黒海臣(くろみのおみ)のはなし 四



 細蟹比売は、実におとなしいむすめでした。

 あてがわれた耀日祇かがよひのかみの寝所から出ることもなく、日がな糸をつむいで暮らしています。そうして、ひたすらに夫君の帰りを待っているのです。

 ただそれだけのむすめであるのですが、黒海臣は、それこそが耀日祇のお望みだったのだろうと思いました。

 おのれを受け止め、ただそばにいてくれる人。ありのままの耀日祇をいつくしんでくれる人。

 まことならば父か母から与えられるはずだったものを、耀日祇は奥方に求めようとしているのやもしれません。


――見ようによっては、それは危ういことでもあるが……。


 親でない相手に親の代わりを求めるのは、重いことです。相手を潰してしまいかねず、ともすれば耀日祇もろとも倒れてしまうかもしれません。


――それでも私は、しばし様子を窺ってみたい。


 細蟹比売と過ごされたあとの耀日祇は、ことのほか御気色がよくておいでなのです。まつりごとも立派にこなし、まるで欠けたところのない大君ぶりでいらっしゃいました。

 つまり、奥方がかたわらにおいでであれば、耀日祇は平らかに国をお治めになれるやもしれぬのです。


――また、細蟹比売そのものも、宮びとたちから受け入れられている。


 細蟹比売は、みずからも帯で目をふさいでいます。宮びとと同じまなざしに立ち、そのうえでめしいた者らへの心遣いをしているのです。

 そうした細やかさが、宮びとたちから称えられることとなったのでした。

 細蟹比売の名は、いまや宮じゅうに知れ渡っています。危ういからとて耀日祇と引き離すのは、上策ではないでしょう。


――あの比売が国の益となる者か否か、いま少し見極めてみてもよかろう……。


 しかしその後、事はそうも言っていられなくなりました。

 細蟹比売が妃となって、つ月ほど過ぎた二月きさらぎのころです。

 その昼間、耀日祇と黒海臣はまつりごとの話し合いをしておりました。そこにひとりの下男が走り込んできたのです。


「奏上仕ります! 細蟹様付きの女官より、急ぎ大君様にお出ましを願いたいと――」

「……なんだと? 細蟹になにかあったのか?」


 耀日祇は途端に立ち上がりました。そしてあわただしく黒海臣に告げ置きます。


「黒海はここに控えていてくれ。様子を見てくる」

「承知いたしました。なにかございましたらお知らせください」

「ああ」


 耀日祇は取るものもとりあえずというていで、下男とともに出てゆかれました。

 黒海臣はそのお姿を案じながらも、深くこらえて送り出します。


――私と耀日祇様がともに抜けては、突然の変事に処せなくなる。


 ただでさえ、いまの宮びとはすべて目を失っているのです。万一誰ぞに攻め込まれでもしたら、ひとたまりもありません。


――そうならぬよう、すでに兵は鍛えさせ始めているが。


 黒海臣は腹心のこまという者を使い、兵たちを叩き直していました。

 みなめしいとなったからこそ、見えていたときよりもうんと手を打たねばならぬのです。国を守るそのためならば、黒海臣はいかようにもしようと決めていました。


――それが、私の為すべきことだ。


 そう考え、先ほど耀日祇とお話したことをまとめていた、そのときでした。


「――……誰か、……誰かァッ――!」


 耀日祇の寝所から、かすかに女人の悲鳴が聞こえました。黒海臣はすばやく立ち、誰もいないはずの室内へ呼びかけます。


「駒!」

「――はっ」


 駒は影のように部屋の隅へあらわれ、すぐに走り出しました。黒海臣はその背に向けて命じます。


「幾人か、わが手勢の者を連れてゆけ! 入り用となるやもしれぬ!」

「畏まりました」


 駒は足音もなく、気配ごと消え失せます。黒海臣はじりじりと彼の帰りを待ちつつ、静かに端座していました。


――あの声は、細蟹比売付きの女官であっただろうか。……たしか真木まきといったはずだ。


 比売付きの女官を決めたのは、耀日祇です。

 真木は目立つ働きこそないものの、もの静かで、人の心に敏いであったかと覚えています。おとなしい比売ぎみには、ちょうどよい相手であるでしょう。


――耀日祇様は、こうして他人のひととなりを見抜く力に長けていらっしゃるのだが……。


 ですが人の機微に敏いというのは、心根が細いということでもあります。

 耀日祇はかぼそすぎる御方であるがゆえに、人々の目に屈し、いまも揺らいでいらっしゃるのです。

 そのように歯を噛んでいると、遠くから耀日祇の叫ぶ声がしました。

 あとには、臣下たちのこうじ果てた声も続きます。黒海臣はさっと部屋の戸を開きました。


「耀日祇様!」

「なぜだ、細蟹ッ! そなたはわたしだけの妃だ――!」


 耀日祇は、臣下たちに取り押さえられながら泣き喚いていらっしゃいました。黒海臣はそのおからだを抱き止め、周囲の者たちに訊ねます。


「耀日祇様はいかがされたのだ、細蟹様に何ぞあったか?」

「……それが、……細蟹様、ご懐妊とのことでいらっしゃいまして……」

「――まことにか?」


 鋭く問い返すと、臣下は緊張した様子で頷きました。そうして、先ほどの騒ぎについて説いてくれます。


「私も女官より聴いたのですが、細蟹様が懐妊のよしを申し上げられた瞬間、大君様の御気色がいたく悪しくなられたそうで……」


 そのまま、細蟹比売へ手を上げようとされたというのです。それで比売付きの女官が、あわてて助けを求めたのでした。

 黒海臣はいきさつを聴き、嘆息しました。


「……なるほど。私も後ほど、改めてその女官から話を聴こう」


 ひとまず周りの臣下たちをねぎらい、下がらせます。

 それから暴れる耀日祇をお連れしつつ、一行の中にいたはずの駒を呼びました。


「駒、手を貸してもらえるか」

「はい」


 すぐさまいらえがあり、駒とふたりで耀日祇をお支えします。耀日祇は連れられるままにうつむき、なにかぶつぶつと呟き続けていらっしゃいました。


――耀日祇様にとっても、大君のくらいは重すぎるものであるのだろうか……。


 お父上である、闇彦祇と同じように。

 そうであってほしくはない、と思います。そうならぬよう努めるのが、臣下としての責でもあります。

 されども黒海臣は、もしかしたらという思いも捨てきれませんでした。


――私はいずれ、耀日祇様を弑さねばならぬやもしれぬ。


 国を守るそのために。亡き闇彦祇とかつて交わした、ただひとつの約束を果たすために。

 そのように唇を結んでいると、駒がひっそりと黒海臣を呼びました。


「黒海臣様」

「……なんだ?」

「わたくしは、いかなるときも黒海臣様に従います。黒海臣様がなにをお考えであったとしても」

「……、」


 駒のほろほろとした声が、黒海臣の中に沁みてゆきます。

 黒海臣はそれを呑み込み、頷きを返しました。


「そうか。……頼む」

「むろんです」


 駒は一点のためらいもなく答えます。このように告げてくれる人がいることは、黒海臣をいくぶんかでも慰めました。

 黒海臣は駒のことばを胸にしまい、力なき大君の背を撫でました。



 その女官は、遠慮がちな様子でたかくらの部屋に入ってきました。


「……失礼を、いたします、」


 楚々とした衣ずれがし、戸惑ったふうに足を止める音がします。黒海臣は、おのれの向かいに支度した円座を勧めました。


「突然に呼びつけてすまない。こちらへ」

「はい」


 女官は席につき、深々と礼を取ったようでした。黒海臣は手をふってやめさせます。


「私相手に畏まらずともよい。顔を上げなさい」

「は……、」


 女官は礼をやめたようですが、やはりうつむいている気配がします。黒海臣は、できる限りきびしくならぬように問いかけました。


「貴女は、細蟹様付きの真木まきどので間違いないか?」

「はい、さようにございます」


 真木はすなおに頷きました。黒海臣も頷き返し、もういちど彼女をねぎらいます。


「勤めの合間に、手を煩わせたな。だが、あのとき細蟹様と耀日祇様のおそばにいたのは、貴女しかおらぬのだ。その折の話を聴かせてもらいたい」

「そのことでしたら、わたくしこそ、黒海臣さまへ申し上げねばと考えておりました」


 真木はそこで、急に力強い声となります。黒海臣がおやと思う暇もなく、熱心に話し始めました。

 ここふた月ほどの細蟹比売の様子、御子ができたのではと察したこと、薬師の見立て。そして、耀日祇に遣いをやったのちの騒ぎのありさま――。

 口ぶりこそ気が立っているようではありますが、真木はよく一連のいきさつを捉えていました。話の筋が乱れてわからぬということもなく、黒海臣の問いにも確かな見方でいらえをします。

 なによりも、真木のことばには細蟹比売を案じる響きがありました。

 仕えるべき主君として、細やかに思いを捧げているのだと感じられます。黒海臣はそのすべてを聴き、おのれの意を述べました。


「わかった、よく話をしてくれた。細蟹様の御身については、私も安んじておありになれるよう図らおう」

「なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」

「私こそ頼みたい。真木どののような女官がそばに在れば、細蟹様もお心強いだろう」

「……いえ。妾など、とても……、」


 真木は、おのれのこととなると途端にしおれてしまいます。

 黒海臣は、なにやら妹でも世話をしているような気持ちになりました。おのずと口ぶりが和らぎます。


「そう、うつむかずにお在りなさい。少なくとも、私は真木どのの力を信じたく思っている」

「……過ぎたおことばでございます」


 真木は頬を赤らめるような声で叩頭み伏し、やがて部屋を下がってゆきました。

 残された黒海臣は、顎を撫でて考えます。


――まずは、みことのりを出すか。


 昼の懐妊騒ぎがあったあと、耀日祇はとこについてしまいました。息を荒げ、呪詛のように細蟹比売を求めて呻いていらっしゃいます。

 これではとうてい、まつりごとなどできません。ゆえに黒海臣が高御座の部屋へ座し、代わりに勤めているのです。


――大君のおしるしは、耀日祇様が落ち着かれてからいただけばよい。いまはそれよりも、細蟹比売と胎の御子をお守りすることが先だ。


 そのために、耀日祇の御名でみことのりを下すのです。

 すなわち、細蟹比売はいまいる寝所を出、別な部屋へ移るようにと。


――ひとまず、比売を耀日祇様から遠ざける。細蟹比売には、安んじて御子をお養いいただかねばならぬ。


 もしかすればその御子が、耀日祇に代わる新たな大君となられるかもしれぬのですから。

 黒海臣はそう冷ややかに考えをまとめ、独り立ち上がりました。


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