黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十九



 即位礼の日は、宮じゅうの桜が盛りを迎えておりました。

 花びらは音もなく散りこぼれ、風の中を舞い踊ります。宮びとたちにその姿は見えねども、あわくただよう花の香で、それと察せられるのでした。

 重く、涼やかにかねが鳴ります。

 庭へ居並ぶ臣下たちが、いっせいに叩頭み伏しました。たかくらに座していたあかるのみこが、ゆったりとお立ちになります。

 今年の秋でよわい十三となられる、若き皇子です。

 あかるの王は朱色のかむ御衣みそをおまといになり、すがすがしい若葉の帯を締めています。はればれとした彩りは、このほがらかな皇子にたいへんよくお似合いでした。

 みこは進み出、清い雪どけ水のような声を響かせました。


「星満つるとこの国をやすみしし、わが父、わが祖父、わがおやの御名にかけ、いまこそここに、わたくしあかるが第十三代大君の座を賜らん――」


 あかるの王――改め、第十三代大君明祇あかるのかみが、そのように宣したすぐあとです。

 東の天から、さ、と黄金きんの光が差し込みました。

 その光がこがねの色だと、宮びとたちにはっきりとのです。ああ、と誰かが叫びました。


「見える。わたしの目が、見える……」

「ほんとうだ、すべてがわかる。大君様のお顔も見える」

「おお、夜が明けてゆく――」


 なんと斬られた宮びとたちの目が、夜明けとともにひらき始めたのです。

 臣下のひとりが指さす先で、東の空は、ぐんぐん明けめてきていました。夜の闇は青にうすれ、引き伸ばされ、白から桃色へ移ってゆきます。

 誰も見たことがないはずのその色を、みな、心のうちに知っていました。

 これは、輝かしく偉大なる日輪の色です。

 かつて悪しきものとして射落とされ、しかしいまは夜を包み込むように広がる光。春の喜びを高らかに知らせてくれる、いのちの源。

 明祇あかるのかみは、この日輪を抱きとめるようにほほ笑んでいらっしゃいました。

 宮びとたちはそのお顔を仰ぎ、あまりの尊さに平伏します。高御座の脇にひかえた黒海臣も、息をのんで屈しました。


――……明祇様。


 胸が、からだが、もっと深いたましいの奥底が、畏れるようにふるえます。

 それでいて、なつかしく慕わしくてならぬのです。子が母の膝へまつわりつくように、おのれのすべてが安らぎへ融けてゆきます。

 宮びとたちは泣いていました。黒海臣の目がしらも、熱く潤み始めます。


――私の十年は、いま、このときのためにあったのだ……。


 十年前、明祇の御母君である細蟹比売がお隠れになりました。

 おのれを刺した相手をかばい、泉に身を投げられたのです。黒海臣はその意を汲み、比売は御みずから夫君のあとを追われたのだと広めました。

 まだ若く、そのうえ黒海臣を婿に迎えた直後の身投げです。

 黒海臣は、宮びとたちからさまざまに心ない噂を投げつけられました。細蟹比売の養母であった糸くり婆も、あらん限りこぶしを振るってきたものです。

 ですが黒海臣は、黙ってまつりごとに励みました。おのれが比売を殺めたことは、間違いがなかったからです。

 細蟹比売を刺したのは、黒海臣と深い仲にあった真木でした。

 おそらく、真木は細蟹比売をねたんだのでしょう。黒海臣とおおやけに結ばれる比売を憎み、そのあまりに気が触れてしまったのです。

 真木は狂ったまま黒海臣の子を産み落とし、血の道を悪くして死にました。

 遺された子とあかるのみこは、いずれも糸くりの婆の手で育てられました。婆はいちど機織りの村へ帰っていましたが、細蟹比売の死をきっかけに、ふたたび宮へ戻ったのです。

 しかし、この婆も去年こぞの秋、あかるの王が十二の歳を迎えられたところで亡くなっています。

 みな、みんなこうして死んでゆきました。

 黒海臣の周りにいたひとびとは、すべて黒海臣が殺したのです。この手でほふり、かばねを積み上げ、そのようにして生き抜いてきたのです。

 国を守るそのために。ただそのためだけに、黒海臣は鬼になることを決めたのでした。

 あかるの王が大君としてお立ちになる、きょうこのときまでは。


「――黒海!」


 明祇が、ふいに黒海臣をふりむきます。

 はっとして目を合わせれば、明祇は春風のごとくほほ笑みました。


「その箱を、持ってきてもらえるかな。ここで開こう」

「……は、」


 黒海臣はかしこまり、高御座の脇に置かれた箱を捧げ持ちました。

 ちょうど、二つか三つほどの幼子でも入りそうな長箱です。

 明祇がじきじきに支度をされていたもので、なにが入っているのかは、黒海臣も知らぬままでした。


「さあ、父上。まいりましょう」


 明祇が、おだやかに箱をさすります。黒海臣がいぶかしむ暇もなく、ふたをお開けになりました。

 その途端、大輪の花のごとき光がこぼれ落ちたかに見えました。

 宮びとたちがどよめきます。黒海臣も目をみはり、明祇が、箱からなにかうやうやしく取り出されるのを見つめました。

 あふれた光が、くわう、と喉を鳴らします。

 それは白い大鳥おおとりの姿となって、明祇がかかげ持つ剣の先で羽ばたきました。宮びとたちが、くちぐちに驚きの声を上げます。


「――あれは、……」

「あの剣は、もしや亡き耀日祇かがよひのかみさまの――」


 彼らが騒ぎ出すより先に、黒海臣も気づいていました。

 いま明祇がお持ちの剣は、むかし亡き御父君――耀日祇が佩びていらしたものです。

 耀日祇が父母を弑し、宮びとたちを斬りつけた血濡れの剣。そして最期には、黒海臣が耀日祇をつらぬいた謀反の剣。

 その剣は、長く星見の丘にうち捨てられていたはずでした。明祇はこの朽ち果てた呪いの剣を、御みずからお持ちになっていたのです。

 後じさる宮びとたちをよそに、明祇はやわらかく剣をお撫でになります。


「さ、父上。もうよろしいのです。父上のお心のままに、いずこへでも羽ばたいてゆかれませ」


 明祇がそうおっしゃると、大鳥はもういちど高く鳴きました。

 そうして、風を掴むように舞い上がります。しろがねの羽根が千々に散り落ち、やがて淡雪のごとく融け去ってゆきました。

 その景色に、みな息をつめて固まっています。

 しかし明祇は変わらずほほ笑み、ふたたび朽ちた剣をお撫でになりました。

 その端から、剣は砂のごとく崩れてゆきます。明祇は恐れる宮びとたちをなだめるように、砂を払って告げました。


「これで澱は取り払われた。歪みもけがれも清められた。わたしたちは新たなる夜明けの国の民として、新たな国を築いてゆこう――」


 明祇のおことばは、あたたかな春の雨のごとく沁みてゆきます。

 その瞬間、宮びとたちがわっと沸き返りました。互いに抱き合い、跳びはねながら明祇の御代みよをことほぎます。

 黒海臣はこのさまに、胸がつまってしまいました。


「明祇様、……」


 御名をたてまつると、明祇は、たくらみがうまくいった童のようにお笑いになります。


「どうかな。これであなたも、もう身軽になってもよいと思うのだけれど」

「……ご存知でいらしたのですか、」


 黒海臣がわが身に宿した、この底なしの悔いや叫びを。

 そのように低く呻けば、明祇はころころと笑い声を立てられました。


「むろん、黒海はわたしの、第二の父上なのだもの。わたしは思いのほか、目も耳もいいのだよ」


 明祇の御目が、黒海臣のうしろへとそそがれます。明祇がまなざしだけで頷けば、しなやかな獣のごとき気配が近づきました。


「――黒海臣様、明祇様」


 ふりかえれば、駒が静かに笑んでいます。

 十ととせぶりにひらけた目で見た、いくらか皺を重ねた顔です。

 駒はかたわらに連れた童をうながし、明祇の元へ歩ませました。


由岐ゆきひこ


 黒海臣は、驚いてわが子を呼びます。

 駒がこの場に連れてきたのは、真木とおのれの間に生まれた、ただひとりの男児でした。

 由岐彦は緊張に頬を赤らめ、明祇の前にひざまずきます。


「明祇様のあらたな御代を、およろこび申し上げます」


 つたなく差し出されたのは、さなりと咲きほこる桜の枝でした。

 花は昇ったばかりの朝の日を浴び、こがねの粉をはたいたように光っています。明祇は、その枝を大切そうにお受けになりました。


「ありがとう、ゆき。これからもよろしく頼むよ」

「はい!」


 齢十三の明祇は、まだ九つの由岐彦を、弟のごとくいつくしんでいらっしゃいます。

 いまもつむりを撫でてやるように目を細め、受け取った枝から花を一輪手折りました。それを、由岐彦の髪にお挿しになります。


「ゆきにも、幸いがありますように。……あなたたちにも」


 明祇は、黒海臣と駒にも花を賜りました。

 てのひらに乗せられたその一輪を、黒海臣は、なにか途方もなくまばゆいものとして見つめます。


――ああ、


 生きねばならぬ、と思いました。

 罪に殉じるのではなく、狂ってくじけ尽きるわけでもなく。

 死した者たちに対する悔いも、いまを生きる者たちに対する責も、苦みも孤独も。

 すべてを背負って、黒海臣はこれからも生き続けねばならぬのです。息の根の止まるときまで、おのれの為すべきことを果たして。


「――ッ、」


 黒海臣は息を吸い、あふれ出るものを噛みしめました。

 目を上げたその先で、明祇はみなに御手をふっていらっしゃいます。そのお姿はやはりまばゆく、春の光そのもののごとくきらめいて思われます。

 黒海臣は、それをまぶたへ灼きつけるように、強く目を閉じました。


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