潮織りの比売(ひめ) 一
朝が来ない
きり、はたり。
ちよう、はたり。
――……あなた。あなたさま。
慕わしき御方のために、比売は織ります。いまはもう、遠き死者の世へお隠れになった
うなそこと死者の世は隔てられ、もはや逢うことはありません。その機は届くことのない、うたかたのあだ波です。
それでも比売は、万にひとつの望みをたぐって、機を奏でつづけていました。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
機の
*
そのむかし、比売は欠け星、という名でした。
どこから来たともわからない、拾われ子であったからです。なんでも、まだ赤子のとき、葦の舟に乗って川を流れていたといいます。
欠け星を拾った糸くりのばばさまは、ことごとにそのお話をいたしました。
「欠け星よ。おまえは川を流れてきた子じゃ、親なき子じゃ。ゆえ、
糸つむぎの
そうしてばばさまは、最後にいつも、こう締めくくるのでした。
「忘れるな、欠け星。人は独りで生きねばならぬ生きものなのじゃよ」
くるくる、くるくる。
ばばさまの紡錘を眺めていると、欠け星は決まって漠々とした気持ちになります。ひゅう、と魂ごと、風にさらわれてしまう心地がします。
――……でも、おばあさまは、わたしのおかあさまの代わりだわ。
そんな親代わりのばばさまが言うことです。だからきっと正しいのだと、幼い欠け星は端座して頷きました。
「はい、おばあさま。わたしは早く、おとなになります」
ばばさまは教えのとおり、厳しく欠け星をしつけました。村のしきたり、礼儀作法。そしてなによりも、糸と機のこと。
ばばさまと欠け星の住む村は、都と接する北東の山ぞいにあります。
女系の村で、おなごらの多くは糸くりと機織りをなりわいとしていました。そうして、できた糸や布を毎年都に納めるのです。
ばばさまも、そうしたつむぎ手のひとりでした。毎朝毎晩、欠け星とふたりきりの機小屋を
「糸は野のもの 花のもの 命をつむぐ
ばばさまは低く低く歌をうたい、くるくる紡錘を回します。欠け星はそのそばで、とん、とつたなく
とたん、鋭い叱責が飛んできます。
「欠け星!」
「――っ、」
欠け星は身をすくませました。ばばさまは
「なんじゃ、その音は。手が迷うておる。さような心でよき布が織れるものか」
「……はい、おばあさま。ごめんなさい」
欠け星はうなだれて、膝に手を揃えます。
ばばさまは立ち上がり、軸を持て、と諭しました。織りも、糸も、人の生きざまも、軸を持たねば潰えてしまう。おのれで選び、おのれで決めよ。その志を揺らがすな。
そう諭すばばさまの顔は、いつも近づきがたく恐ろしく思われます。
しかし一方で、ばばさまはかならず、隣に寄り添って導いてもくれました。手で欠け星のからだに触れ、おかしなところを直してくれます。
「よいか、欠け星。おまえの手の置き場がよくないのじゃ。これでは、しかと腰が入らぬ……」
背に添えられた掌はあたたかく、
ゆえに欠け星は、ばばさまのことも、機のことも嫌いにはなれぬのでした。
やがて、欠け星が七つになった春のことです。
この年、都におわします
常夜の国は、さまざまな小国の集まりで成っています。それらの
周りの小国はそれぞれ立場も力も異なり、放りおけば争乱が起きかねません。ために大君は、ご自身の御目を届かせるため、方々へお出ましになるのです。
こたびは、
そこで村の女たちは、寄ると触ると巡幸の話をしていました。布を小川にさらしながら、ころころ肩を寄せ合います。
「どうしましょう、大君さまがお出ましになるなんて」
「どんなおもてなしを差し上げたらよいかしら」
「あら、そんなの決まっているわ。
ひとりが朗々と歌い上げれば、どっと笑いがはじけます。
しかし欠け星もばばさまも、彼女たちの輪からは外れていました。ばばさまは布をすすぎ、冷ややかな口調になります。
「愚かしい。大君など、あれのなにがよいものか」
ばばさまは村の長老のひとりでもあり、毎年都へ布を納めに上がっています。大君にも謁しているため、かの御方のひととなりも存じているはずでした。
欠け星は首をかしげます。
「大君さまとは、どんな御方なのですか?」
「若造じゃ」
簡潔なひとことでした。さらに、ばばさまはつづけます。
「おのが職分を受け入れもせず、いつまでもその重みに耐えかねてこごんでおる。みずから動こうともせぬ腰弱よ」
その声が聞こえたのでしょう。他の女たちはこちらを見やり、ひそひそ話を始めました。
欠け星が見返すと、嫌そうに離れてゆきます。ばばさまがたしなめました。
「捨て置け、欠け星よ」
「……はい」
欠け星は頷き、ばばさまの隣で布をさらします。布は闇の流れにほろほろ光り、涙を散らしたかのようでした。
――いつものことだわ。
たゆたう布たちを眺めながら、欠け星は言い聞かせます。
村人たちは、つねにばばさまと欠け星を遠ざけておりました。もうずいぶん前、ばばさまが
ばばさまの親は、ばばさまに
それでもばばさまは努力を重ね、なんでもこなせる達者な女人になったのです。
――おばあさまは、たいへんな苦労をされてきた方。
それを思えば、すくと背すじが伸びてきます。そうして、村人たちから忌まれた痛みも消えてゆくのでした。
村に、風薫る季節がまいりました。
この中を、大君は白い御馬にまたがってお出ましになりました。あまたの供を引き連れて、ものものしいご巡幸です。
村人はそのさまを、家の中から、あるいは道に
――まるで、鷹みたいだわ。
先頭に立つ大君は、厳しいお顔をしていらっしゃいます。とても、ばばさまが言う腰弱には見えません。
そのいぶした刃のような強さに目を奪われていると、かの御方の後ろに、かがようものを見つけました。
――……あら、
欠け星と同じくらいの背格好をした童です。
その子は葦毛の馬に乗り、黒い
しかしそうしていても、その身からにじみ出る麗質は隠しようがありませんでした。
――
うつむいたさまが、ほっそりとした白鳥を思わせます。衣を透かして立ちのぼる香気も、まっさらな羽根のようでした。
――あの子は、いったい誰かしら。
その解は、のちほどわかりました。大君をお迎えしたその晩です。
村の広場では、みなが大君の御ために宴をもよおしておりました。かがり火を焚き、酒をふるまい、楽に合わせて舞い歌います。
その明るい響きが風に乗って聞こえていました。
どんどんつくつく、
ひょう、ひろろ。
どんつくどんどん、
ひょう、ひおろう。
ですが欠け星は独りでした。独りで桑畑にいました。
ばばさまは長老のひとりとして宴に出ていますが、欠け星に与えられる席はありません。星あかりの震える下、独りで桑の葉を摘みとります。
「桑の葉を 摘み摘み さわに うるわしく 摘み摘み さやに 安らけく……、」
歌いながら進んでいると、ふいに近くの茂みがさざめきました。獣とは違う揺れ方です。
「……だれ?」
欠け星が問うと、相手は息をつめるように沈黙しました。
しかし少しして、観念したように姿を見せます。闇にほのかな光がかがよい、欠け星は目を丸くしました。
「あなた――」
「……すまぬ。畑を荒らすつもりはなかった」
童はおとなびた口ぶりで謝ります。黒い襲を被っているので表情はわかりませんが、ばつが悪そうに手足をもじつかせていました。
欠け星は首をふり、桑摘みの籠を土に置きます。
「あなた、大君さまの後ろにいた子ね?」
近づくと、童はびくりと身をすくめました。
「――言わぬでくれ」
「え?」
「父上に――大君様に言わぬでくれ。……わたしは、宴を抜け出してきているのだ」
欠け星はまじまじと童を眺めました。
線が細く、おなごと見まがうおのこです。あの峻烈な大君とは、あまり似ていないように思われました。
「あなたは、大君さまの子なの?」
「……、」
童は迷い、それからかすかに頷きました。そしてぼそぼそと名を告げます。
「わたしは、かがよひだ。……そなたは?」
「欠け星」
「欠け星?」
「拾われ子だから。赤子のとき、川を流れてきたのですって。それで、親のない子だから、欠けた星」
今度は、かがよひが欠け星を見つめます。襲の下から覗く瞳が、初めて見たものに対する困惑といたわりに満ちていました。
「その、……何と言ったらいいだろうか。かようなとき、」
欠け星には、かがよひの迷いが手に取れました。
気安く同情はできぬ、さりとて流すわけにもゆかぬ。そうした不器用な心遣いが、彼を口ごもらせるのでしょう。
そのまじめさは、かえって欠け星の心を軽くしました。
「いいの。あなたが気にすることではないわ」
「……すまぬ」
「いいのよ。かがよひは、いまいくつ?」
話を転じると、かがよひはほっとした風にいらえました。
「七つだ」
「あら、わたしもよ。かがよひは、どうして宴を抜けてきたの?」
かがよひは、襲の下で眉をゆがめたようでした。衣を握り、おのれごとかき抱くようにします。
「……苦手なのだ、人の
「――」
「人の目を見ると、人の目に見られると、わたしは彼らから外れた、おかしな生きものなのだと思ってしまう。わたしは消えてしまいたくなる――」
そのことばは、ちくりと欠け星の胸を刺しました。漠々とした、魂ごとさらわれてゆきそうな、あの気持ち。
かがよひの持つさみしさは、どこか欠け星の持つものと似ています。村人から遠ざけられ、友も親もなき欠け星の孤独と。
「……わたし、あなたといっしょかもしれないわ」
「いっしょ?」
かがよひが顔を上げます。欠け星は頷き、襲の下にあるその瞳を見すえました。
「わたしも、村の人たちと遠いところにいるのだと思うときがある。わたしひとり、薄い
「――」
風が吹き、かがよひの被る襲を巻き上げました。その下から現れたかんばせは、上等の絹繭のようなうるわしさです。
常夜の国には強すぎる光でしたが、欠け星はそれよりも、驚いたかがよひの瞳の哀しさに目を奪われました。
――……みなそこ、
とそのとき、遠くから焦った足音と声がしました。
「わたしは、ここだ」
かがよひは目で欠け星に別れを告げ、襲を被り直して去ってゆきました。
欠け星はその後ろ姿を見送ります。まぶたの裏にはいつまでも水底の哀しみがたゆたって、もう、独りという気はしませんでした。
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