潮織りの比売(ひめ) 五



「落ち着かなくてすまぬが、しばらくここにいてくれ」


 かがよひは欠け星を連れ、正殿の後ろにある建物へ向かいました。しとねや灯火の整えられた、寝所らしき部屋に通されます。


「ここは、わたしの寝所だ。そなたを正式な妃として迎えられるまで、この部屋を仮の住まいと思ってほしい」

「はい」

「あとで身清めの湯を持ってこよう。他に欲しいものはあるか?」


 欠け星は少し考え、いらえました。


「では、もしあれば、まだ繰っていない糸と紡錘つむを。それさえあれば、わたしは時を過ごせます」

「わかった」


 かがよひは頷いたあと、装束入れから一条の帯を取り出しました。暗い目をして、その両端を引き持ちます。


「そなたの目は斬らない。……だが、わたしはもう、誰かから見られることに耐えられない。これでそなたの目を覆わせてくれ」


 欠け星はほほ笑みました。掌で、かがよひの汚れた頬を拭います。


「もちろんです。わたしは、あなたさまとともに来たのですから。耀日祇かがよひのかみさまのお心のままに」

「ありがとう」


 かがよひはそうして欠け星の目を覆ったのち、糸や紡錘や湯を持ってきてくれました。

 その足で、すぐさま正殿へ戻っていきます。先ほどたいへんな変を起こしたばかりなのですから、いろいろ始末をつけねばならないのでしょう。

 残された欠け星は、たらいでぎこちなく身を清めました。それから、糸と紡錘に向き合って端座します。


――おばあさまと、お揃いね。


 欠け星はたったいま、目が見えぬばばさまと同じ世の住人になったのです。

 独り置いてきてしまったばばさまのことを思えば、胸が痛みます。しかしそれ以上に、ばばさまと同じと思えば、なにか勇気が湧いてくるようでした。ばばさまが、すぐそばにいるような気もしました。

 それだけ、欠け星が不安を感じていたということでしょう。いくらおのれで決めてついてきたとはいえ、場所も人も、まったく見知らぬところなのですから。


――でも、きっとできるわ。やってみせるわ。


 ここで、かがよひの支えとなる。最後までともにゆく。

 欠け星はそう胸にしまい、紡錘に糸をかけました。たどたどしく糸を繰りながら歌います。


「玉の緒を いといとにく 結び込め 結び込めては たまを込め……」


 初めはおぼつかなかった手つきが、やがて、なめらかなものとなって回り始めました。



 かがよひが寝所に現れたのは、七日後です。

 伝い立ちながら出迎えた欠け星は、触れたからだがずいぶんと痩せているので驚きました。


「かがよひ?」


 思わず、友のころのままに呼びかけてしまいます。

 かがよひは咎めるでもなく、欠け星を抱きしめて褥へくずれ込みました。彼にしては弾んだ声でまくし立てます。


「やったぞ、欠け星。そなたを無事妃にできた。宮の者たちに認めさせた」

「まあ」

「それで、欠け星のままではよくないから、そなたの名を決めようと思って。細蟹ささがにはどうだろう? 細蟹ささがに比売ひめだ、尊い白糸をつむぐ虫の名だよ。そなたは糸を織る比売だから」

「ええ、ええ」


 欠け星は手探りで、かがよひの頭を抱きます。かがよひは早口で続けました。


「そなたの婆も、いまはわたしの侍女をしてもらっているのだ。婆はわたしを見ても恐れないのでいい」

「おばあさまが?」

「そうだ。あのあと他の従者たちだけ帰して、おのれは残ると言うてくれた」

「……そうでしたの」


 欠け星は驚きました。ばばさまが宮に残っているとは、思いもしなかったのです。息災でいるか訊ねると、かがよひは強く頷きました。


「婆はとても達者だよ。まるで見えているように、わたしを手伝ってくれる」

「……よかった。おばあさま、常どおりでいらっしゃるのね」

「うむ。いまは、めしいた者たちのために糸縄をなっている。それを伝い歩くようにするのだそうだ。……ただ、糸も人手も足りぬので困ると言うておったな」


 みなの目が見えなくなってしまったのなら、そうなるでしょう。そこで欠け星は起き上がり、かがよひにもちかけました。


「でしたら、あなたさま。どうぞわたしが繰った糸もお使いください。七日の間に、いくらか整えましたのよ」


 寝所にたくわえた糸の山を示しますと、かがよひは驚嘆したような声を出します。


「これは、すごいな。どころではない、そなたは手が早いのだな」

「そうですか?」


 ばばさまや村の女たちなら、もっと手慣れて糸を繰れるでしょう。欠け星自身は、おのれがそう大した腕とも思っていません。

 しかしかがよひは、それを謙遜と取ったようでした。


「そなたは、控えめなところがうるわしいな。隣にいると心が安まる」


 そう言って、いとしげに欠け星の髪を梳きます。

 その声も、感じられるまなざしも、たいそうやさしく、甘やかです。親代わりのばばさまですら、かような目を向けてくれたことはありません。

 そう思うと、にわかに頬がほてり出します。欠け星は耐えきれずにうつむきました。


――……恥ずかしい。


 すると、かがよひが欠け星の耳元にかがみました。褥へ、とささやかれます。

 その声は欠け星のからだをおきのようにとろかしました。言われるまま横たわり、唇に触れる息吹を受け止めます。

 衣ずれが闇にほどけました。

 やがて欠け星は、おのれの身そのものも、ほどけてゆくのを感じました。



 細蟹ささがに比売ひめとなった欠け星は、知らぬ間に名を上げておりました。

 めしいた宮びとたちのための進言や心づかいを、いろいろとしたからです。

 まずは糸。糸縄の材となるそのほとんどを、細蟹が繰りました。また、糸縄に引板ひきいたをつけるよう提案したのも、細蟹です。

 これは、木の板に細い竹筒や木ぎれをつけ、触れると鳴るように仕掛けます。さらに、その筒や木ぎれの長さと太さを変えれば、音の高さも変わります。これで誰がどこを歩いているか、わかりやすくなりました。

 その他にも、庭に石の道を敷くこと、よく使うものに傷やをつけること、などを申し出ました。

 これらは、ばばさまを長年隣で見ていて、考えたことです。こうした道具や心づかいがあれば、目の見えぬばばさまも暮らしやすかったのではないかと。


――おばあさまは、ずっと、独りで耐えていらしたけれど。


 ばばさまは達者な方ですから、どんな困難があっても、おのれの身ひとつで乗り越えました。

 しかしすべての人が、同様に器用なわけではありません。強いわけでもありません。細蟹自身、独りではとても生きられぬ人間です。

 かがよひの手を取ったとき、細蟹はこうしたおのれを受け入れました。いくら親代わりのばばさまに反しても、これが細蟹という人間です。そのおのれを偽ることはできません。


――こんなわたしを見たら、おばあさまは、お怒りになるかしら……。


 ですが、ばばさまの怒った顔を思い浮かべると、なにやら笑みがこぼれてきます。なつかしくも思われます。こうして離れたあとのほうが、不思議に慕わしいのでした。

 ばばさまは、いま、宮の正殿にいます。

 かがよひの侍女を務めるだけでなく、臣下や女官たちを教え導いているそうです。めしいた彼らのため、目の代わりとなる手足や耳の使い方を、手ほどきしているらしいのでした。

 そうした話は、かがよひが語ってくれました。

 妃となった細蟹は、かがよひの寝所の隣に部屋を与えられておりました。かがよひは毎夜、まつりごとを済ましたあとで、細蟹の部屋を訪れます。

 それから細蟹の膝を枕に、くさぐさの話をするのです。かがよひはいつも童のように、細蟹の腹を抱きしめました。


「ささがに。――細蟹。そなただけだ、わたしの話を聴いてくれるのは」

「ええ、ええ。わたしはいつでも、あなたさまのお話を伺います」


 そのつむりを撫でてやると、かがよひは安らいだ息をつきます。そのまま眠ってしまうこともありましたし、肌を重ね合うこともありました。

 細蟹と触れ合ったあとのかがよひは、憑きものが失せたように落ち着きました。

 そしてきりりと衣を整え、若き大君に戻るのです。細蟹は手探りで、その肩にはおりをかけました。


「行っていらっしゃいませ」

「うむ、ありがとう。行ってくるよ」


 かがよひは細蟹の髪を梳き、まなじりに口づけます。そうして部屋から出て行く気配を、細蟹は案じながら送りました。


――どうぞ、天の星々よ。かがよひをお守りください。


 細蟹は知っていました。

 かがよひは、いまも宮の中で孤独なのです。針山のごとく危うい大君の座にいるのです。

 いくら細蟹が部屋に籠もっていても、噂はひとりでに流れてきます。

 世話をしてくれる女官たち、通りかかる臣下たち。彼らはかがよひを、狂いのかみと称していました。

 父母を殺め、宮びとたちを傷つけた猛き大君。大君は狂っておられる。そうささやいては、かがよひを遠ざけているらしいのです。


――でも、わたしは離れないわ。


 細蟹にとって、かがよひは哀しい人です。痛みを知る、やさしい人です。

 眠る彼が、しばしば、うなされていることも知っています。

 父母を殺め、人を傷つけた罪深さに。国を抱えている重さに。それらに呻いては飛び起き、血を吐くようにくのです。

 さようなとき、かがよひは幾度も床に頭を打ちつけました。泣きながら見えぬたまへ謝りました。細蟹は、そんなかがよひを抱きしめて止めました。


――かがよひは、狂ってなどいない。


 狂っていないからこそ、うなされるのです。謝るのです。細蟹はそのことを知っていました。

 そして懸命に生きようとするかがよひを、いとおしく思っていました。

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