小夜比売(さよひめ)のはなし 二
佐弥彦との婚姻は、冷ややかに凪いだものでした。
小夜は宮を出、都の東に
――あの男は、くらひことはまた別にまじめすぎる。
どうやら佐弥彦は、いつまで経っても、小夜に対して腰が引けているようでした。
大君の一族を
――しかしひとまずは、夫という隠れ蓑があるのはよい。
妻として従う
――
いまの大君である明時祇は戦を好み、ほとんど宮に留まっていることがありません。おかげで多くの
いまこそ明時祇の力で抑え込んでいるものの、かの御方が崩じれば、どうなるやもわかりません。小夜は、そのときこそが機であろうと睨んでいました。
――あと数年。おそらく、あと数年の時を待てば……。
そして小夜のこの読みは、たしかに的中したのでした。
*
「――くらひこがか?」
小夜は、部屋に呼んだ
「はい。明時祇様がお倒れになってからというもの、くらひこの
「……、」
――あの弟が、みずから動くとは。
小夜は、思いがけぬ心地がしました。まさか弟のくらひこが、武に訴えてこようとは考えていなかったためです。
佐弥彦と婚姻を為してから、すでに
この三年半、小夜はおのれの舘で暮らしながらも、宮のすみずみに目や耳を張りめぐらしておりました。幾人もの間諜を放ち、様子を窺わせていたのです。
その間、国はゆっくりと熟しきり、腐る寸前までふくれ上がってきていました。
この
小夜としては、待ちに待っていた好機です。いつ大君崩御の報せがあるか、あるいはこちらから手を下すか、獣が爪を砥ぐように構えていました。
ところがそのさなか、間諜が先の報せを持ってきたのです。なんと弟のくらひこが、明時祇の病を受けて動き出したというのでした。
――あけぼのとの仲が、いよいよ悪しくなってきたか……。
小夜は顎に手をやり、そのように考えました。
以前からくらひこは、いとこのあけぼのの
というよりも、くらひこのほうが、あけぼのを避けたがっているふうです。くらひこは、あけぼのの王に気後れしているようなところがありました。
――あけぼのは、くらひことはまったく違う男であるから。
「――……、」
小夜はしばし黙し、それから
「そなた、
「かしこまりました」
間諜はこうべを垂れ、かき消えるようにいなくなります。小夜はそのなごりを感じながら、遠き宮にいる弟のことを思いました。
――そなたに、この国を治められるか? くらひこよ。
もしもくらひこが、大君の位を覆せるだけの男であれば、小夜もその手を掴みましょう。
くらひこを大君の座に就かせ、小夜はその後ろ盾となってまつりごとを操るのです。じかに高御座へは座せずとも、こうしたやり方で大君となることはできると考えたのでした。
――さあ、そなたはいかに動くだろうか。
天から小鳥を狩る鷹のように、小夜は弟へ問いかけました。
*
その日、佐弥彦はもはや夜明けともいえる刻限に、小夜の舘を訪れました。
佐弥彦が庭に入った瞬間、草木までもが鋭くそそけ立ったかのようでした。佐弥彦はそうした猛る気配をまとったまま、小夜のいる寝所までやってきたのです。
それを見越していた小夜は、なに食わぬ顔で夫を迎えました。
「おかえりなさいませ」
「……ああ、」
佐弥彦は、疲れきったおももちで座しました。身につけた鎧から、濃い血の臭いがただよいます。
小夜は手布を持ち、鎧に飛んだ返り血を拭いました。佐弥彦が頭を下げます。
「かたじけない」
「いえ」
つねの佐弥彦ならば、決して小夜にかようなことをさせなかったでしょう。むしろ血の穢れを厭い、退いたはずです。
しかしいまの佐弥彦は、そこまで気が回っていない様子でした。ぼんやりと力を抜き、小夜が鎧を解いてゆくのに任せています。
やがて佐弥彦は、迷い子のように呟きました。
「……くらひこ様が、……」
「はい」
「くらひこ様が……、
「はい」
小夜はすでに知っていました。
そしてこれを機に、くらひこはあけぼのの
あけぼのから次なる大君の座を奪い、第十一代大君
夫である佐弥彦は、闇彦のそばですべてを目にしていたはずです。いま、その夫は手で顔を覆って嘆息しました。
「闇彦祇様は、大君となられました。だが私は、これでよかったのかわからない……」
「なぜですか。わが弟が
問いかけると、佐弥彦は弱く首をふりました。
「否、これは喜ばしいことです。……喜ばしいことのはずなのです。しかし闇彦祇様には、大君の
佐弥彦はそう告げて、あけぼのの王を討ったあとのことを語りました。
くらひこ自身が、こたびの始末を最も悔いているようだったこと。佐弥彦に、私を殺せと頼んだこと。子も、孫すらも、国の
「闇彦祇様は、……すでに、ご自身の死のみを見つめていらっしゃるように思われます」
「――」
「私には、そのことが痛ましい……」
そこまでを聴き、小夜はため息をつきたくなりました。佐弥彦のひととなりが、新たに少し見えたからです。
――この男は、情けが深い。かといって、情におぼれきるほどの弱さもない。
おそらく佐弥彦は、闇彦の
ですが、きっと弑したあとで悔やむのでしょう。呻くのでしょう。佐弥彦は、まことには人を殺すことを割り切れぬ男なのだろうと思われます。
小夜は息をつき、佐弥彦にいらえました。
「弟がさように愚かなのであれば、弑すればよいでしょう。あるいは貴方が、闇彦を善き大君として導いてゆけばよい。そうであるのに、なにを嘆くことがあるのです?」
「――なんですと?」
佐弥彦が顔を上げます。そのまなざしは鋭く、あたりは冬の野のごとく張りつめました。
「小夜比売様は、じかに闇彦祇様をご覧になっていらっしゃらぬゆえ、さように仰れるのです。弑するや弑さぬやと、ことはそう容易なるものではございませぬ」
その言い方に、小夜も顔をしかめました。
――
男の世は、まつりごとは、いままでさんざん、近づこうとしても近づけなかった場です。
であるのに、小夜が責められる
「私にとっては、弑するも弑さぬもたやすいことです。それがたやすくないというのは、佐弥彦様の力足らずなのでしょう」
「――ッ、」
佐弥彦は目を見開き、小夜を押し倒しました。
しかし、小夜の手を掴んだ指はふるえています。佐弥彦は歯を食いしばり、怒りと苦しみの狭間で揺れているようでした。
小夜はそれを見、ふとさざ波めいたものを覚えます。
――この男が、女人であれば……。
そして小夜が、
そうであったら、小夜は佐弥彦を愛せたのやもしれません。夫として妻として、互いをいつくしめたのやもしれません。
ですが小夜は女であり、佐弥彦は男なのです。
そのやるせなさに、小夜は目を細めました。そうして、佐弥彦の胸ぐらを引き寄せます。
佐弥彦は抗わず、泣くような怒るような顔をして応じました。唇が重なったその瞬間だけ、小夜はかすかに、針で刺されるような痛みを感じます。
おそらくそれは、夫への愛というものであったのでしょう。妻としての小夜が持つ、わずかな情けであったのでしょう。
小夜は女の身を憎み、しかしいまこのときだけは、女のわが身を受け入れてもおりました。
それから、静かに目を閉じました。
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