを言えるほど物慣れた男とも思えませんが、まことの気持ちかどうかはわかりません。小夜はまだ、それを見分けられるほどに近しい間柄ではないのです。


――少なくとも、いきなり女に手をかける下種げすではないようだが。


 小夜はそこまで考え、目を伏せました。


「突然のなりゆきとなり、佐弥彦様が戸惑われるのも無理からぬこと。まずはひと晩、お休みなされませ。あとはともに、少しずつ慣れてまいりましょう」

「かたじけない」


 佐弥彦は、小夜が整えた寝床に横たわりました。

 小夜もそのかたわらに添いますが、とうてい眠りにはつけません。佐弥彦も同じらしく、互いに互いを探っているような気配が感じられます。

 小夜は背を向け、手のうちに隠した簪を撫でました。


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