小夜比売(さよひめ)のはなし 三
遠くで、兵たちのどよもす声が沸き起こります。
そこで小夜は、ひっそりと目を開きました。おのれの
「失礼をいたしまするぞ、小夜比売様――」
阿多臣は毛を逆立てた痩せぎつねのごとく、落ち着かぬ様子で座しました。
「いよいよ、戦が始まってございます。小夜比売様のお力添えで、憎き黒海臣を討ち果たすときがまいりました」
阿多臣は、かつて両の目を斬られて潰されています。その腐り落ちたようなまなこを見開き、ぎらぎらとした目を向けました。
「小夜比売様のお指図どおり、これより兵を宮へ向かわせます。武具、隊列、陣形すべて、欠けのない備えです」
「さようですか」
小夜は静かに頷きました。阿多臣は肩をいからせ、昂ぶった様子のまま呟きます。
「そう、いよいよにございます。いよいよですぞ――」
ぶつぶつと呟く
――醜い男だ。
阿多臣は、おのれをひけらかすことの好きな男です。闇彦に仕えたころから、舎人の位を笠に着ては、声高に騒ぎまわっていました。
――煩わしいが、なまじ古い家柄であるゆえに難儀だった。
阿多の一族は、古くから大君に仕えてきた者たちです。
この家から枝分かれしてできた族もいくつかあり、こうしたしがらみゆえに、たやすくは誅することのできぬ相手でもありました。
――だが、さすがに放りおけぬ。
小夜が初めてそう考えたのは、
闇彦のむすこ、かがよひの
そして阿多臣は、狂った耀日祇を害そうとしたようです。
誰かが
「ともに、世を変えたくはないか」
そのようにささやいて、阿多臣の考えを量ったのです。
「
こう告げれば、阿多臣は喜びいさんで話し始めました。
やはり阿多臣が、耀日祇に剣を渡したこと。耀日祇に宮を襲わせ、
阿多臣は訊いていないことまで喋り続け、最後に小夜へ
「かけまくも畏き国の
小夜はそのつむじを見下ろし、頷きました。
「承知した。私は、私の為すべきことを為そう」
――この男を、阿多の家を、死者の世へ引きずり込む。それが私の為すべきこと。
小夜が大君の座を欲した幼い日から、すでに三十以上の年月が過ぎています。
しかし、小夜は結局、大君にはなれませんでした。
こうした流れを眺め続けてゆく中で、小夜はひとつの考えに至りました。
――この国は、変わろうとしている。
大君は狂い、後継ぎの
血筋にしろ
――ならば壊そう。いちど壊して、その先へ繋げよう。
古きいまの世の穢れを
そうしてなにもなくなったところから、ふたたび大君の血を始めるのです。
――耀日祇の子、あかるの
あかるの王を守れれば、大君の血は続きます。小夜も、闇彦も、お父君の生きた
――たとえ、
それでもよい、と小夜は決めました。決めざるをえませんでした。なぜならば小夜はわが身を厭い、それゆえにか子を
――だが、もはやすべては過ぎたこと。来し方にしがみつくよりも、私は私の為すべきことを為す。
そのようにして、小夜は阿多臣の手を取ったのでした。
この国の腐れた根を――阿多の一族をむしり取り、ともに死者の世まで引き連れてゆくために。
――これが私の、最後の情け。夫であった貴方に遺す、最後の呪いだ。……佐弥彦様。
兵たちが、遠く鬨の声を上げています。地揺れのごときそのどよめきをかたわらに、小夜はふたたび目を閉じました。
やがて訪れる、裁きのときを待ちながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます