潮織りの比売(ひめ) 三
やがて欠け星は、
ひととせ経っても、夫を迎える気配がなかったからです。
欠け星の村の女たちは、ふつう、月のものが来れば婿をとります。
婿をとることは、一人前の女のあかしです。中には、かならずむすめを
さような村で、婿入れ仕度をしていないのは欠け星くらいのものです。ばばさまが、決して婚姻を許さないためでした。
――それは、かまわないけれど。
日ごと機を鳴らしつつ、欠け星は考えます。
機に向かってさえいれば、欠け星は満ち足ります。婿を迎えることに、たいして実感も湧きません。
ですから、嫁き遅れと言われても哀しくはないのですが。
――でも、少しだけ。……少しだけ、さみしいわ。
欠け星は親のない、欠けた星です。
この上、伴侶もなく死んでゆかねばならぬのは、寂しいことです。背骨がきしきしとするようです。
そうしていると、欠け星は決まってかがよひのことを思いました。欠け星と似たまたたきを持つ、独りの子。
――かがよひ。もしもあなたと……。
あのさみしい皇子と隣り合い、語らうことができたなら。寄り添うことができたなら。
機の
十三になった欠け星は、ふたたび都へ参りました。
すると、みながいっせいに息をのみます。
欠け星は知らぬことでしたが、これは、大君としては尋常でないおふるまいだったからでした。
大君は国を統べる者として、つねに中道を保たねばなりません。大君が少し眉をひそめられただけで、臣下の首が飛ぶかもしれないのです。
ですから大君となられる御方は、めったにご自身のご興味をあらわにされぬものでした。
「大君」
側近らしい臣が、硬い顔で大君のおそばへ寄ります。しかし大君はそれをうるさげに手で払い、布をつくづくと撫でられました。
「……
「は?」
臣下が驚いて眉を上げます。大君はそれを
「この布の織り手は、いったい誰かと問うている」
刹那。
従者たちの間に沈黙が走りました。凍りついたような静寂の中、彼女らの目が欠け星に向けられます。
そうされるまでもなく、おのれで織った布ならば見分けがつきました。欠け星の心の臓が暴れ出し、いっきに汗が噴き出します。
――わたし、なにか……。
お気に食わぬ布を織ってしまったでしょうか。この場で罰せられるのでしょうか。
欠け星は、もはや指一本動かせません。石のようになった欠け星のそばで、ずいとばばさまが前に出ました。
「畏れながら、その布にお手を触れさせて頂きたく」
「ふむ、婆か。婆ならば
大君が、ばばさまに布を下されます。ばばさまは丹念に布をなぞり、見えぬ目を上げました。
「これは、ここにおる欠け星が織ったものにございまする」
「ほう」
大君の御目がこちらへ注がれます。
欠け星は下を向いたまま、こわばりました。大君は、かまわず欠け星を眺められます。
「よき手だ。わが妃の、若きころの織りに似ている」
「……勿体のう、おことばにございます」
欠け星は、なんとかそれだけお返ししました。その欠け星に、大君はいっそう信じがたいことをおっしゃいます。
「巧みな織り手は、いくらおっても困らぬ。欠け星よ、そなたは一日この宮に留まり、
途端、居並ぶ臣たちがどよめきました。側近らしいひとりが叫びます。
「大君、それはなりませぬ! 下民に宮の工房を見せよなど、貴重な技が盗まれます!」
「ええ黙れッ! この私がよいと言うておるのだ、そなたが口を挟むことではない!」
すかさず大君はお立ちになり、お席をなぎ倒す勢いで臣に迫られました。
大君のお顔は真っ青になり、いまにもまなじりが裂けそうです。ぶるぶると震える御身から、なにか狂ったものすら立ちのぼっています。
臣下はそれを見、鼻白んだ様子で口をつぐみました。大君は目玉をぎょろつかせ、群臣たちをご覧になります。
「
「はい」
進み出た人影は、黒い
それで欠け星は、迷いつつも立ち上がりました。みなのまなざしに追われながら、皇子の後ろに従います。
欠け星はひとびとの、とりわけ同じ村の者たちの粘つく目に見送られ、正殿をあとにしました。
「……すまぬな。父上が突然」
正殿を離れたところで、かがよひが謝りました。
欠け星は首をふります。話したいことはいろいろあったのですが、まだ狼狽で声が出ないのでした。
かがよひは正殿から庭を下り、慣れた足で歩き出します。
「じき、父上が工房に先触れを出すはずだ。それを待ってからゆこう」
「文目人、という人たちのところ?」
ようやく声が出て訊ねます。かがよひが頷きました。
「宮には、宮の暮らしをまかなう人間がさまざまいるのだ。
「では、文目人は宮の人たちの織物をつくるのね」
「そうだ。
「……それは確かに、わたしのような下民が見ていいものではないわね」
先ほどの臣下のことばを思い出し、苦く笑みます。かがよひは欠け星をふりむき、哀しげにほほ笑みました。
「父上がよいとおっしゃったのだから、よいのだよ。そなたは胸を張っていればいい」
「その、……大君さまは、」
いったいどうなさったの、とは訊けませんでした。
大君のひととなりもよく存じ上げぬのに、無作法に踏み込むなどできません。かがよひの笑みを見れば、なおさらです。
欠け星は口をつぐみ、痛ましく目を伏せました。かがよひも黙り込み、歩を進めます。
そのとき、前方の木立の陰から、女たちのひそひそ声が聞こえてきました。
「――の
「ええ。きっと慈悲深い大君になられたでしょうに」
「そうしたら、かがよひさまのように恐ろしい御方も、お生まれでなかったやも――」
おそらく、宮の女官たちです。欠け星は、はっとしてかがよひを窺いました。
彼は白い顔をし、かたくなに前だけを見て歩きます。それとも知らず、女たちは話しつづけていました。
「ねえ。……あけぼのの
「謀反の疑いをかけられて」
「
「
ふたりは息を殺し、這い進むように木立を通り過ぎました。
そこで、かがよひが歩を止めます。欠け星も立ち止まり、その同じくらいの背丈に寄り添いました。
「あけぼのの王は、わたしのまことの父上かもしれぬ御方なのだ」
「――」
欠け星は驚きましたが、黙ってかがよひを待ちました。すると彼はうつむき、ぽつぽつとおのれの秘密を明かしたのでした。
夕生比売というのは、かがよひのおかあさまだそうです。そしてあけぼのの王は、おかあさまのおにいさま。
おふたりは昔から、たいへん仲がよくていらっしゃいました。しかしそのために、兄妹で情を通じているのではと疑われたらしいのです。
「のち、あけぼのの伯父上は謀反のかどで誅された。……わたしの父上に。だがほんとうは、伯父上は謀反など企んでいなかったのではないかともと思うのだ」
かがよひのおとうさまが――闇彦祇が、夕生比売を手に入れるために、あけぼのの王を殺したのではなかろうかと。
あるいは、比売と王の不義を闇へ葬るために、殺さざるをえなかったのではないかと。
宮のひとびとは、ずっとさような噂をしているらしいのです。そして、かがよひは幼いころから、それらの流言に囲まれて育ったのでした。
「わたしには、真実はわからない。母上はいつも泣いておいでだ。父上にも、とても訊けぬ。……わたしのまことの父上が誰なのかなど、」
「――」
欠け星は、思わずかがよひの腕に手を添えました。そうせねば、彼が倒れてしまうのではないかと思ったからです。
欠け星はかがよひの腕をさすり、力づけるように言いました。
「でも、かがよひのお父さまが誰であっても、それでかがよひが責められる
するとかがよひは首をふり、
「わたしは、この一族の澱なのだろうと思う。父上、母上、伯父上やおじい様、おばあ様。あまたのご先祖様たちがなしてきた、歪みや
「……かがよひ」
かがよひの笑みは、あまりにも哀しく澄んでいました。秋の枯れ野をゆく、そよ風のようでした。
それを見ると、欠け星はもう胸がつまってしまいました。きつく唇を結んでいますと、かがよひが、今度は欠け星をなだめるように首をふります。
「すまないな、つまらぬ話をして。そなたなら聴いてくれると思って、甘えてしまった」
「いいの。いいのよ、聴くわ。わたし、あなたの話を聴いていたい」
そう口にしたとき、欠け星の中で花開くものがありました。それはあたかも、時満ちたつぼみが咲きほころぶように。
――……ああ、わたしは。
かがよひのことが、すきなのだと思いました。
村のむすめたちが恋の歌を語るように、欠け星はかがよひを乞うています。そばにいたいと求めています。そう悟ると涙が出そうで、欠け星は歯を噛みました。
それを、かがよひは同情と取ったのでしょうか。おとなびた顔で微笑し、礼を述べました。
「ありがとう、欠け星。……そろそろゆこう、もう先触れも出たはずだ」
かがよひは欠け星の手をとり、歩き出します。その歩調はやわらかで、欠け星の女の足に合わせてくれているのだとわかりました。
その後、村へ戻ってからというもの、欠け星はますます独りになりました。
どうやら今度は、大君に目をかけられたむすめという、妬みを買ったらしいのです。村の女たちは、鬼火の燃えるような目をするようになりました。
欠け星は気づまりになり、いっそう機屋へ籠もります。ばばさまはその横で、いまいましげに糸を繰りました。
「
「……、」
「おのれの考えも分別もない。あやつらは鳥の群れじゃ、つねに騒がしく
「……おばあさま」
うちつづく恨み言が耐えがたく、欠け星はばばさまを呼びました。ばばさまは、きろりと見えぬ目を向けます。
「なんじゃ、欠け星よ」
「はい。先ごろ、わたしは宮の工房へ呼ばれましたでしょう? そこで、かがよひの
「ふん、聞いたか」
ばばさまは、嘲るごとく鼻を鳴らしました。
欠け星は頷き、あの女官たちが話していたことを語ります。かがよひが明かしたことも、それとは知らせずに織り交ぜました。
ばばさまはしまいまで耳を傾け、皮肉な笑みを浮かべます。
「相変わらずじゃな、あの宮の者どもも。昔はあけぼのの
「そうなのですか?」
「そうよ。同母の
「では、かがよひの王さまのお父さまは、やはり、あけぼのの王さま……」
「それは、儂にもわからぬ。まことを知っておるとしたら、母御の
ばばさまは言い切ったのち、少しいたわるような目をしました。
「かがよひの王。……あれも、哀れな皇子よの」
欠け星は、おやと機織りの手を止めます。てっきりばばさまは、宮も大君の一族も、嫌いなのだろうと思っていたのですが。
「おばあさまは、大君さまのご一族を、厭うておいでではなかったのですか?」
そう問うと、ばばさまは珍しく眉を上げました。欠け星を見つめ、やがてふいと
「……たとえ親子でも、大君と皇子とは別な人間であろう。
「――」
「かがよひの王は、あれは痛みじゃ。あの一族や宮の者ども、あやつらの生ける痛みを引き受けて生まれてきた」
そのことばは、欠け星の胸にすんなりと沁みました。
かがよひ自身は、おのれを澱だと称しましたが。けれども欠け星には、彼はいたわしくうるわしい、痛みを知るひとに見えました。
欠け星が黙る横で、ばばさまがうっそりと呟きます。
「かつては、くらひこの
そのとき、ばばさまは少し翳った顔をしました。
欠け星にはその表情が、のちのちまであざやかに残って思われました。
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