潮織りの比売(ひめ) 一



 比売ひめは、海の底で機を織っています。

 朝が来ないとこの国の、暗い暗いうなそこです。わずかな星の光もない闇の中、比売はおのれの手ひとつだけで、機をあやつっているのです。

 きり、はたり。

 ちよう、はたり。

 経糸たていと緯糸よこいとをとおし。たん、ととん、とおさをおさめ。


――……あなた。あなたさま。


 慕わしき御方のために、比売は織ります。いまはもう、遠き死者の世へお隠れになった汝兄なせの御方。うるわしのおっとぎみ

 うなそこと死者の世は隔てられ、もはや逢うことはありません。その機は届くことのない、うたかたのあだ波です。

 それでも比売は、万にひとつの望みをたぐって、機を奏でつづけていました。

 きり、はたり。

 ちよう、はたり。

 機のはそのまま糸の波となり、水面へ昇ります。そしてそれはそれは清らかな波頭となり、地上をたゆとうてゆくのでした。



 *



 そのむかし、比売は欠け星、という名でした。

 どこから来たともわからない、拾われ子であったからです。なんでも、まだ赤子のとき、葦の舟に乗って川を流れていたといいます。

 欠け星を拾った糸くりのばばさまは、ことごとにそのお話をいたしました。


「欠け星よ。おまえは川を流れてきた子じゃ、親なき子じゃ。ゆえ、他人ひとよりもうんと独りで立てねばならぬ。独りで生きられるおなごにならねばならぬ」


 糸つむぎの紡錘つむをくるくる回し、めしいとは思えぬ手つきで糸をつむぎ。

 そうしてばばさまは、最後にいつも、こう締めくくるのでした。


「忘れるな、欠け星。人は独りで生きねばならぬ生きものなのじゃよ」


 くるくる、くるくる。

 ばばさまの紡錘を眺めていると、欠け星は決まって漠々とした気持ちになります。ひゅう、と魂ごと、風にさらわれてしまう心地がします。


――……でも、おばあさまは、わたしのおかあさまの代わりだわ。


 そんな親代わりのばばさまが言うことです。だからきっと正しいのだと、幼い欠け星は端座して頷きました。


「はい、おばあさま。わたしは早く、おとなになります」


 ばばさまは教えのとおり、厳しく欠け星をしつけました。村のしきたり、礼儀作法。そしてなによりも、糸と機のこと。

 ばばさまと欠け星の住む村は、都と接する北東の山ぞいにあります。

 女系の村で、おなごらの多くは糸くりと機織りをなりわいとしていました。そうして、できた糸や布を毎年都に納めるのです。

 ばばさまも、そうしたつむぎ手のひとりでした。毎朝毎晩、欠け星とふたりきりの機小屋をてて糸つむぎに励みます。


「糸は野のもの 花のもの 命をつむぐ らのもの 流れをつむぐ 母のもの……」


 ばばさまは低く低く歌をうたい、くるくる紡錘を回します。欠け星はそのそばで、とん、とつたなくおさを叩きました。

 とたん、鋭い叱責が飛んできます。


「欠け星!」

「――っ、」


 欠け星は身をすくませました。ばばさまは小枝すわえでぴしりと地を打ち、見えぬ目を吊り上げます。


「なんじゃ、その音は。手が迷うておる。さような心でよき布が織れるものか」

「……はい、おばあさま。ごめんなさい」


 欠け星はうなだれて、膝に手を揃えます。

 ばばさまは立ち上がり、軸を持て、と諭しました。織りも、糸も、人の生きざまも、軸を持たねば潰えてしまう。おのれで選び、おのれで決めよ。その志を揺らがすな。

 そう諭すばばさまの顔は、いつも近づきがたく恐ろしく思われます。

 しかし一方で、ばばさまはかならず、隣に寄り添って導いてもくれました。手で欠け星のからだに触れ、おかしなところを直してくれます。


「よいか、欠け星。おまえの手の置き場がよくないのじゃ。これでは、しかと腰が入らぬ……」


 背に添えられた掌はあたたかく、よわいを重ねた人のゆたかな威厳に満ちています。

 ゆえに欠け星は、ばばさまのことも、機のことも嫌いにはなれぬのでした。



 やがて、欠け星が七つになった春のことです。

 この年、都におわします大君おおきみが、国を巡幸されることとなりました。

 常夜の国は、さまざまな小国の集まりで成っています。それらのいただきにましますのが、大君の一族です。

 周りの小国はそれぞれ立場も力も異なり、放りおけば争乱が起きかねません。ために大君は、ご自身の御目を届かせるため、方々へお出ましになるのです。

 こたびは、うちくにと呼ばれる都周辺を巡られるご予定でした。このご行程の中には、欠け星たちの住む村も入っています。

 そこで村の女たちは、寄ると触ると巡幸の話をしていました。布を小川にさらしながら、ころころ肩を寄せ合います。


「どうしましょう、大君さまがお出ましになるなんて」

「どんなおもてなしを差し上げたらよいかしら」

「あら、そんなの決まっているわ。栲綱たくづのの 白きただむき 嬢子おとめらの 絹のはだこそ――」


 ひとりが朗々と歌い上げれば、どっと笑いがはじけます。

 しかし欠け星もばばさまも、彼女たちの輪からは外れていました。ばばさまは布をすすぎ、冷ややかな口調になります。


「愚かしい。大君など、あれのなにがよいものか」


 ばばさまは村の長老のひとりでもあり、毎年都へ布を納めに上がっています。大君にも謁しているため、かの御方のひととなりも存じているはずでした。

 欠け星は首をかしげます。


「大君さまとは、どんな御方なのですか?」

「若造じゃ」


 簡潔なひとことでした。さらに、ばばさまはつづけます。


「おのが職分を受け入れもせず、いつまでもその重みに耐えかねてこごんでおる。みずから動こうともせぬ腰弱よ」


 その声が聞こえたのでしょう。他の女たちはこちらを見やり、ひそひそ話を始めました。

 欠け星が見返すと、嫌そうに離れてゆきます。ばばさまがたしなめました。


「捨て置け、欠け星よ」

「……はい」


 欠け星は頷き、ばばさまの隣で布をさらします。布は闇の流れにほろほろ光り、涙を散らしたかのようでした。


――いつものことだわ。


 たゆたう布たちを眺めながら、欠け星は言い聞かせます。

 村人たちは、つねにばばさまと欠け星を遠ざけておりました。もうずいぶん前、ばばさまがめしいで生まれたときからだそうです。

 ばばさまの親は、ばばさまによわと名づけて村を出てゆきました。村人は残された子をうとみ、盲でなにが機織りぞと爪はじきにしたといいます。

 それでもばばさまは努力を重ね、なんでもこなせる達者な女人になったのです。


――おばあさまは、たいへんな苦労をされてきた方。


 それを思えば、すくと背すじが伸びてきます。そうして、村人たちから忌まれた痛みも消えてゆくのでした。



 村に、風薫る季節がまいりました。

 づきも中旬、山々の銀色がいちだんと濃くなるころです。常夜の国には日差しがないので、草木たちはみな、銀のうすぎぬめいた葉を茂らせるものなのでした。

 この中を、大君は白い御馬にまたがってお出ましになりました。あまたの供を引き連れて、ものものしいご巡幸です。

 村人はそのさまを、家の中から、あるいは道に叩頭み伏して拝みます。欠け星も、桑畑からひそかにご一行を拝見しました。


――まるで、鷹みたいだわ。


 先頭に立つ大君は、厳しいお顔をしていらっしゃいます。とても、ばばさまが言う腰弱には見えません。

 そのいぶした刃のような強さに目を奪われていると、かの御方の後ろに、かがようものを見つけました。


――……あら、


 欠け星と同じくらいの背格好をした童です。

 その子は葦毛の馬に乗り、黒いはおりを被っていました。大君の陰へ隠れるように、身を縮めてしたがっています。

 しかしそうしていても、その身からにじみ出る麗質は隠しようがありませんでした。


――白鳥くぐいみたい。


 うつむいたさまが、ほっそりとした白鳥を思わせます。衣を透かして立ちのぼる香気も、まっさらな羽根のようでした。


――あの子は、いったい誰かしら。


 その解は、のちほどわかりました。大君をお迎えしたその晩です。

 村の広場では、みなが大君の御ために宴をもよおしておりました。かがり火を焚き、酒をふるまい、楽に合わせて舞い歌います。

 その明るい響きが風に乗って聞こえていました。

 どんどんつくつく、

 ひょう、ひろろ。

 どんつくどんどん、

 ひょう、ひおろう。

 ですが欠け星は独りでした。独りで桑畑にいました。

 ばばさまは長老のひとりとして宴に出ていますが、欠け星に与えられる席はありません。星あかりの震える下、独りで桑の葉を摘みとります。


「桑の葉を 摘み摘み さわに うるわしく 摘み摘み さやに 安らけく……、」


 歌いながら進んでいると、ふいに近くの茂みがさざめきました。獣とは違う揺れ方です。


「……だれ?」


 欠け星が問うと、相手は息をつめるように沈黙しました。

 しかし少しして、観念したように姿を見せます。闇にほのかな光がかがよい、欠け星は目を丸くしました。


「あなた――」

「……すまぬ。畑を荒らすつもりはなかった」


 童はおとなびた口ぶりで謝ります。黒い襲を被っているので表情はわかりませんが、ばつが悪そうに手足をもじつかせていました。

 欠け星は首をふり、桑摘みの籠を土に置きます。


「あなた、大君さまの後ろにいた子ね?」


 近づくと、童はびくりと身をすくめました。


「――言わぬでくれ」

「え?」

「父上に――大君様に言わぬでくれ。……わたしは、宴を抜け出してきているのだ」


 欠け星はまじまじと童を眺めました。

 線が細く、おなごと見まがうおのこです。あの峻烈な大君とは、あまり似ていないように思われました。


「あなたは、大君さまの子なの?」

「……、」


 童は迷い、それからかすかに頷きました。そしてぼそぼそと名を告げます。


「わたしは、かがよひだ。……そなたは?」

「欠け星」

「欠け星?」

「拾われ子だから。赤子のとき、川を流れてきたのですって。それで、親のない子だから、欠けた星」


 今度は、かがよひが欠け星を見つめます。襲の下から覗く瞳が、初めて見たものに対する困惑といたわりに満ちていました。


「その、……何と言ったらいいだろうか。かようなとき、」


 欠け星には、かがよひの迷いが手に取れました。

 気安く同情はできぬ、さりとて流すわけにもゆかぬ。そうした不器用な心遣いが、彼を口ごもらせるのでしょう。

 そのまじめさは、かえって欠け星の心を軽くしました。


「いいの。あなたが気にすることではないわ」

「……すまぬ」

「いいのよ。かがよひは、いまいくつ?」


 話を転じると、かがよひはほっとした風にいらえました。


「七つだ」

「あら、わたしもよ。かがよひは、どうして宴を抜けてきたの?」


 かがよひは、襲の下で眉をゆがめたようでした。衣を握り、おのれごとかき抱くようにします。


「……苦手なのだ、人のつどうている場が。みな、わたしを恐れるから」

「――」

「人の目を見ると、人の目に見られると、わたしは彼らから外れた、おかしな生きものなのだと思ってしまう。わたしは消えてしまいたくなる――」


 そのことばは、ちくりと欠け星の胸を刺しました。漠々とした、魂ごとさらわれてゆきそうな、あの気持ち。

 かがよひの持つさみしさは、どこか欠け星の持つものと似ています。村人から遠ざけられ、友も親もなき欠け星の孤独と。


「……わたし、あなたといっしょかもしれないわ」

「いっしょ?」


 かがよひが顔を上げます。欠け星は頷き、襲の下にあるその瞳を見すえました。


「わたしも、村の人たちと遠いところにいるのだと思うときがある。わたしひとり、薄いとばりの向こうにいるようなの」

「――」


 風が吹き、かがよひの被る襲を巻き上げました。その下から現れたかんばせは、上等の絹繭のようなうるわしさです。

 常夜の国には強すぎる光でしたが、欠け星はそれよりも、驚いたかがよひの瞳の哀しさに目を奪われました。


――……みなそこ、


 滾々こんこんと湧く、泉の水底を覗き込んだかのようです。あとからあとから、静かにあふれてくる哀しみです。欠け星はそれをよく見ようと踏み出しました。

 とそのとき、遠くから焦った足音と声がしました。みこさま、と呼ぶ声です。かがよひが、はっと気づいて返事をします。


「わたしは、ここだ」


 かがよひは目で欠け星に別れを告げ、襲を被り直して去ってゆきました。

 欠け星はその後ろ姿を見送ります。まぶたの裏にはいつまでも水底の哀しみがたゆたって、もう、独りという気はしませんでした。




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