潮織りの比売(ひめ) 十二
「――まつりごとをお学びになりたい?」
下座についた黒海臣は、細蟹のことばを聴くなり絶句しました。
しかし細蟹はひるむことなく、あかるを抱いて頷きます。
「ええ。以前、黒海臣さまはわたしを国母とお呼びくださいましたでしょう? ならばわたし自身、その国母にふさわしい女人になりたいと思ったのです」
迷いなく言いきれば、黒海臣はむうと低く呻きました。細蟹はその惑う気配を、笑みすら浮かべて見守ります。
――さあ。黒海臣さまはどのように出られるかしら。
細蟹は張りつめた気持ちを隠し、凛然とほほ笑みました。そうした細蟹の胸を、あかるが不思議そうに叩いてきます。
星見の丘へ赴いた晩からは、すでに三日が経っていました。
細蟹はあのあとでさまざま考え、闘う決心をしたのです。あかるを守り、支える母となるために。世継ぎの
そのためには、もはやおのれひとりの心のうちへ閉じこもっているわけにはゆきません。外へ目を向け、国の根となるまつりごとのことを、もっと知らねばならないのです。
そう考え、細蟹はこうしてきょう、黒海臣を部屋に呼び寄せたのでした。
ばばさまは、黙って細蟹のそばに控えています。その居ずまいはつねと変わらず、どっしりとした大樹のようです。
細蟹はそれだけで心がくつろぎ、胸を張ることができました。黙する黒海臣に言いつのります。
「もちろん、黒海臣さまやほかの臣下の方々のお邪魔はいたしません。わたしはもともと、名もなきただの下民の女。身の丈に合わぬ力がほしいわけではないのです」
暗に、黒海臣と争う気はないのだと伝えます。
細蟹は、殺し殺される
――そうでなければ、きっといつか、あかるもかがよひと同じになってしまう……。
そう思い出だせば、乾いた骨の手ざわりがよみがえります。あかるをきつく抱きしめると、黒海臣がふかぶかと嘆息しました。
「まこと、細蟹様にはいつも驚かされます。……」
「黒海臣さま?」
そのようなことを言われ、細蟹こそ驚きます。ところが黒海臣はそれを否み、静かに膝を正したようでした。
「では畏れながら、
この断りは、つねに黒海臣の目を届かせておくためのものなのでしょう。
ですが細蟹は、それでもよい、ときっぱり顎を引きました。
「わかりました。そのお話、お受けいたします」
――たとえ見張りの目があっても、私が心に思うことだけは、誰も阻めやできないのだから。
そうであるならば、この身にまとう
それからというもの、細蟹はしばしば黒海臣を訪れるようになりました。
黒海臣は
また
やってくる臣下や女官の訴えを聴き、ものごとを裁き、あるいはみずから出向いて話をする――。
つねにこのような
そして宮びとたちは、かような黒海臣を半ば恐れ、半ば心頼みにしているようでした。
大君を弑した
黒海臣は遠巻きにされながら、いつも針で刺すように細かく行いを窺われていました。
――まつりごとの上に立つ人は、誰もがこういう目に陥ってしまうものなのかしら……。
細蟹は黒海臣のうしろに控え、そんなことを思います。
かがよひも、そのおとうさまである
宮という場には、こうして人を弱らせる力があるようです。黒海臣とて、いつ坂を転がり落ちるやもしれません。
そう考えれば、細蟹はあかるを思ってひやりとしました。
――あの子を、決してこんな目に遭わせたくない。
ゆえに細蟹は、あかるを連れて宮の中を出歩くことにしました。
みな、相手のことを知らぬから恐れるのです。向こうが遠巻きにするのなら、かえってこちらから近づいてみようと考えたのでした。
きょうもそうして部屋を出ると、外にいた兵士が足音を聞きとがめました。
「細蟹様」
低く、土笛を鳴らすようなひそかな声です。彼は
おそらく黒海臣よりはいくらか若い、二十七、八といったところでしょうか。駒は朝晩、こうして影のごとく細蟹の部屋を守っています。
駒の声には咎める響きがありました。しかし細蟹は、ほほ笑んでかわします。
「あなたが、ともに来てくださるのでしょう。それでしたら案ずることなどありません」
「……承りました」
もう幾度もくりかえしたやりとりです。細蟹がこう言えば、駒はかならず引き下がりました。
以前、細蟹が部屋に籠められていたのは、かがよひの死の真相を悟らせぬためだったようです。その覆いが取れたいまは、割合に遠慮なく動けています。
細蟹は駒を
「珠の子の 若やる
そうして回廊を歩いてゆけば、あかるは朗らかに笑います。春の風が立つように、花がころころと舞うように。
細蟹はその陰で、こちらを見つめる多くのまなざしを感じました。
部屋の、柱の、あるいは庭の、いずこかにひそむ宮びとたち。彼らは
それでも細蟹は顎を上げ、いっそう声を高くしました。
――屈することなど、なにもないわ。この子は光。人々の心を明るませる、新たな
そう信じれば、怖いことなどありませんでした。
そして細蟹のこのふるまいは、たしかに、少しずつ雪どけをもたらしていったのでした。
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