黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十七



 細蟹比売が黒海臣を呼んだのは、翌日あくるひのことでした。

 黒海臣はその部屋へ参じながら、思いがけぬ心地がします。


――ご決断が、ずいぶんと早い。


 こたびの縁組みについて、黒海臣は、あかるのみこの立太子礼までに決めてもらえればよいと告げていました。

 昨日の様子を窺っても、細蟹比売がこれほど早く答えを出すとは思わなかったのです。


――それともまた何か、こちらを仰天させることでも言い出すのであろうか……。


 これまで、比売と話をするときは、つねに驚かされてばかりでした。きょうもそうなるのであろうかと、黒海臣は嘆息して戸の前に畏まります。


「細蟹様。黒海臣にございます、参上仕りました」

「どうぞ」


 すぐさま、落ち着いた声でいらえがありました。黒海臣は頭を下げ、戸をくぐります。


「失礼いたします」


 部屋は人払いがしてあるようでした。冷えびえとした匂いのただよう中、細蟹比売がひっそりと口を開きます。


「忙しいところ、ご足労をかけましたね」

「いえ。細蟹様のご命とあらば」


 礼を取れば、細蟹比売は哀しげにほほ笑んだようでした。それから静かに背を正します。


「昨日のこと、ここでお答えをいたします」

「はい」

「黒海臣様のお話、お受けいたしましょう。あなたさまを、わたしの婿として迎えます」

「……よろしいのですか?」


 黒海臣は、思わず訊き返してしまいました。ですが細蟹比売は迷うことなく、きっぱりと頷きます。


「よいのです。あかるを守るためならば、わたしは黒海臣さまに従います」

「――、」


 比売の口ぶりは、いたわしいほどに澄んでいました。

 根雪の下から葉を伸ばしゆく篠竹しののごとく、きよらかな嬢子おとめだけが持つ気高さです。黒海臣は、知らず詰めていた息を吐きました。


――細蟹様にとってのあかるのみこ様は、私にとってのこの国なのだ。


 なにに代えても守りたいもの。どれほどのかばねをつくり、血を流してでも為すべきもの。

 それが細蟹比売にとっては、あかるの王そのものなのです。黒海臣はまざまざとそのことを知り、おのずとこうべを垂れました。


「承知いたしました、細蟹様。どうかわたくしとともに、この国をお守りください」

「むろん、そのつもりです」


 細蟹比売は凛とした声でいらえます。その声には、もはや小さなむすめのおもかげなどありません。

 黒海臣は唇を引き結び、おのれも腹を据えました。


――心は決まった。ならばあとはもう、突き進むだけだ。


 そこから、ことは動き始めました。

 あかるの王の立太子礼に備える一方、おのれと細蟹比売の縁組みも段取りを進めてゆきます。

 身の回りはいっそう気ぜわしくなり、黒海臣は、仮の寝所にすら戻ることができなくなりました。眠るのは高御座の部屋で、腕を枕に休むくらいのものでした。

 そうした日々が、ひと月ほど続いたあとのことです。

 その日も黒海臣は高御座の部屋に座し、夜ふけまでまつりごとを考えておりました。そのうちに疲れ果て、知らずまどろんでいたようです。

 うつらとしていた黒海臣の耳に、ふと、ひそかな衣ずれが忍び込みました。


「――ッ、誰かっ!」


 我に返り、すばやく短刀を引き抜きます。

 しかし相手は、その風の唸りも恐れることなく畏まりました。


「黒海臣さま」


 聞こえてきた声は、まぎれもなく真木のものです。黒海臣は力を抜き、短刀を収めました。


「真木か。いかがした?」

「はい、……」


 真木は頷いたものの、ためらうように黙っています。黒海臣は膝でにじり寄り、その頬に手を添えました。


「黙っていては、なにもわからぬ。からだの調子でも悪いのか?」

「いえ。……ただ、」


 真木は大きく息を吸い、ふかぶかと吐き出しました。

 それからふいに、黒海臣の男根はせを、衣の上からさすります。黒海臣はあわてて真木の手を掴みました。


「真木!」

「お止めにならないで」


 思いがけず、鋭い声が返ってきます。黒海臣はその強さに呑まれ、のしかかられるままに唇を受け入れました。

 真木は歯を立て、舌をすすり、黒海臣のものをまさぐってきます。黒海臣はうろたえながら、ひとまず真木の好きにさせました。

 そうしてうなじを抱いてやると、触れ合った真木の頬が濡れています。黒海臣は驚きました。


「……泣いているのか?」


 真木は弾かれたように顔を上げ、しかしすぐにうつむきます。


「いいえ! ――いえ、申し訳ございません……」

「謝れと言っているわけではない。ただ、なにを思いつめているのかと気にかかったのだ」


 黒海臣は、指でぎこちなく真木の涙を拭いました。真木はその手にすり寄り、唾を飲み込むようにしてささやきます。


「宮びとたちの、噂を……。それに黒海臣さまは、近ごろ寝所にも、とんと帰っていらっしゃらない」

「帰らぬのは、まつりごとが忙しいからだ。いまは眠る間も惜しくてな」


 そう答えると、真木は低く呻きました。


「それは、細蟹さまとの縁組みが、控えていらっしゃるからですか」

「……そのことか、」


 ようやく、話の筋が見えました。黒海臣は息をつき、真木の髪を梳いてやります。


「細蟹様と私が組めば、というのは、宮びとたちが勝手に申していることであろう。私はなにもおおやけにしていない」


 黒海臣は、細蟹比売とのことをみなに伏せたままでした。あかるの王の立太子礼のときに、初めて明かすつもりなのです。

 ですからいまはまだ、噂は噂に過ぎません。黒海臣はそうなだめますが、真木はなおもかぶりを振りました。


「いいえ! わたくしは知っています。ひと月前、黒海臣さまは細蟹さまのお部屋で、お話をされていましたね。人払いまでなさって」

「あれは、あかるのみこ様の立太子礼のお話をしていたのだ」

「立太子礼のことでしたら、そこまで秘される必要がおありですか――」


 真木は、かたくなに黒海臣の口を開かせようとしています。責めは負おうと決めていたものの、こうも詰め寄られてはこうじてしまいました。

 黒海臣は眉をひそめ、真木の肩を抱いて離します。


「落ち着きなさい。細蟹様は、あかるの王様の御母君であらせられる。ゆえにことさら、お気を遣わねばならぬのだ。そのためにお話をしに参っただけだ」

「ですが――」

「真木」


 黒海臣は、静かに真木へくちづけました。

 真木はきつく唇を結んでいましたが、やがてあきらめたように口を開けます。ねろりと舌先をからめてから、唇を離しました。


「私がかようなことをするのは、真木。貴女だけだ」

「……、」


 真木はうつむき、くちおしげに唇を噛んでいる様子です。

 黒海臣はその肩を叩き、床に横たわらせました。むなを探れば、真木はかぼそく息を漏らします。

 やわらかなはだの熱さをたしかめながら、黒海臣は、心の中でだけ真木に詫びました。


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