小夜比売(さよひめ)のはなし 二


 佐弥彦との婚姻は、冷ややかに凪いだものでした。

 小夜は宮を出、都の東にやかたを構えました。夫である佐弥彦は、この舘に通います。佐弥彦の部屋もありますが、彼はさほど舘に留まろうとはしませんでした。


――あの男は、くらひことはまた別にまじめすぎる。


 どうやら佐弥彦は、いつまで経っても、小夜に対して腰が引けているようでした。

 大君の一族をめとったことに、気兼ねと戸惑いを抱いているらしいのです。それがためにか、佐弥彦は小夜に触れもせず、夫として威をふるうこともありません。御しやすくはありますが、逆に張り合いもないのでした。


――しかしひとまずは、夫という隠れ蓑があるのはよい。


 妻として従うさまを見せていれば、周りも気をゆるめます。小夜はいまだに、大君の座を狙っていました。


――明時祇あかときのかみも、もはや四十五。戦に次ぐ戦で、国は疲れ始めてもいる……。


 いまの大君である明時祇は戦を好み、ほとんど宮に留まっていることがありません。おかげで多くの異民えみし南蛮くまそを説き伏せましたが、そのぶん、国は大きくなりすぎてもいました。

 いまこそ明時祇の力で抑え込んでいるものの、かの御方が崩じれば、どうなるやもわかりません。小夜は、そのときこそが機であろうと睨んでいました。


――あと数年。おそらく、あと数年の時を待てば……。


 そして小夜のこの読みは、たしかに的中したのでした。



 *



「――がか?」


 小夜は、部屋に呼んだ間諜うかみのことばをくり返しました。間諜は片膝を立て、かしこまって頷きます。


「はい。明時祇様がお倒れになってからというもの、くらひこのみこ様は、ひそかに兵を動かしておられるご様子です」

「……、」


――あの弟が、みずから動くとは。


 小夜は、思いがけぬ心地がしました。まさか弟のくらひこが、武に訴えてこようとは考えていなかったためです。

 佐弥彦と婚姻を為してから、すでにとせと半年が過ぎていました。

 この三年半、小夜はおのれの舘で暮らしながらも、宮のすみずみに目や耳を張りめぐらしておりました。幾人もの間諜を放ち、様子を窺わせていたのです。

 その間、国はゆっくりと熟しきり、腐る寸前までふくれ上がってきていました。

 このがいよいよ弾けたのは、十日ほど前。明時祇がいくさで傷を受け、病に伏してからのことです。明時祇というしるべを失いかけた国は、いま混迷の中にありました。

 小夜としては、待ちに待っていた好機です。いつ大君崩御の報せがあるか、あるいはこちらから手を下すか、獣が爪を砥ぐように構えていました。

 ところがそのさなか、間諜が先の報せを持ってきたのです。なんと弟のくらひこが、明時祇の病を受けて動き出したというのでした。


――あけぼのとの仲が、いよいよ悪しくなってきたか……。


 小夜は顎に手をやり、そのように考えました。

 以前からくらひこは、いとこのみことの仲がよくありませんでした。

 というよりも、くらひこのほうが、あけぼのを避けたがっているふうです。くらひこは、あけぼのの王に気後れしているようなところがありました。


――あけぼのは、くらひことはまったく違う男であるから。


 明時祇あかときのかみの御子であるあけぼのの王は、花を食む春鳥のごとく、うるわしい若者です。くらひこにはない華やぎがあり、くらひこはそれゆえに、あけぼのを苦く思っているのではないかと見受けられました。


「――……、」


 小夜はしばし黙し、それから間諜うかみに命じました。


「そなた、わたくしの兵を率いてゆきなさい。ひそかにくらひこの兵たちにまぎれ込み、くらひこのみこをお助けしなさい」

「かしこまりました」


 間諜はこうべを垂れ、かき消えるようにいなくなります。小夜はそのなごりを感じながら、遠き宮にいる弟のことを思いました。


――そなたに、この国を治められるか? くらひこよ。


 もしもくらひこが、大君の位を覆せるだけの男であれば、小夜もその手を掴みましょう。

 くらひこを大君の座に就かせ、小夜はその後ろ盾となってまつりごとを操るのです。じかに高御座へは座せずとも、こうしたやり方で大君となることはできると考えたのでした。


――さあ、そなたはいかに動くだろうか。


 天から小鳥を狩る鷹のように、小夜は弟へ問いかけました。



 *



 その日、佐弥彦はもはや夜明けともいえる刻限に、小夜の舘を訪れました。

 佐弥彦が庭に入った瞬間、草木までもが鋭くそそけ立ったかのようでした。佐弥彦はそうした猛る気配をまとったまま、小夜のいる寝所までやってきたのです。

 それを見越していた小夜は、なに食わぬ顔で夫を迎えました。


「おかえりなさいませ」

「……ああ、」


 佐弥彦は、疲れきったおももちで座しました。身につけた鎧から、濃い血の臭いがただよいます。

 小夜は手布を持ち、鎧に飛んだ返り血を拭いました。佐弥彦が頭を下げます。


「かたじけない」

「いえ」


 つねの佐弥彦ならば、決して小夜にかようなことをさせなかったでしょう。むしろ血の穢れを厭い、退いたはずです。

 しかしいまの佐弥彦は、そこまで気が回っていない様子でした。ぼんやりと力を抜き、小夜が鎧を解いてゆくのに任せています。

 やがて佐弥彦は、迷い子のように呟きました。


「……くらひこ様が、……」

「はい」

「くらひこ様が……、闇彦祇くらひこのかみ様となられました」

「はい」


 小夜はすでに知っていました。

 昨晩ゆうべ、宮では第十代大君明時祇あかときのかみがお隠れになりました。つ月にも渡る長わずらいの末、とうとうまかられたのです。

 そしてこれを機に、くらひこはあけぼののみこを討ちました。

 あけぼのから次なる大君の座を奪い、第十一代大君闇彦祇くらひこのかみと成ったのです。小夜は間諜うかみのもたらした報せによって、このことを知っていました。

 夫である佐弥彦は、闇彦のそばですべてを目にしていたはずです。いま、その夫は手で顔を覆って嘆息しました。


「闇彦祇様は、大君となられました。だが私は、これでよかったのかわからない……」

「なぜですか。わが弟がたかくらに登ったこと、佐弥彦様は喜ばしくないのですか」


 問いかけると、佐弥彦は弱く首をふりました。


「否、これは喜ばしいことです。……喜ばしいことのはずなのです。しかし闇彦祇様には、大君のくらいは――重すぎるものであるやもしれません」


 佐弥彦はそう告げて、あけぼのの王を討ったあとのことを語りました。

 くらひこ自身が、こたびの始末を最も悔いているようだったこと。佐弥彦に、私を殺せと頼んだこと。子も、孫すらも、国のあだとなるならば殺してくれと。


「闇彦祇様は、……すでに、ご自身の死のみを見つめていらっしゃるように思われます」

「――」

「私には、そのことが痛ましい……」


 そこまでを聴き、小夜はため息をつきたくなりました。佐弥彦のひととなりが、新たに少し見えたからです。


――この男は、情けが深い。かといって、情におぼれきるほどの弱さもない。


 おそらく佐弥彦は、闇彦のめいならば受けるでしょう。殺めよと言われれば、闇彦を弑することも厭わぬはずです。

 ですが、きっと弑したあとで悔やむのでしょう。呻くのでしょう。佐弥彦は、まことには人を殺すことを割り切れぬ男なのだろうと思われます。

 小夜は息をつき、佐弥彦にいらえました。


「弟がさように愚かなのであれば、弑すればよいでしょう。あるいは貴方が、闇彦を善き大君として導いてゆけばよい。そうであるのに、なにを嘆くことがあるのです?」

「――なんですと?」


 佐弥彦が顔を上げます。そのまなざしは鋭く、あたりは冬の野のごとく張りつめました。


「小夜比売様は、じかに闇彦祇様をご覧になっていらっしゃらぬゆえ、さように仰れるのです。弑するや弑さぬやと、ことはそう容易なるものではございませぬ」


 その言い方に、小夜も顔をしかめました。


――わたくしが、闇彦のまことを知るはずもない。私は女で、男の世からは遠ざけられてきたのだから。


 男の世は、まつりごとは、いままでさんざん、近づこうとしても近づけなかった場です。

 であるのに、小夜が責められるわれなどありません。小夜は顎を上げ、腹からあふれ出るもやをまとわせるように告げました。


「私にとっては、弑するも弑さぬもたやすいことです。それがたやすくないというのは、佐弥彦様の力足らずなのでしょう」

「――ッ、」


 佐弥彦は目を見開き、小夜を押し倒しました。

 しかし、小夜の手を掴んだ指はふるえています。佐弥彦は歯を食いしばり、怒りと苦しみの狭間で揺れているようでした。

 小夜はそれを見、ふとさざ波めいたものを覚えます。


――この男が、女人であれば……。


 そして小夜が、男王ひこみことして生まれていれば。

 そうであったら、小夜は佐弥彦を愛せたのやもしれません。夫として妻として、互いをいつくしめたのやもしれません。

 ですが小夜は女であり、佐弥彦は男なのです。

 そのやるせなさに、小夜は目を細めました。そうして、佐弥彦の胸ぐらを引き寄せます。

 佐弥彦は抗わず、泣くような怒るような顔をして応じました。唇が重なったその瞬間だけ、小夜はかすかに、針で刺されるような痛みを感じます。

 おそらくそれは、夫への愛というものであったのでしょう。妻としての小夜が持つ、わずかな情けであったのでしょう。

 小夜は女の身を憎み、しかしいまこのときだけは、女のわが身を受け入れてもおりました。

 それから、静かに目を閉じました。


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