黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十九
即位礼の日は、宮じゅうの桜が盛りを迎えておりました。
花びらは音もなく散りこぼれ、風の中を舞い踊ります。宮びとたちにその姿は見えねども、あわくただよう花の香で、それと察せられるのでした。
重く、涼やかに
庭へ居並ぶ臣下たちが、いっせいに
今年の秋で
あかるの王は朱色の
「星満つる
あかるの王――改め、第十三代大君
東の天から、さ、と
その光がこがねの色だと、宮びとたちにはっきりと見えたのです。ああ、と誰かが叫びました。
「見える。わたしの目が、見える……」
「ほんとうだ、すべてがわかる。大君様のお顔も見える」
「おお、夜が明けてゆく――」
なんと斬られた宮びとたちの目が、夜明けとともに
臣下のひとりが指さす先で、東の空は、ぐんぐん明け
誰も見たことがないはずのその色を、みな、心のうちに知っていました。
これは、輝かしく偉大なる日輪の色です。
かつて悪しきものとして射落とされ、しかしいまは夜を包み込むように広がる光。春の喜びを高らかに知らせてくれる、いのちの源。
宮びとたちはそのお顔を仰ぎ、あまりの尊さに平伏します。高御座の脇にひかえた黒海臣も、息をのんで屈しました。
――……明祇様。
胸が、からだが、もっと深いたましいの奥底が、畏れるようにふるえます。
それでいて、なつかしく慕わしくてならぬのです。子が母の膝へまつわりつくように、おのれのすべてが安らぎへ融けてゆきます。
宮びとたちは泣いていました。黒海臣の目がしらも、熱く潤み始めます。
――私の十年は、いま、このときのためにあったのだ……。
十年前、明祇の御母君である細蟹比売がお隠れになりました。
おのれを刺した相手をかばい、泉に身を投げられたのです。黒海臣はその意を汲み、比売は御みずから夫君のあとを追われたのだと広めました。
まだ若く、そのうえ黒海臣を婿に迎えた直後の身投げです。
黒海臣は、宮びとたちからさまざまに心ない噂を投げつけられました。細蟹比売の養母であった糸くり婆も、あらん限りこぶしを振るってきたものです。
ですが黒海臣は、黙ってまつりごとに励みました。おのれが比売を殺めたことは、間違いがなかったからです。
細蟹比売を刺したのは、黒海臣と深い仲にあった真木でした。
おそらく、真木は細蟹比売を
真木は狂ったまま黒海臣の子を産み落とし、血の道を悪くして死にました。
遺された子とあかるの
しかし、この婆も
みな、みんなこうして死んでゆきました。
黒海臣の周りにいたひとびとは、すべて黒海臣が殺したのです。この手で
国を守るそのために。ただそのためだけに、黒海臣は鬼になることを決めたのでした。
あかるの王が大君としてお立ちになる、きょうこのときまでは。
「――黒海!」
明祇が、ふいに黒海臣をふりむきます。
はっとして目を合わせれば、明祇は春風のごとくほほ笑みました。
「その箱を、持ってきてもらえるかな。ここで開こう」
「……は、」
黒海臣はかしこまり、高御座の脇に置かれた箱を捧げ持ちました。
ちょうど、二つか三つほどの幼子でも入りそうな長箱です。
明祇がじきじきに支度をされていたもので、なにが入っているのかは、黒海臣も知らぬままでした。
「さあ、父上。まいりましょう」
明祇が、おだやかに箱をさすります。黒海臣がいぶかしむ暇もなく、ふたをお開けになりました。
その途端、大輪の花のごとき光がこぼれ落ちたかに見えました。
宮びとたちがどよめきます。黒海臣も目をみはり、明祇が、箱からなにかうやうやしく取り出されるのを見つめました。
あふれた光が、くわう、と喉を鳴らします。
それは白い
「――あれは、……」
「あの剣は、もしや亡き
彼らが騒ぎ出すより先に、黒海臣も気づいていました。
いま明祇がお持ちの剣は、むかし亡き御父君――耀日祇が佩びていらしたものです。
耀日祇が父母を弑し、宮びとたちを斬りつけた血濡れの剣。そして最期には、黒海臣が耀日祇をつらぬいた謀反の剣。
その剣は、長く星見の丘にうち捨てられていたはずでした。明祇はこの朽ち果てた呪いの剣を、御みずからお持ちになっていたのです。
後じさる宮びとたちをよそに、明祇はやわらかく剣をお撫でになります。
「さ、父上。もうよろしいのです。父上のお心のままに、いずこへでも羽ばたいてゆかれませ」
明祇がそうおっしゃると、大鳥はもういちど高く鳴きました。
そうして、風を掴むように舞い上がります。しろがねの羽根が千々に散り落ち、やがて淡雪のごとく融け去ってゆきました。
その景色に、みな息をつめて固まっています。
しかし明祇は変わらずほほ笑み、ふたたび朽ちた剣をお撫でになりました。
その端から、剣は砂のごとく崩れてゆきます。明祇は恐れる宮びとたちをなだめるように、砂を払って告げました。
「これで澱は取り払われた。歪みも
明祇のおことばは、あたたかな春の雨のごとく沁みてゆきます。
その瞬間、宮びとたちがわっと沸き返りました。互いに抱き合い、跳びはねながら明祇の
黒海臣はこの
「明祇様、……」
御名をたてまつると、明祇は、たくらみがうまくいった童のようにお笑いになります。
「どうかな。これであなたも、もう身軽になってもよいと思うのだけれど」
「……ご存知でいらしたのですか、」
黒海臣がわが身に宿した、この底なしの悔いや叫びを。
そのように低く呻けば、明祇はころころと笑い声を立てられました。
「むろん、黒海はわたしの、第二の父上なのだもの。わたしは思いのほか、目も耳もいいのだよ」
明祇の御目が、黒海臣のうしろへとそそがれます。明祇がまなざしだけで頷けば、しなやかな獣のごとき気配が近づきました。
「――黒海臣様、明祇様」
ふりかえれば、駒が静かに笑んでいます。
十と
駒はかたわらに連れた童をうながし、明祇の元へ歩ませました。
「
黒海臣は、驚いてわが子を呼びます。
駒がこの場に連れてきたのは、真木とおのれの間に生まれた、ただひとりの男児でした。
由岐彦は緊張に頬を赤らめ、明祇の前にひざまずきます。
「明祇様のあらたな御代を、およろこび申し上げます」
つたなく差し出されたのは、さなりと咲きほこる桜の枝でした。
花は昇ったばかりの朝の日を浴び、こがねの粉をはたいたように光っています。明祇は、その枝を大切そうにお受けになりました。
「ありがとう、ゆき。これからもよろしく頼むよ」
「はい!」
齢十三の明祇は、まだ九つの由岐彦を、弟のごとくいつくしんでいらっしゃいます。
いまもつむりを撫でてやるように目を細め、受け取った枝から花を一輪手折りました。それを、由岐彦の髪にお挿しになります。
「ゆきにも、幸いがありますように。……あなたたちにも」
明祇は、黒海臣と駒にも花を賜りました。
てのひらに乗せられたその一輪を、黒海臣は、なにか途方もなくまばゆいものとして見つめます。
――ああ、
生きねばならぬ、と思いました。
罪に殉じるのではなく、狂ってくじけ尽きるわけでもなく。
死した者たちに対する悔いも、いまを生きる者たちに対する責も、苦みも孤独も。
すべてを背負って、黒海臣はこれからも生き続けねばならぬのです。息の根の止まるときまで、おのれの為すべきことを果たして。
「――ッ、」
黒海臣は息を吸い、あふれ出るものを噛みしめました。
目を上げたその先で、明祇はみなに御手をふっていらっしゃいます。そのお姿はやはりまばゆく、春の光そのもののごとくきらめいて思われます。
黒海臣は、それをまぶたへ灼きつけるように、強く目を閉じました。
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