かなしの草子
うめ屋
巻上
かがよひの王(みこ)
かがよひの
しかし皇子は、そのうるわしさゆえに孤独でした。誰ひとりとして、皇子を直視できぬためです。
というのも、この国には光が少ないからなのでした。
ここは
さような国では、皇子のお姿はまばゆすぎるのです。正面から見つめれば、きっと両の目が潰されてしまいます。
ゆえ、みな皇子が近寄るとまなざしを伏せ、硬くかしこまるのでした。
この皇子のお父君は、常夜の国を
大君は毎夜、宮の庭で星読みをなさいます。まず禊ぎをし、柏手をうち、国の宝である
そうして、鏡に映じた星の宿りを読むのです。その星読みが、そのまま国のまつりごとの指針となってゆくのでした。
かがよひの王はお世継ぎの皇子でいらっしゃるので、この星読みの場にも侍ります。しかし大君は皇子がお出ましになると、いつもたまりかねたように闇の鏡を伏せるのでした。
「
「はい」
「そなたが侍ると星の光が消えてしまう。下がりなさい」
「……はい」
皇子は額を地にすりつけ、後じさりました。
そこへ乳母が近づき、伏し目がちに黒い
かような皇子のうるわしさに、宮ではその位を危ぶむ声も多くございました。
「王はあまりにも
「かような御方が次の大君となられれば、国はいかなることであろう」
「闇が消え、みなみな、おそろしい白日の下に暴かれてしまうのではないか」
ささやかれる声々を、皇子はいつもやはり物陰からお聴きになります。そうしてたまらず、おのがお部屋を飛び出すのでした。
――……母上、
駆け出した皇子の足は、おのずとお母君のお部屋へ向かいます。
おかあさま。皇子のたったひとりのおかあさま。おかあさまに、この胸のうちを聴いてほしい。そうしてその手でつむりを撫でて、そのお膝に迎え入れていただけたら。
しかし皇子は、ふつりとお部屋の前で立ち止まりました。
中から
皇子は、大君のまことの子ではないのでないか、と噂されておりました。
ほんとうのお父君はお母君のおにいさま、つまり皇子の伯父君にあたる御方ではないかといいます。
伯父君とお母君は、それは仲のよいご
同じおかあさまからお生まれになったおふたりは、長じてのちもたいへん睦まじいご兄妹でした。それゆえ、周りからよこしまな目を向けられていたのです。
また本来、大君の位を継ぐのはこの伯父君のはずでした。伯父君のおとうさまである
ところが明時祇がお隠れになったとき、あけぼのの王が謀反のかどで誅されます。これを討ったのが、いとこのくらひこの
くらひこの王は遺された夕生比売を妃に娶り、
しかし、噂は深い夜の中をこそ漂ってゆくものです。
いくら闇彦祇がおのれの正しさを唱えても、ひとびとは
皇子はかようなお母君をご覧になるたび、きつく目をつぶって祈りました。
――どうか。どうか母上をほほ笑ませ、父上のお役に立てる皇子になれますように。
その
つねどおり、皇子はひとりで宮の庭へ下りました。星読みの修練をするためです。
大君のあとを継ぐためには、まずなによりも星が読めねばなりません。読みを
それは、あってはならぬことです。そうならぬため、代々の大君もお世継ぎも、決して修練をおこたりはしませんでした。
――わたしは、ただびととは違う皇子だ。さような者がみなに認められるには、ひとの何倍も励まねばならない……。
皇子は
皇子はそれを見、星の点を指でなぞって繋ぎました。
星の宿りを読んでいると、かつてお父君とともに過ごした夜が思い出されます。
皇子がまだ、
そのときも皇子は襲をかぶり、物陰からお父君を眺めていらっしゃいました。すると気づいたお父君が、皇子を手招かれたのです。
「
皇子は目をみはり、おずおずと近づきました。
途端、ふわりとお父君のお膝へ抱き上げられます。お父君は大君らしい、いかめしいお顔で鏡をお示しになりました。
「ご覧、王よ。この
皇子はおどろきました。お父君がじきじきに、星読みを教えてくださるとは思わなかったからです。
皇子がまばゆくふり仰ぐと、お父君はやはり、きまじめなお顔をしておっしゃるのでした。
「そなたは私の世継ぎだ。ゆえ、正しい星読みのすべを身につけておかねばならん」
このことばは、皇子の胸にゆらゆらと沁み入りました。
――父上は、ちゃんとわたしを世継ぎとしてご覧くださっている。
そうなのです。あのときのお父君は、たしかに皇子を御子として扱われていたのです。
そしてその輝きが、数年経ったいまでも皇子の背を支えているのでした。
――わたしは、父上の子なのだ。きっと、きっとそうなのだ……。
皇子は唇を噛み、祈るように額を鏡へくっつけます。その頭上で、ひとすじ、夜半の星が流れ去ってゆきました。
*
やがて、皇子は十五の歳を迎えられました。
そのご容貌はますます清らかな香気を放ち、しろかねの光をふりまくようです。そのため皇子を目にしたひとは、みな、畏れおののいて地へ伏してしまうのでした。
さような皇子のお心には、ひとつの愁いがおありでした。
お父君たる、
鋭い御目をらんらんと底光らせ、女官が
かような
一手でも間違えば、びん、と弓の弦が弾け飛んでしまいそうです。ひとびとは息をひそめ、衣ずれひとつにも気を払いながら暮らしていました。
皇子はお父君を取りなしながら、哀しくそのお姿を眺めます。
――父上は、あまりにも孤独でいらっしゃるのだ。
大君としての重さが、民が、絶えぬ周囲の噂の目が、お父君の両肩を押し潰さんとしているのです。お父君はまじめな、
お母君の夕生比売も、そうしたご夫君に引き寄せられてしまったのでしょうか。まるで生きるお力を吸い取られるように、日ごと弱ってゆかれていました。
事が起こったのは、その矢先です。
星がふるえるような夜ふけでした。みな寝しずまったころ、比売のお部屋から突然悲鳴が上がったのです。急ぎ参じたひとびとは、そこで信じがたい光景を見ました。
部屋を守っていた侍女はもの言わぬ
ひとびとは仰天して押さえ込もうとしましたが、大君は剣をふるって彼らを一喝されました。すさまじい化け物のごとき形相で、誰も近づけぬほどです。
「――父上!」
遅れて駆けつけた皇子は、このありさまに戦慄しました。身を投げてお父君の足へすがります。
「なにをなさっておられますッ! 母上が死んでしまう……!」
お母君はすでに気を失しておられました。
しかしお父君は皇子にも刃をふるい、烈しく斬りかかってこられます。紙一重で避けた皇子の袖がひらりと切れ落ち、そこにふたたびお父君の剣が光りました。
「かまわぬ、かまわぬッ! 比売は死人だ、疾うに死した鬼の
「……父上、」
皇子の胸が刺し抜かれたように痛みました。皇子には、このときすべてが見えておしまいになったのです。
――やはり母上は……。
伯父君を――ご自分のおにいさまを、いとしくお思いだったのでしょうか。
少なくとも、お父君の頭の中では、そういうことになっているのでしょう。お父君は血走った目で、皇子に剣を突きつけました。
「殺めよ、
「……なにを」
皇子は大きく身震いしました。口が渇き、縛られたように動けません。しかしお父君は手心なく、皇子の胸ぐらを掴んで迫られます。
「為せ、王よ。さなくばそなたは世継ぎになれぬ。私の子には永劫なれぬ。その剣で母を屠り、汝に流れる忌まわしき血を
そなたのまことの父は、あけぼのである。お父君は、最後にそう明かされたのでした。
皇子はもはや悪寒で倒れてしまいそうでしたが、お父君はなおも事を強いていらっしゃいます。皇子の手に剣を握らせ、かッと雷鳴のごとく吼えられました。
「さあ王よ、汝の為すべきことを為せ!」
さあ! さあ! さあ!
その呼びかけが耳にどよもし、皇子のお心にいくつもの波が押し寄せます。瀬は流れ、流れ流れて来し方といまが交錯しました。
皇子をお膝へ抱いてくださったおとうさま。いつもか弱く、いたわしかったおかあさま。
おとうさまは皇子を愛し、愛そうとしてくださった。おかあさまとて、決して皇子を
おやさしい方なのです。おとうさまもおかあさまも、おやさしく細やかな方なのです。
されど。
されど憎い。おとうさまが、そしておかあさまが憎らしい。
その激情が走った瞬間、皇子のお心の
「――ッ!」
一閃。
しろかねの光が闇にひらめき、比売の首がころりと床へ転がりました。
皇子はすかさず、返す剣を大君の腹に突き立てます。あまりの速さに、一瞬大君のお顔は怒りのまま固まっていらっしゃいました。
遅れてその腹と口から血が噴き出すと、固唾を飲んでいたひとびとの間に悲鳴が上がります。皇子はかまわず、剣についた血を払って立ち上がりました。
「……
人垣に歩み寄れば、みな腰を抜かして後じさります。中には
皇子は――たったいま新たな大君となられた
「新たなる大君、耀日祇たるこのわたしが請う。――すべての者に、まったき闇のあらんことを!」
それから、悪夢のごとき惨劇が始まりました。剣は狂犬のごとく舞いすさび、その場にいる者の両目をつぎつぎと斬り伏せました。
そして耀日祇はそのまま宮じゅうを駆け回り、臣たちをことごとく傷つけていったのです。童も女も年寄りも、寝ている者も命乞いをする者も。
宮の中は、粘つくような呻きと血臭でむせ返りました。大君はそのように為すべきことを為したあと、血まみれの剣とともに
突然目を失った者たちは、幽鬼のようにあたりを這いずるしかありません。見かねた糸くり婆が
耀日祇はこの婆を侍女として侍らせました。彼女はもともと
そうしてのち、大君はこの婆のむすめを妃に迎えました。むすめはたいそう機織りがうまかったので、
その耀日祇は、比売に御子がお生まれになった
御子は
大君はご自身のお母君がそうされたように首を斬られ、お父君がそうされたように腹を突かれて亡くなりました。御身は都の北にある、星見の丘で風葬に付されました。
妃である細蟹比売は、この
遺された御子は、糸くりの婆が乳母となってお育て申し上げました。
この御子は亡きあけぼのの
そしてこの御子が即位されたとき、朝がなかったこの国に、ほのぼのとした夜明けの光が満ちたのです。
それはひとびとの両目を照らし、
このため御子は、その御名をあかるの
大君は
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