黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十



「――まつりごとをお学びになりたい?」


 黒海臣は膝をついたまま、上座の細蟹比売を仰いで絶句しました。

 星見の丘へ赴いた晩から、三日が経ったあとのことです。細蟹比売が、突然に黒海臣を呼びつけました。そこで部屋を訪ねたところ、先のようなことを言い出したのです。

 驚く黒海臣をよそに、細蟹比売はあかるを抱いて頷きました。


「ええ。以前、黒海臣さまはわたしをとお呼びくださいましたでしょう? ならばわたし自身、その国母にふさわしい女人になりたいと思ったのです」


 その声には、どこにも迷いがありません。

 それどころか、まことの国母のごとく堂々として聞こえます。あまりにも晴れやかなそのさまに、黒海臣はむうと考え込みました。


――三夜前の、あの憎しみはなんだったのだ。それとも、まつりごとにかこつけて私をほふるつもりか。


 この比売にそんなたくらみが為せるとも思えませんが、みこの生母という位を使えば、人を動かすことはできます。

 もしかしたら、誰かに何ぞ吹き込まれたのやもしれません。そのように様子を窺っていると、細蟹比売が察したように続けました。


「もちろん、黒海臣さまやほかの臣下の方々のお邪魔はいたしません。わたしはもともと、名もなきただの下民の女。身の丈に合わぬ力がほしいわけではないのです」

「……、」


 黒海臣は、ますます口をつぐみました。細蟹比売は気にすることなく、凛然とほほ笑みかけているようです。

 その横には糸くりの婆が控えていますが、きょうは眠れる老木のごとく黙っていました。あかるのみこだけが、不思議そうに声を上げています。


――なにやら、すべてが偽りめいて感じられるが……。


 細蟹比売の笑みも、婆の居ずまいも、あかるの王の声すらも。

 なにもかも、どことなくつくりごとめいて思われます。まるで俳優わざおきが、決められた手はずに沿って役を演じているかのようです。

 そう首をひねったとき、細蟹比売が強くあかるの王を抱きしめました。

 その衣ずれは、かすかに震えているようです。黒海臣は、そこにうら若きむすめとしての怯えを感じ取りました。


――まことに、悠然とかまえているわけではないのか……。


 考えてみれば、細蟹比売はまだ、亡き耀日祇と変わらぬ歳ごろのはずです。

 そんなむすめが突然に大君の妃となり、夫を殺されているのです。恐れぬはずも、気に病まぬはずもないのでした。

 黒海臣はそこまで思い、ふかぶかと嘆息しました。


「まこと、細蟹様にはいつも驚かされます。……」

「黒海臣さま?」


 細蟹比売が驚きをあらわにします。黒海臣は首をふり、静かに膝をそろえました。


「では畏れながら、わたくしが細蟹様の師となりましょう。加えて、細蟹様には護衛の者をつけさせていただきたい。それがお学びいただくにあたってお守り願いたい約定です」


――この比売には、むやみと抑えつけるやり方は効かぬのやもしれぬ。


 そうであるならば、黒海臣の耳が届くところで遊ばせておくほうが、まだ安心できるでしょう。

 細蟹比売はこうした考えを察しているのか否か、背を正すような声でいらえました。


「わかりました。そのお話、お受けいたします」


 その声音は、ふたたび国母としてのおごそかさを備えて聞こえました。



 その晩、黒海臣は駒をたかくらの部屋に呼び寄せました。

 駒はしなやかな獣のごとく現れ、黒海臣の前に畏まります。


「お呼びでしょうか」

「来たか、駒。いつも突然に呼び立ててすまない」

「いいえ。黒海臣様のご命とあらば」


 駒はつねどおり、ひっそりとした木菟つくのように落ち着いています。

 その静けさは黒海臣の持つものと似通っており、そばにいると心安く思われました。黒海臣は息をつき、少しくつろいだ座り方をします。


「お前がかたわらに在ると、まつりごとがよく進む」

「ありがたいおことばです」


 駒は控えめに礼をとりました。黒海臣は口元を和ませ、それからあらためて背を正します。


「お前には横に在ってほしいのだがな。また別な勤めへ行ってもらわねばならぬ」

「はい」

「こたびは護衛だ。お前は細蟹比売のおそばに侍り、みこともどもその御身をお守りせよ」

「承りました」


 駒は、決して不要なことを訊いたりしません。それはなにも考えていないからではなく、黒海臣を心より信じているからです。

 黒海臣はそのまことぶりに接すると、いつもいたわしいような、憐れなような心持ちになりました。


――勝手な思い込みであろうとは、よく承知しているが……。


 それでも、黒海臣は年かさの者として、駒をいたわりたく思っています。そうであるので、つねに黒海臣のほうから詳しいことを話しました。


「細蟹比売が、まつりごとを学びたいと仰せられてな。学ぶ代わりに、お前をとすることをお約束いただいたのだ」

「さようでございましたか」


 護衛というところに力を込めます。これでじゅうぶん、駒には意が伝わるでしょう。

 果たして駒は、深く頷くようにいらえました。


「それでは、お守りいたします」

「ああ、頼む。お前がそばについておれば、比売が部屋から出られることもかまわぬ」

「よろしいのですか?」


 そこで初めて、駒が訊き返しました。

 駒は、これまで黒海臣が、細蟹比売を部屋に籠めていたことを知っています。黒海臣はその懸念を払ってやるように答えました。


「よい。もうお部屋にいていただく必要がなくなったのだ」

「では比売は、大君のお隠れになった御ありさまを……」

「私が弑した。それがさきつ大君の最期であろう」

「――、」


 駒はそれだけで、黒海臣がどのように耀日祇のことを伝えたか察したようです。つかの間黙り、やがて口を開きました。


「……わたくしも、やはり黒海臣様のおそばにお仕えしたく存じます」


 これは先ほど、黒海臣が横にいてほしいと告げたことへの返しでしょう。黒海臣は肩をやわらげ、駒の背をあやしてやるように応じました。


「そうか。お前がそう言ってくれるのは、得がたいことだ」

「わたくしにとっては、言うまでもなきことです。貴方はわたくしを救ってくださった、ただひとりの肉親ゆかりなのですから。……兄さん」


 最後の呟きに、黒海臣は口をつぐみます。これがあるために、黒海臣は駒を憐れに思うのでした。

 駒は、八つ歳が離れた黒海臣の庶弟ままおとです。駒の母は黒海臣の母よりも位が低く、母子ともども冷ややかな仕打ちを受けていました。

 黒海臣はそれを見かね、あえて駒をそば仕えとしたのです。おのれの手元に置くことで、駒の身を守ろうとしたのでした。


――ゆえに、駒は私を慕っている。それは喜ばしいことであるのだが。


 ですが、駒の忠実まめさは、駒を縛りつけているのではないかとも思うのです。

 黒海臣という兄がいるばかりに、駒の幸せを奪っていはしないでしょうか。黒海臣はいつのまにか、ほんとうに駒をおのれの手駒としてしまっているのではないでしょうか。


――そう考えれば、私は駒がいたわしい。


 そしてそのように思いながらも、黒海臣は、なおも駒を手放せぬのです。いまも黒海臣は苦さを噛みしめ、駒を繋ぎとめるように言いました。


「そうだ、私はお前の兄だ。ゆえにお前が難じれば、幾度でも手を伸ばそう」

「はい」


 駒は、ほのかにほほ笑むようにして答えました。

 そうしたさまを向けられると、いっそう胸が重く沈みゆくようでした。

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