かなしの草子

うめ屋

巻上

かがよひの王(みこ)



 かがよひのみことおっしゃる皇子は、たいへんうるわしい御方でした。

 よわい十にして、その麗質は天まで届こうというほどです。お顔ははくぎょくを透かしたように清らかで、御身からにじみ出る光が香気となってゆらめくのです。

 しかし皇子は、そのうるわしさゆえに孤独でした。誰ひとりとして、皇子を直視できぬためです。

 というのも、この国には光が少ないからなのでした。

 ここはとこの国といい、決して朝がおとずれません。ひとびとはつねに、ひっそりとした夜の中で星あかりを読み暮らしています。

 さような国では、皇子のお姿はまばゆすぎるのです。正面から見つめれば、きっと両の目が潰されてしまいます。

 ゆえ、みな皇子が近寄るとまなざしを伏せ、硬くかしこまるのでした。



 この皇子のお父君は、常夜の国をらしめす大君おおきみです。名を闇彦祇くらひこのかみとおっしゃり、国でいっとう星読みにすぐれた御方でした。

 大君は毎夜、宮の庭で星読みをなさいます。まず禊ぎをし、柏手をうち、国の宝であるくらの鏡をお持ちになります。

 そうして、鏡に映じた星の宿りを読むのです。その星読みが、そのまま国のまつりごとの指針となってゆくのでした。

 かがよひの王はお世継ぎの皇子でいらっしゃるので、この星読みの場にも侍ります。しかし大君は皇子がお出ましになると、いつもたまりかねたように闇の鏡を伏せるのでした。


みこよ」

「はい」

「そなたが侍ると星の光が消えてしまう。下がりなさい」

「……はい」


 皇子は額を地にすりつけ、後じさりました。

 そこへ乳母が近づき、伏し目がちに黒いはおりを差し出します。皇子は神妙にそれをかぶり、宮の陰から息をひそめてお父君をご覧になるのでした。

 かような皇子のうるわしさに、宮ではその位を危ぶむ声も多くございました。


「王はあまりにもさやかでいらっしゃる」

「かような御方が次の大君となられれば、国はいかなることであろう」

「闇が消え、みなみな、おそろしい白日の下に暴かれてしまうのではないか」


 ささやかれる声々を、皇子はいつもやはり物陰からお聴きになります。そうしてたまらず、おのがお部屋を飛び出すのでした。


――……母上、


 駆け出した皇子の足は、おのずとお母君のお部屋へ向かいます。

 おかあさま。皇子のたったひとりのおかあさま。おかあさまに、この胸のうちを聴いてほしい。そうしてその手でつむりを撫でて、そのお膝に迎え入れていただけたら。

 しかし皇子は、ふつりとお部屋の前で立ち止まりました。

 中からきんをふるわせるような、哀しいすすり泣きが聞こえたためです。皇子は床に目を落とし、戸へもたれかかりました。



 皇子は、大君のまことの子ではないのでないか、と噂されておりました。

 ほんとうのお父君はお母君のおにいさま、つまり皇子の伯父君にあたる御方ではないかといいます。

 伯父君とお母君は、それは仲のよいご兄妹きょうだいでした。伯父君は名をみこ、お母君は名を夕生比売ゆうひめとおっしゃいます。

 同じおかあさまからお生まれになったおふたりは、長じてのちもたいへん睦まじいご兄妹でした。それゆえ、周りからよこしまな目を向けられていたのです。

 また本来、大君の位を継ぐのはこの伯父君のはずでした。伯父君のおとうさまである明時祇あかときのかみこそが、国の正統な大君であらせられたからです。

 ところが明時祇がお隠れになったとき、あけぼのの王が謀反のかどで誅されます。これを討ったのが、いとこのみこでした。

 くらひこの王は遺された夕生比売を妃に娶り、闇彦祇くらひこのかみとして即位されます。そうしてお生まれになったのが、かがよひの王ということになっていました。



 しかし、噂は深い夜の中をこそ漂ってゆくものです。

 いくら闇彦祇がおのれの正しさを唱えても、ひとびとはかみにも、夕生比売にも疑いの目を向けました。ために比売は臥せりがちとなり、皇子がお生まれになってからは、いっそう酷くおなりになったのです。

 皇子はかようなお母君をご覧になるたび、きつく目をつぶって祈りました。


――どうか。どうか母上をほほ笑ませ、父上のお役に立てる皇子になれますように。


 その夜半よわです。

 つねどおり、皇子はひとりで宮の庭へ下りました。星読みの修練をするためです。

 大君のあとを継ぐためには、まずなによりも星が読めねばなりません。読みをたがえれば国は沈み、民が死にます。

 それは、あってはならぬことです。そうならぬため、代々の大君もお世継ぎも、決して修練をおこたりはしませんでした。


――わたしは、ただびととは違う皇子だ。さような者がみなに認められるには、ひとの何倍も励まねばならない……。


 皇子ははおりを巻きつけ、くらの鏡を捧げ持ちました。水面のようなそのおもてに、目いっぱいの星の河がほとばしります。大小、金銀、光のまたたきもそれぞれに。

 皇子はそれを見、星の点を指でなぞって繋ぎました。火矢ひや座、鏡座、かむなぎ座。からす座、ひも座、はした座……。

 星の宿りを読んでいると、かつてお父君とともに過ごした夜が思い出されます。



 皇子がまだ、よわい四つほどの時分でした。

 そのときも皇子は襲をかぶり、物陰からお父君を眺めていらっしゃいました。すると気づいたお父君が、皇子を手招かれたのです。


みこよ、見たければ近くに来なさい」


 皇子は目をみはり、おずおずと近づきました。

 途端、ふわりとお父君のお膝へ抱き上げられます。お父君は大君らしい、いかめしいお顔で鏡をお示しになりました。


「ご覧、王よ。このあかの星を結ぶと火矢座となる。火矢は私たちの偉大なる祖、のめのかみが悪しき日輪を射落とした神器なのだよ」


 皇子はおどろきました。お父君がじきじきに、星読みを教えてくださるとは思わなかったからです。

 皇子がまばゆくふり仰ぐと、お父君はやはり、きまじめなお顔をしておっしゃるのでした。


「そなたは私の世継ぎだ。ゆえ、正しい星読みのすべを身につけておかねばならん」


 このことばは、皇子の胸にゆらゆらと沁み入りました。


――父上は、ちゃんとわたしを世継ぎとしてご覧くださっている。


 そうなのです。あのときのお父君は、たしかに皇子を御子として扱われていたのです。

 そしてその輝きが、数年経ったいまでも皇子の背を支えているのでした。


――わたしは、父上の子なのだ。きっと、きっとそうなのだ……。


 皇子は唇を噛み、祈るように額を鏡へくっつけます。その頭上で、ひとすじ、夜半の星が流れ去ってゆきました。



 *



 やがて、皇子は十五の歳を迎えられました。

 そのご容貌はますます清らかな香気を放ち、しろかねの光をふりまくようです。そのため皇子を目にしたひとは、みな、畏れおののいて地へ伏してしまうのでした。

 さような皇子のお心には、ひとつの愁いがおありでした。

 お父君たる、闇彦祇くらひこのかみのことです。ひととせほど前から、お父君はなにか取り憑かれたようになっておしまいでした。

 鋭い御目をらんらんと底光らせ、女官が土師器はじを落としただけで、厳しく責め立てられるのです。そうしたときには、臣下が腕ずくで大君をお止めせねばなりませんでした。

 かようなさまでありますから、近ごろの宮はつねに張りつめておりました。

 一手でも間違えば、びん、と弓の弦が弾け飛んでしまいそうです。ひとびとは息をひそめ、衣ずれひとつにも気を払いながら暮らしていました。

 皇子はお父君を取りなしながら、哀しくそのお姿を眺めます。


――父上は、あまりにも孤独でいらっしゃるのだ。


 大君としての重さが、民が、絶えぬ周囲の噂の目が、お父君の両肩を押し潰さんとしているのです。お父君はまじめな、き大君であらせられるから。それゆえに、いっそう苦しまれるのです。

 お母君の夕生比売も、そうしたご夫君に引き寄せられてしまったのでしょうか。まるで生きるお力を吸い取られるように、日ごと弱ってゆかれていました。



 事が起こったのは、その矢先です。

 星がふるえるような夜ふけでした。みな寝しずまったころ、比売のお部屋から突然悲鳴が上がったのです。急ぎ参じたひとびとは、そこで信じがたい光景を見ました。

 部屋を守っていた侍女はもの言わぬむくろとなり、その血だまりの中、髪を掴まれた比売がねじり上げられています。狼藉をしているのは大君です。

 ひとびとは仰天して押さえ込もうとしましたが、大君は剣をふるって彼らを一喝されました。すさまじい化け物のごとき形相で、誰も近づけぬほどです。


「――父上!」


 遅れて駆けつけた皇子は、このありさまに戦慄しました。身を投げてお父君の足へすがります。


「なにをなさっておられますッ! 母上が死んでしまう……!」


 お母君はすでに気を失しておられました。

 しかしお父君は皇子にも刃をふるい、烈しく斬りかかってこられます。紙一重で避けた皇子の袖がひらりと切れ落ち、そこにふたたびお父君の剣が光りました。


「かまわぬ、かまわぬッ! 比売は死人だ、疾うに死した鬼のだ! 私があけぼのを殺したとき、この女の心はもはや死んでおった……!」

「……父上、」


 皇子の胸が刺し抜かれたように痛みました。皇子には、このときすべてが見えておしまいになったのです。


――やはり母上は……。


 伯父君を――ご自分のおにいさまを、いとしくお思いだったのでしょうか。

 少なくとも、お父君の頭の中では、そういうことになっているのでしょう。お父君は血走った目で、皇子に剣を突きつけました。


「殺めよ、みこ。母を屠れ」

「……なにを」


 皇子は大きく身震いしました。口が渇き、縛られたように動けません。しかしお父君は手心なく、皇子の胸ぐらを掴んで迫られます。


「為せ、王よ。さなくばそなたは世継ぎになれぬ。私の子には永劫なれぬ。その剣で母を屠り、汝に流れる忌まわしき血をすすげ」


 そなたのまことの父は、あけぼのである。お父君は、最後にそう明かされたのでした。

 皇子はもはや悪寒で倒れてしまいそうでしたが、お父君はなおも事を強いていらっしゃいます。皇子の手に剣を握らせ、かッと雷鳴のごとく吼えられました。


「さあ王よ、汝の為すべきことを為せ!」


 さあ! さあ! さあ!

 その呼びかけが耳にどよもし、皇子のお心にいくつもの波が押し寄せます。瀬は流れ、流れ流れて来し方といまが交錯しました。

 皇子をお膝へ抱いてくださったおとうさま。いつもか弱く、いたわしかったおかあさま。

 おとうさまは皇子を愛し、愛そうとしてくださった。おかあさまとて、決して皇子をいとうて泣いていらしたのではないでしょう。

 おやさしい方なのです。おとうさまもおかあさまも、おやさしく細やかな方なのです。


 されど。

 されど憎い。おとうさまが、そしておかあさまが憎らしい。


 その激情が走った瞬間、皇子のお心のかんぬきは一気に押し外されてしまっておりました。


「――ッ!」


 一閃。

 しろかねの光が闇にひらめき、比売の首がころりと床へ転がりました。

 皇子はすかさず、返す剣を大君の腹に突き立てます。あまりの速さに、一瞬大君のお顔は怒りのまま固まっていらっしゃいました。

 遅れてその腹と口から血が噴き出すと、固唾を飲んでいたひとびとの間に悲鳴が上がります。皇子はかまわず、剣についた血を払って立ち上がりました。


「……闇彦祇くらひこのかみはお隠れになった。わたしがしいした」


 人垣に歩み寄れば、みな腰を抜かして後じさります。中にはきたなきものを垂れ流し、あるいは気を失している者もいました。

 皇子は――たったいま新たな大君となられた耀かがよひのかみは、鋭く剣を突き上げ叫びました。


「新たなる大君、耀日祇たるこのわたしが請う。――すべての者に、まったき闇のあらんことを!」


 それから、悪夢のごとき惨劇が始まりました。剣は狂犬のごとく舞いすさび、その場にいる者の両目をつぎつぎと斬り伏せました。

 そして耀日祇はそのまま宮じゅうを駆け回り、臣たちをことごとく傷つけていったのです。童も女も年寄りも、寝ている者も命乞いをする者も。

 宮の中は、粘つくような呻きと血臭でむせ返りました。大君はそのように為すべきことを為したあと、血まみれの剣とともにたかくらへ就かれました。

 突然目を失った者たちは、幽鬼のようにあたりを這いずるしかありません。見かねた糸くり婆が糸縄いとなわをない、みな、それにすがって宮を行き来しました。

 耀日祇はこの婆を侍女として侍らせました。彼女はもともとめしいだったため、大君のお顔を見ても怯えなかったからです。

 そうしてのち、大君はこの婆のむすめを妃に迎えました。むすめはたいそう機織りがうまかったので、細蟹ささがに比売ひめと呼ばれます。この比売はなにがあっても、生涯大君を慕いました。



 その耀日祇は、比売に御子がお生まれになった翌日あくるひに殺されました。

 御子は男王ひこみこでありました。ために家臣らがこの御子を担ぎ、大君に反旗をひるがえしたのです。

 大君はご自身のお母君がそうされたように首を斬られ、お父君がそうされたように腹を突かれて亡くなりました。御身は都の北にある、星見の丘で風葬に付されました。

 妃である細蟹比売は、このとせのち、泉へ身を投げられます。御子が三つにおなりのときでした。



 遺された御子は、糸くりの婆が乳母となってお育て申し上げました。

 この御子は亡きあけぼののみこに瓜ふたつの、おやさしく伸びやかな皇子でした。御子が歩けば春風が立ち、御子が笑えば周囲がすがすがしくなりました。

 そしてこの御子が即位されたとき、朝がなかったこの国に、ほのぼのとした夜明けの光が満ちたのです。

 それはひとびとの両目を照らし、めしいたまぶたを開かせました。白日は闇を暴くものでなく、おだやかに夜を受け入れるかいなとしてゆきわたったのです。

 このため御子は、その御名をみこ、また大君としては明祇あかるのかみと呼ばれました。

 大君は百歳ももとせの齢を生き、最後は遠き不死ふじの霊山へお籠もりになったといわれています。


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