潮織りの比売(ひめ) 四
やがて、その日がやってきました。
十五になった欠け星は、今年も都へ参じていました。例年どおり、
もう慣れた作法で平伏した欠け星は、ですが、顔を上げたところで驚きました。
――かがよひ?
さすがに黒の
かがよひ自身も、雪のように冷えた表情をしています。欠け星はその眉間に苦悩の影を見出し、嫌なざわめきを覚えました。
――かがよひ。……いったい、どうしたの?
他の従者たちも、いくらか戸惑ったまなざしを交わします。その中で、ばばさまだけが常どおり進み出ました。
「この気配は大君ではなく、かがよひの
「うむ、大儀である。婆もはるばる、よく参った」
「
ざ、と群臣の間に緊張が走ります。下民のばばさまが皇子に問うなど、本来あってはならぬことなのでしょう。
しかしかがよひは、口を開きかけた臣下を目で制しました。ばばさまを和やかに見下ろします。
「大君のご様子を案じてくれているのか。よき心ばえだ」
「……勿体なき、おことばにございまする」
「そう、へりくだらずともよい。婆のその飾りけのなさは美質であろう」
ばばさまは頭を下げつつ、渋い顔をしました。
欠け星には、それがばばさまなりの羞恥のあかしに見えます。思いがけぬことと眺めていると、かがよひが先の問いにいらえました。
「大君はいま、ご自身の大切な禊のためにお籠もり遊ばされている。ゆえにわたしが代わりを務めているのだ。未熟なわたしでは不足も多かろうが、許せ」
皇子に請われては、いかなばばさまでも引き下がらざるをえなかったようです。ばばさまは後じさって平伏しました。
「は。……とんだ無礼を申し上げました。
「うむ、承知している。して、今年の貢の出来はいかがか」
表情を改めたかがよひは、すっかり若き大君のようです。ばばさまの奏上を聴くさまは凜々しいものでしたが、一方で、やはりどこか疲れても見えました。
欠け星はそれを案じ、騒ぐ胸を押さえました。
その晩の欠け星たちは、
旅所とは、貢の従者たちが泊まる小屋のことです。中には遠方から上ってくる者もいるので、彼らのために宮のうちへ整えられた建物でした。
土の床に
「……あれは、おそらく偽りじゃな」
爆ぜる火の陰で、ばばさまが口にしました。欠け星は抱えた膝から顔を上げます。ばばさまが続けました。
「かがよひの
「はい。大君さまが、禊の最中でいらっしゃるのだと」
「まことは、禊などではないのじゃろう。我らにはそう説いておくしかなかっただけで」
欠け星はまばたきし、ばばさまに問いました。
「では、おばあさまは、ほんとうはどうだとお考えなのですか?」
「――」
ばばさまは口をつぐみ、また一本枝をくべました。明るくなった火の色が、その顔を照らし出します。ばばさまは眉間に濃い陰影を宿らせ、ささやきました。
「病かもしれぬ」
「まさか、」
欠け星はとっさに返し、周囲を見ました。
しかし起きている者はなく、みな、のびのびといびきや寝言をかいています。それに安堵し、少し唇を舐めました。
「なぜ、おばあさまはそうお思いに?」
「お前も
「ええ……」
欠け星は思い起こしながら頷きました。
去年といえば、欠け星は十四です。その年も貢の従者として都へ上がりましたが、確かに、そのときの謁見はなにか不穏なものでした。
大君が、げっそりとお痩せになっていたのです。その中で御目だけが底光り、まるで
そして臣下たちが衣ずれでもさせようものなら、すぐさま厳しいまなざしをお向けになります。
欠け星たち従者も、思わず唾を飲むのすら遠慮しました。去年の謁見は、それほど張りつめたものでした。
――あれは、確かに尋常ではなかった……。
欠け星がうつむきがちに黙る横で、ばばさまが呟きます。
「おまえが十二のころから、すでにおかしかったがな。いよいよ、大君は
ぱちりと、火が弾けました。ばばさまも欠け星も黙り込みます。
そうすると、従者たちの寝息の向こうに風音が聞こえました。すうすうと闇を駆ける、女の、哭き声のごとき風。
それに、どれほどの間、耳を傾けていたでしょうか。
きょおおぉん、
と、なにか狂い犬でも死に絶えるような叫びがしました。欠け星にはそう聞こえました。ばばさまはさっと立ち上がり、険しく杖を構えます。
途端に風が重くなり、外では、うおん、うおん、と遠吠えのような音が続きました。鳥が飛び立ち、樹々すらよじれる気配がします。
周りの従者たちも、さすがに目を覚まし出しました。
「……あら、なあに?」
「騒がしいわねえ」
「気味が悪いわ。
直後、目に見えぬ濁流のような風が小屋を
叫ぶ従者たちをよそに、ばばさまが駆け出します。
「――何奴かッ!」
ばばさまのふるった杖が入り口の
ばばさまが雄叫びとともに杖を打ち込みますと、相手はすかさず剣でそれを受け止めます。そこでばばさまも従者たちも、欠け星も息をのみました。
「……
そう呼びかけたのは、誰であったでしょうか。
それはその場にいるすべての者の声でした。さすがのばばさまも、茫然と杖を下ろします。
その陰から、彼はゆらめくように立ち上がりました。星あかりが清く差し込み、その血まみれの輪郭を映し出します。
ざんばらに乱れた髪の、剣を握ったうるわしき男鬼――目の当たりにした従者たちが、口々にくぐもった悲鳴を上げました。
「かがよひ!」
欠け星はたまらず飛び出し、彼のからだを抱きました。肩を、頬を、つむりを撫でて確かめます。
「かがよひ、あなた、どうしたの! こんな、……こんなひどい怪我を!」
「……欠け星か」
しかしかがよひは、物憂げに身を離しました。首をふり、頬についた血を拭います。
それで欠け星は、かがよひの汚れが返り血らしいと気づきました。思わず一歩たじろぎますと、かがよひは哀しげな顔で笑います。
「そうだろう、恐ろしいだろう。……わたしは父上を
「なんじゃとッ?」
そこでばばさまが割り込みました。身を震わせ、
「……
「違うぞ、婆。わたしはもう王ではない。第十二代大君の座を継いだ、
「では、……やはり、その血の臭いは……」
ばばさまが唾を飲みます。かがよひは、ひっそりと頷きました。
「あまたの者たちの血だよ、婆。父上、母上、家臣や女官、童たち。この宮にいるすべての者の目を斬り伏せた」
「……なんということを!」
呻いたばばさまが崩れ落ちます。
欠け星は驚き、急いでその背を支えました。かがよひはあきらめたように二人へほほ笑み、ぴっと剣を
それだけで従者たちは震え上がりました。その中で、かがよひが朗々と宣言します。
「さあ、あとはこの者たちだけだ! すべての者に、まったき闇のあらんことを!」
「――いけないッ!」
欠け星はとっさに、かがよひの腰へしがみつきました。
その腰は細身ながらも、すでに男のからだです。かがよひが力をふるえば、欠け星などたやすく跳ねのけられてしまいます。
しかしそれでも、欠け星はありったけの思いで、かがよひを抱きしめ見上げました。
「それだけはやめてちょうだい! わたしたちは機を織るのよ、その技で大君にお仕えするのよ。機織り
「……欠け星」
かがよひは目を丸くし、澄んだ静かな顔になりました。湖面に寄せる、小さなさざ波のようです。
そしてしがみつく欠け星の頭を撫で、頬に触れました。
「ならば、
「かがよひ、」
欠け星は雷で打たれたような気がしました。おのれが、いま、とても大切な岐路にいると悟ったからです。
ともにゆけば、おそらく、欠け星はかがよひと同じ瀬に乗るのです。それがどんな流れでも、手をひしと繋ぎ合って最後まで連れ立つのです。
――わたしの、これまでの暮らしを捨てて。
村も、ばばさまも置いてひとりだけ。おのれを育んでくれた歳月を振り切って、飛び出すのです。
はたして、そのような勝手が許されるでしょうか。それは罪ではないでしょうか。親代わりのばばさまに対する、大きな不孝にはならぬでしょうか。
欠け星が手を出しあぐねていると、後ろから声がかかりました。
「欠け星!」
はっとして、ふりむきます。
するとばばさまが、激しく欠け星を見すえていました。身を硬くして、たった独り大風に向かう童のように。
見えぬ瞳と欠け星の瞳が交わり、清い
「……ゆくのか」
ばばさまの目が泣いています。涙を流さずに泣いています。
欠け星はもう胸が千切れそうになりながら、しかし、唇を噛んで頷きました。
「ごめんなさい、……おばあさま。わたしはおばあさまのように、独りでは生きられない」
「――」
「参ります。かがよひと――耀日祇さまとともに」
よろめいて立ち上がると、かがよひが腰を支えてくれました。最後に、ばばさまへ礼をとります。
そうして身をひるがえすかたわら、決して、ばばさまの顔は見ないようにしました。
片隅のほうでは、従者たちがあっけにとられたまま座り込んでおりました。
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