小夜比売(さよひめ)のはなし 三


 遠くで、兵たちのどよもす声が沸き起こります。

 そこで小夜は、ひっそりと目を開きました。おのれのやかたの、夫の部屋です。しかしいま佐弥彦の姿はなく、代わりにとした足音が近づきました。


「失礼をいたしまするぞ、小夜比売様――」


 かねを切るような声とともに、背の低い男が入ってきます。名を阿多臣あたのおみといい、元は闇彦の舎人とねりであった男です。

 阿多臣は毛を逆立てた痩せぎつねのごとく、落ち着かぬ様子で座しました。


「いよいよ、戦が始まってございます。小夜比売様のお力添えで、憎き黒海臣を討ち果たすときがまいりました」


 阿多臣は、かつて両の目を斬られて潰されています。その腐り落ちたようなまなこを見開き、ぎらぎらとした目を向けました。


「小夜比売様のお指図どおり、これより兵を宮へ向かわせます。武具、隊列、陣形すべて、欠けのない備えです」

「さようですか」


 小夜は静かに頷きました。阿多臣は肩をいからせ、昂ぶった様子のまま呟きます。


「そう、いよいよにございます。いよいよですぞ――」


 ぶつぶつと呟くさまは、なにかに憑りつかれたもののようです。小夜は、そうした男を冷ややかに眺めていました。


――醜い男だ。


 阿多臣は、おのれをひけらかすことの好きな男です。闇彦に仕えたころから、舎人の位を笠に着ては、声高に騒ぎまわっていました。


――煩わしいが、なまじ古い家柄であるゆえに難儀だった。


 阿多の一族は、古くから大君に仕えてきた者たちです。

 この家から枝分かれしてできた族もいくつかあり、こうしたしがらみゆえに、たやすくは誅することのできぬ相手でもありました。


――だが、さすがに放りおけぬ。


 小夜が初めてそう考えたのは、とせ近く前。

 闇彦のむすこ、かがよひのみこ耀日祇かがよひのかみとして即位したころのことです。父を弑して大君となった耀日祇は、その罪の重さゆえに狂いました。

 そして阿多臣は、狂った耀日祇を害そうとしたようです。

 誰かが間諜うかみを使い、耀日祇に血濡れの剣を持たせたのです。それを阿多臣の仕業と考えた小夜は、わざとこの男に近づきました。


「ともに、世を変えたくはないか」


 そのようにささやいて、阿多臣の考えを量ったのです。


わたくしもいまの世に飽いた。大君は狂い、わが夫はその跡目を狙ってまつりごとを為している。かような世は嘆かわしい。乱れたこの世を、そなたとともに正したい」


 こう告げれば、阿多臣は喜びいさんで話し始めました。

 やはり阿多臣が、耀日祇に剣を渡したこと。耀日祇に宮を襲わせ、かみをまことの物狂いとして陥れる気であったこと。その後は妃の細蟹比売を、ひいては胎の御子を擁して立つつもりであったこと。

 阿多臣は訊いていないことまで喋り続け、最後に小夜へ叩頭み伏しました。


「かけまくも畏き国のすみろしめ給う、君なる小夜比売様に申し上げます。いざいざ、尊きお力をお恵みください――」


 小夜はそのつむじを見下ろし、頷きました。


「承知した。私は、私の為すべきことを為そう」


――この男を、阿多の家を、死者の世へ引きずり込む。それが私の為すべきこと。


 小夜が大君の座を欲した幼い日から、すでに三十以上の年月が過ぎています。

 しかし、小夜は結局、大君にはなれませんでした。ぐつにしようとした弟も、大君の位を得て狂いました。さらには、そのむすこである耀日祇までも。

 こうした流れを眺め続けてゆく中で、小夜はひとつの考えに至りました。


――この国は、変わろうとしている。


 大君は狂い、後継ぎのみこもただひとりしかおりません。まつりごとはくらの鏡によるものではなく、佐弥彦がみずからの知恵と足とで為すものになっています。

 血筋にしろ権威ちからにしろ、いまあるものが壊れゆこうとしているのです。大君の一族が、いまにも滅ぼうとしているのです。


――ならば壊そう。いちど壊して、その先へ繋げよう。


 古きいまの世の穢れをすすぎ、腐れた根を切り落として。

 そうしてなにもなくなったところから、ふたたび大君の血を始めるのです。


――耀日祇の子、あかるのみこ。あの男王ひこみこが生きる限りは、大君の血も生き延びる。


 あかるの王を守れれば、大君の血は続きます。小夜も、闇彦も、お父君の生きたあかしも、たしかに受け継がれてゆくのです。


――たとえ、わたくしの実の子ではなかったとしても……。


 それでもよい、と小夜は決めました。決めざるをえませんでした。なぜならば小夜はわが身を厭い、それゆえにか子をすこともできなかったのですから。


――だが、もはやすべては過ぎたこと。来し方にしがみつくよりも、私は私の為すべきことを為す。


 そのようにして、小夜は阿多臣の手を取ったのでした。

 この国の腐れた根を――阿多の一族をむしり取り、ともに死者の世まで引き連れてゆくために。


――これが私の、最後の情け。夫であった貴方に遺す、最後の呪いだ。……佐弥彦様。


 兵たちが、遠く鬨の声を上げています。地揺れのごときそのどよめきをかたわらに、小夜はふたたび目を閉じました。

 やがて訪れる、裁きのときを待ちながら。


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