潮織りの比売(ひめ) 二
――あれが、初めでございましたね。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
常夜の暗いうなそこで、比売は機を織っています。夫君と出会ったころを思い出し、その痛みといとしみを糸に託し。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
――あなたさまは、ずっと、おのれを厭うておいででしたけれど。
比売の夫君は、かがよひの
それゆえにひとびとの力に圧され、おのれに呑まれ、比売はその、夫君と同じさだめに飛び込みもしたのですが。
――それでも、わたしは幸せでしたのよ。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
比売の思いは波となり、ゆらゆら地上へ昇ります。そしてまたひとつ、浜辺のうつくしいへり飾りとなって遠のいてゆくのでした。
*
「……都へ?」
欠け星は目をまたたかせました。上座に座したばばさまは、重々しく頷きます。
「おまえも今年で十二になった。いずれは儂の後を継ぐ。そろそろ、機以外の仕事も覚えねばならぬ」
「それでわたしを、こたびの
「異があるか?」
「いえ。おばあさまの仰せでしたら」
欠け星が礼をとると、ばばさまは、すくと円座から立ち上がりました。
「ならば、
ばばさまは、地を
残された欠け星はひっそりと立ち、いつもどおり機に向かいました。きり、と足紐を締めれば、心が落ち着いてきます。
「浜ちどり 波のあやめに うろうろと……」
歌って
そうして機を打ちながら、先刻のやりとりを思い出します。
――都へ。……わたしが、都へ。
ばばさまは、欠け星を今年の
貢とは、都へ納める米や布、そして山海の
ばばさまは、もう何年も従者のひとりをつとめています。他の従者たちも、多くは年かさの、手慣れた女人ばかりでした。
その中へ、ほんのむすめでしかない欠け星が加わるというのです。ふつうはあり得ませんでした。
――おばあさまが、強く推挙したのかもしれない……。
ばばさまは強い御方ですから、無理にでも話を通したのやもしれません。盲目でも独りでも、決して屈さぬばばさま。孤高と生きているばばさま。
村では、こうしたばばさまを扱いあぐねている節もありました。村人たちが、集会の場でばばさまに尻込みしている――その
――……でも、ただ強いだけでいいのかしら。
ばばさまは強い女人です。尊敬すべき御方です。
けれども、たった独りで頑なに励みつづける、それだけでよいのでしょうか。ばばさまは寂しくないのでしょうか。
近ごろの欠け星は、そんなことを考えます。そして、そんなことを考えるおのれを気づまりに思います。
ばばさまは、欠け星の養い親であるのに。だのに、その人に反するようなことを。
「――あっ、」
考えていたら、機の端のささくれに指を刺してしまいました。
欠け星は慌てて機から離れ、指を吸います。機も糸も神聖なものですから、血で汚してはなりません。
急いで機屋を出、近くの小川ですすぎました。
ばばさまが出てくる様子はありません。まだ、見つかってはいないのでしょう。欠け星はほっとして立ち上がりました。
――……あら。
そこでふと、背越しに風を掴みます。もう血は止まったのに、
しかも、その臭いはおのれ自身から発しているように思われました。小さく眉をひそめます。
――先の血で、鼻が鋭くなっているのかしら。
欠け星はしばし目を細めていましたが、やがてきびすを返しました。とにかく血は止まったのですから、早く戻らねば、ばばさまに叱られてしまいます。
歩き出すと血の臭いは消え、小川の涼しさに押しやられてゆきました。
その十日あまり
貢の従者たちは、都にある
五年ぶりにお目にかかった大君は、欠け星には、やはり鷹のように見えました。
一段高くなった
「畏くも尊き
ばばさまはきろりと玉座を見すえ、唸るように奏上しました。大君は硬いお顔でお答えになります。
「大儀である。婆も変わらぬようで何よりだ」
「恐れ入りまする」
「して、今年の貢の出来はどうか」
「はい。例年どおり絹と
ばばさまが述べてゆく横で、欠け星はおやと首を伸ばしました。群臣たちの間に、見覚えのある姿をみとめたためです。
――かがよひ。
かつて目にした大君の御子は、今日も
欠け星は、思わず胸の内で呼びかけました。
――かがよひ。わたしを覚えている?
その声が届いたものでしょうか。
かがよひが、ふとこちらに目を向けました。一瞬いぶかしむように口を結び、はっとした顔をします。欠け星が目配せすると、小さく顎を引きました。
それを見、ほのかに胸があたたまります。かがよひも、欠け星を覚えていてくれたのです。
――もしかして、友とは、こういうものかしら……。
そうなれたとしたら、心の躍ることです。広い夜空の星と星とが、偶然、似通ったまたたきを見出したかのようです。
欠け星は目を伏せながら、このみそかごとめいた再会を嬉しく思いました。
ところが、その
都からの帰路、欠け星はかがよひのことで、気がかりな話を耳にしました。
教えてくれたのは、ばばさまです。杖でさばさばと草を払いながら、おのれの鬱憤を蹴散らすように呟きました。
「……あの大君は、あまり
欠け星は一瞬、なんのことかわかりませんでした。
驚いて隣を見ますと、ばばさまは歯ぎしりするような、されども濃い愁いを落としたような、不思議な顔をしています。うつむいたその額に、はらりと髪が乱れかかりました。
「闇彦祇のことじゃ。……声に張りがのうなっておった。少しずつ、歳月をかけて呪われてきた者のように」
「それは――」
「あの大君は、そう遠くないうちに
その不吉な響きに、欠け星はひそと息をつめました。思わずあたりを見回します。
他の貢の従者たちは、役目が終わったためでしょう、はればれとした顔で笑っています。欠け星たちの話を聞いている風はありませんでした。
欠け星はそれを確かめ、声をひそめます。
「もし、いまの大君さまがいなくなられたら、その後は……」
「順当に行けば、皇子であるかがよひの
「なにか、あるのですか?」
「……おまえ、何ぞ王に思うところでもあるのか?」
欠け星は口をつぐみました。むかし、桑畑で出会ったことを言うべきか迷ったからです。
ばばさまは、欠け星の親代わりです。そんなばばさまに秘密を持つのは、いけないことのような気がします。
しかし欠け星は唾を飲み、とっさに平静を装いました。
「いえ。わたしには、大君さまがお元気そうに見えたので。まことにおばあさまの言うようなことが起こるのかと、驚いてしまっただけです」
「うむ。この話、ゆめゆめ口外はするでないぞ。他の者に聞かれれば、儂もおまえも打ち首じゃ」
ばばさまは厳しく戒めたのち、草を打つ杖をゆるめました。その眉間に深い翳りが差します。
「……おまえには、大君は何事もなく見えたやもしれぬな。ほとんど
「はい」
「皇子の噂は、知りとうなくとも、じきに知ろう。宮という場は、さようなところじゃ」
「――」
「それでも儂は糸をつむぎ、従者をつとめる。おのれで決めたことじゃからの」
それきり、ばばさまも欠け星も黙ります。欠け星はかがよひのことを案じ、ばばさまはまた別の物思いに囚われているようでした。
その後ろで、他の従者たちはかしましく戯れています。そのことが、欠け星をもっと孤独にしました。ばばさまと欠け星のふたりだけが、天の彼方へ流されてゆくようでした。
やがて、村に帰りついたあとのことです。
欠け星のもとへ、ひそかに都からの使者が訪ねてきました。使者は誰の遣いとも名乗りません。ただ、みずみずしい桑の葉だけを渡して去ったのです。
しかしそれで、欠け星には便りのぬしがわかりました。
――かがよひ。
まぎれもなく、かの皇子も覚えてくれているのです。欠け星を思ってくれているのです。
欠け星を思ってくれている人は、ばばさまの他には、かがよひしかおりません。それを思えば、もらった桑の葉がひとしおまぶしく見えてきます。欠け星はそれが枯れるまで、大事にとっておきました。
欠け星に月のものがやってきたのは、それからほどなくしてのことです。
欠け星は子を産める、女のからだになったのでした。
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