黒海臣(くろみのおみ)のはなし 七
いちど夜が明け、やがてふたたび夜が来ました。
「
「まことにか?」
問いかけるかたわらで、黒海臣はすでに剣を取っています。文目人は背を正して頷きました。
「さようにございます。妃さまはひどくお疲れになり、
「そうか。よく報せてくれた」
黒海臣は剣を佩き、部屋の戸を開きました。
「文目人よ、貴女は工房へ戻りなさい。そして細蟹様と女人たちを守りなさい」
「……黒海臣さま?」
文目人はいぶかしげに座しています。彼女はまだ、これから宮でなにが起こるのかを知りません。
黒海臣は息を吸い、腹から声を響かせました。
「早くゆけッ! ぐずぐずするな!」
「――っひ、」
文目人は息をつめ、よろけながら駆け出します。黒海臣はそれを送り、静かに庭へ下り立ちました。
茂みのあちら、木立のこちら、さまざまなところにひそむ気配を感じます。いずれも、手勢の兵たちです。黒海臣は彼らの前で、すらりと剣を抜きました。
「
あえて重く、いかめしく、これこそが我らの使命だと説くように。
黒海臣はそのように語りながら、ゆっくりと歩みます。そうして庭の真ん中へ立ち、激しく唾を飛ばしました。
「いまの世の大君たる耀日祇は、我らが
高々と剣をかかげた瞬間、いっせいに
兵たちは天地をどよもし、あっという間にほうぼうへ散ってゆきます。こちらに
黒海臣は
いまや前つ大君に降下なされた、ただびとの耀日です。その寝所の周囲は騒ぎも遠く、黒海臣
「黒海臣様」
「お待ち申し上げておりました」
兵たちのひざまずく気配がします。黒海臣はその間を冷ややかな顔で進み、寝所までたどり着きました。
「……耀日どの」
耀日は
ときおり、しゃくり上げるような笑い声を漏らしました。それはすすり泣きのようにも聞こえ、黒海臣の胸にかすかな憐れみを呼び起こします。
――耀日祇様。
心のうちでだけ、大君としての御名を奉ります。狂った耀日祇の後ろに、お父君である
そのむかし、闇彦祇がまだくらひこの
くらひこの王は血のしたたる剣を握り、私を殺せとおっしゃいました。謀反のかどで、いとこであったあけぼのの
寝所はすでに片づけられ、血の臭いだけがあたりに残っておりました。
くらひこの王は、いまだ返り血を拭わぬままのお姿です。剣はその御手へ吸いついたように離れず、腕ごと石と化してゆくのではないかと思われました。
「……
くらひこの王は床を見つめて、黒海臣の名を呼びます。
はい、と答えて寄り添うと、くらひこの王はさびさびとした声でおっしゃいました。
「いつか、私を殺してくれ」
「――、」
息がつまり、あとのことばを継げなくなります。くらひこの王は黒海臣に向き直り、乾いたまなざしで続けました。
「私がいつか、この国に仇なすことがあったとき。そのときは私のことを斬ってくれ。私も、あるいはまだ見ぬ子や孫も、国を害せば容赦なく斬り捨てよ。……そうしてどうか、この国の行く末を守ってくれ」
くらひこの王の御目は、泣きむせぶように燃えています。風が、雪が、大波が、くらひこの王の中で烈しく吹き荒れるようです。
黒海臣は、その御目に強く囚われました。
囚われたまま、音もなく深淵へすべり落ちてゆくようでした。
――……くらひこ様、
思い返せば、むかしはいまです。
いまこのときにも、くらひこの王のまなざしが黒海臣を責め立てます。それは耀日祇の呻きと合わさり、鐘の
殺せ。
殺せ。
私を殺して、――救ってくれ。
「――ッ!」
黒海臣は剣をふり上げ、あらん限りで耀日祇の腹に突き立てました。
ああ、と泣き笑うような声がこぼれ、ついで血の泡の弾ける音がします。泉の湧くような響きがこだました瞬間、黒海臣はすかさず耀日祇の首を斬り落としました。
肉と骨の重みが離れ、それですべてが終わりでした。
耀日祇は最期のおことばもないままに、あっけなくお隠れになりました。
――……ああ、
澄んだ湖のおもてのように、黒海臣の心は静まります。
ほんのさざ波立つこともないというのが、かえって深い哀しみでした。涙は流れず、胸をかきむしるような苦しみもありません。
黒海臣はひたと凍りついたおのれを眺め、ひとつ息を吸いました。
そうして歯を食いしばり、寝所から背を向けます。
「聴け、宮の者たちよ!
黒海臣の声が、いんいんと響き渡ります。
その声は人々の間を伝わり、やがてひそやかなざわめきへ変わりました。誰かが
雄叫びは大いなるうねりとなり、いつしか宮を包み込みました。
黒海臣はそのただなかに迎えられ、ほとばしるような喜びとともに称えられます。剣をかかげ、声を上げ、まったき戦勝を祝います。
そうして黒海臣は、もう心の中ですら、耀日祇の御名をお呼びすることはありませんでした。
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