潮織りの比売(ひめ) 七
やがて、みどりうるおう
細蟹は変わりゆくからだに少し慣れ、手仕事くらいならばできるようになりました。
それで針と糸を持ち、日ごと
「珠の子の 若やる
すいすいと針を刺せば、縫い目とともに心は果てなく広がります。
子は男御子でしょうか、女御子でしょうか。どんな声で泣き、笑い、細蟹を見るでしょう。どんな顔立ちをしているでしょう。そのいとけない手は、足は、どれほど愛らしいものでしょう。
そうしたとめどない思いは、細蟹をほんのりと幸福にします。ほほ笑みながら歌うそばで、真木も安んじて細蟹の世話をしてくれていました。
「
いつしか、真木も和して歌っています。
ふたりで歌えば、声は天へも伸びゆくかと思われました。細蟹は息を吸い、さらに歌を織ろうとします。
しかし、その瞬間でした。
「
荒れた足音とともに、かがよひの声が聞こえてきました。
かがよひは足を鳴らし、あちこちにぶつかり、殴るような音をさせながら近づいてきます。真木が守るように前へ出ましたが、細蟹はそれを遮りました。
「――細蟹ッ!」
戸が蹴破るようないきおいで開けられます。
細蟹は立ち上がり、久方ぶりにまみえた夫君を迎えました。
「
「細蟹! なぜ早く出てこない、
かがよひは、手にしたものでいらいらと床を打ちます。それが剣の音であると悟り、細蟹は真木に耳うちしました。
「……真木。人を呼んできて」
「は、……はい」
真木は声をふるわせながら部屋を出ました。細蟹はその音に耳を澄ませつつ、かがよひと対します。
「耀日祇さま。わたしがあなたさまを出迎えなかったのは、いまのあなたさまを、夫君とは思えなかったからです」
「なんだと!」
ちりんと剣が鳴りました。細蟹は唾をのみましたが、屈さずにつづけます。
「妻にむやみと力をふるい、生まれくる幼きいのちをも尊んでくださらない。さような御方を、夫君として敬えるとお思いですか?」
細蟹の中には、沸々とした炎の芽が育っていました。
これは怒りです。細蟹を、そしてなによりもまだ見ぬ御子を傷つけんとする夫君への怒りです。父になろうとしてくれない、かがよひへの哀しみです。
細蟹は、それを噛みしめて強く顎を上げました。しかしかがよひは猛々しく床を踏み、また剣を打ちつけます。
「違う! そなたはわたしの妃だろう、いかなるときもわたしの話を聴くのだろう? わたしの隣にあるのだろう? そなたはわたしだけのものだ、離れるなど決して許さぬッ!」
ぐわんと剣を振りかざす音がしました。
ですが細蟹は逃げませんでした。手負いの獣のごとく荒れまどうかがよひに歩み寄り、鋭くその頬をぶちました。
「――!」
高く澄んだ音が響き、かがよひが息をのみます。細蟹はじんじんとする掌を握り、叫びました。
「そうです、わたしはあなたさまの妃です。あなたさまとともに歩む者です。けれども、もうそれだけではありませんのよ。ここにはわたしと、あなたさまの子がいるの。あなたの、かがよひの子なのよ。どうしてそのことを受け入れてくれないの! それはわたしを、わたしのかがよひを慕う気持ちを信じてくれないことと同じだわ! あなたこそわたしを信じていない、裏切り者よ!」
途端、かがよひが引きつるような呼吸をします。そうして苦しげに息を荒げ、唸り、やがて地の底から吼えました。
「この、……女アアァッ!」
「――耀日祇様っ!」
その直後、慌ただしい足音があまた踏み込みました。
男たちが駆けつけて、かがよひの剣を叩き落としたようです。彼らはかがよひをなだめ、抱きつき、細蟹から必死で引き離そうとします。
細蟹は真木の匂いにふわりと包み込まれました。
「細蟹さま!」
「真木。……呼んできてくれたのね」
かがよひは男たちともみ合いつつ、しだいに遠ざかってゆきます。
それでいっきに足が萎え、真木にしがみついて座り込みました。真木は泣きながら細蟹の背をさすります。
「細蟹さま……。細蟹さま、よくぞご無事で……」
「ありがとう、平気よ。あなたや他の人たちのおかげだわ」
とはいえ、どっと疲れました。いまさらながら血の気が引き、鼓動が激しく脈うちます。
胸を押さえると、真木はますます力をこめて、背をさすってくれました。そこへ、ひとり落ち着いた歩幅の足音が近づきます。
「真木どの。細蟹様はご無事でおいでか?」
「……
真木が頭を下げる気配がしました。男は手探りでひざまずき、細蟹に礼をとります。
「かような場でご無礼仕ります。私はかつて
黒海臣は、さびさびとした
細蟹は目まいをこらえ、膝を揃えました。
「こちらこそ、このような姿で申し訳ありません。細蟹です」
「どうぞお気になされませぬよう。いまは御身こそ、なによりの大事。
そういたわられると、ほんとうに力が抜けてきます。急に眠気がきざし、真木に寄りかかって目を閉じました。
真木は細蟹を支え、黒海臣とひそひそ話を始めます。
「黒海臣さま。やはり、大君さまは……」
「否、まだ答えを出すのは早い。が、備えはしておくべきであろう」
重々しいやりとりを聞きながら、細蟹はしだいに眠りの海へ沈み込んでゆきました。
十日ほどのち、細蟹はようやく
そうして落ち着いてみると、苦い悔いが上ってきます。
――かがよひに、ひどいことを言ってしまった……。
怒りとは、このようにつらいものなのでしょうか。生まれて初めて声を荒げた細蟹にはわかりません。
ただかがよひを傷つけた悔いがあり、しかし一方で、いまだかがよひへ憤っていることも確かでした。
――わたしは、かがよひのことがすきなのに。それは決して変わらないのに。
だというのに、かがよひは細蟹の思いが離れてしまうと信じているのです。細蟹が、かがよひを捨て去ってしまうとでも思い込んでいるのです。
――わたしの気持ちは、かがよひに届いていないのだわ……。
そのことが、細蟹にはなによりも寂しく思われます。
波立つ胸を押さえていると、部屋を出ていた真木が戻ってきました。
「細蟹さま。粥をお持ちしました」
「真木、ありがとう」
すぐに膳がととのえられます。粥をすすれば、おだやかなぬくみが胃の腑に沁みました。
椀を空にしたあと、真木が改まって細蟹の前に座します。
「細蟹さま、……少々よろしゅうございますか」
「はい。なにかしら?」
細蟹も、思わず背を正します。真木は衣を整えるような衣ずれをさせ、口を開きました。
「これは、黒海臣さまから内々のご献策なのですが。……いったん宮を離れ、お里帰りされてはいかがでしょうか、と」
「……どういうこと?」
細蟹は仰天しました。
なにをどうしたら、そのような話になるのでしょう。知らず問いつめる口ぶりになっていたのか、受けた真木が急いで続けました。
「どうぞ、お怒りになられませぬよう。断じて細蟹さまを疎んじたり、追い出したりしようというわけではございません」
「では、なぜ?」
「それは……。畏れながら、」
真木がそう言いにくそうに語ったのは、かがよひのことでした。
つい十日ほど前もそうであったように、いま、耀日祇はどうにも御気色がすぐれずにいらっしゃる。
このままでは、またいつ細蟹が襲われるとも限らない。さような悲劇が起こる前に、一度宮を離れていただきたいのだと。
「黒海臣さまだけではございません、
真木は静かに、しかしひたむきな声で語ります。彼女が床に
――真木は、たしかにわたしを気づかってくれている。
そのことは、ひしひしと感じ取れました。
他の宮びとたちも、細蟹に子を産んでほしいのはまことでしょう。大君には世継ぎが要ります。単なる下民あがりの細蟹でも、それくらいのことは思い至りました。
それだけ、細蟹はみなの目にさらされているのです。そのひとびとの思いを無下にすることはできません。
ですが同時に、すう、と背筋が凍りました。
――かがよひは、これほども恐れられているのだわ……。
宮びとたちにとって、かがよひは、なにをするかわからない
このままでは、かがよひがほんとうに狂いの
「……できないわ」
細蟹は首をふり、きつく手を握りました。
真木が顔を上げる気配がします。細蟹は目隠し越しにそちらを見つめ、言い切りました。
「わたしは宮を、耀日祇様のそばを離れたくない。わたしは耀日祇様の妃です。たとえどれほど力の足りぬ妃であろうとも――わたしはあの御方をお支えしたい」
「……細蟹さま、」
「ごめんなさい、真木。他の宮の人たちにも。わがままを言っていることは、よく承知しているのだけれど」
指をついて頭を下げると、察した真木が細蟹をとめました。
真木も細蟹も泣いています。ふたりで忍び泣きながら手を握り、しばらくの間、小鳥のように肩を震わせておりました。
結局、細蟹は
細蟹がそれを望んだためです。工房は大君の御座所から離れており、臣下たちからも、まあよかろうと許しが出ました。
工房の長は、
「突然のご厄介、まことに恐れ入ります」
「……、」
祖女は黙って、機を織り続けています。周りの女たちも同様です。
彼女らも目を斬られているはずですが、
しかしそうしながらも、女たちが耳をそばだてていることは感じます。細蟹は負けぬよう、頭を下げ続けました。
「……
突然、祖女が呟きました。細蟹は屈したままいらえます。
「はい。十三のときも、みなさまにお世話になりました」
十三のとき、細蟹は闇彦祇のご
――でも、こんなことは慣れているわ。
村でも、細蟹とばばさまは遠ざけられていました。そこでは細蟹も村びとを避け、互いに関わろうとしませんでした。
けれども、いまの細蟹は違います。したいことがあり、支えたい人がおり、守りたい子もいます。そのためならば、いくらでもこうべを垂れようと思うのでした。
きり、はたり。
ちよう、はたり。
懐かしい機の音が響きます。細蟹にとっては心安らぐ音ですが、真木はおのれの主を軽んじられていると感じたようです。
長さま、と祖女に詰め寄ろうとしたそのとき、彼女の機がとまりました。祖女が立ち上がる気配がします。
「妃どの。ぬしはあの夜、
「あの夜といいますと……
細蟹がいらえると、祖女は頷きました。
「そうだ。わしどもが目を斬られたあの夜よ。ぬしは大君に抗い、機織り
「そのような、たいそうなつもりは、ありませんでしたが……」
あのときは、ただ夢中でかがよひにしがみついた気がします。祖女は細蟹の前に立ちはだかり、言いました。
「だが、ぬしは機を守った。たやすいことではない」
祖女はそうして、おのれの目を押さえたようでした。それからきびすを返し、機へ戻ります。
「使いたいならば、使え。機はある」
「――」
それを聞いていた女のひとりが、細蟹のそばに寄りました。
「妃さま」
彼女は細蟹の手を取り、ゆっくりとそのものの前まで導きます。その木肌に触れた瞬間、ため息が漏れました。
「ああ、……」
それは、まぎれもなく織機でした。
細蟹が村で使っていたものとは違いますが、その慕わしいぬくもりは同じです。細蟹の内なるたましいがわななき、ひとりでに涙があふれました。
導いてくれた女人が、そんな細蟹にささやきます。
「祖女さまの仰せです。お使いください」
「……ありがとうございます」
細蟹は涙を拭い、息を吸って機に向かい合いました。
目隠しをしていても、機の形はまぶたの裏に浮かんできます。清水が喉をうるおすように、細蟹の中に沁みてきます。
――そう。わたしはこれを求めていた。
この機で。
この機で細蟹は織るのです。かがよひのために。いとしい夫君のために。おのれの思いを織り上げて、かの御方まで届けるのです。
そのために細蟹は、文目人の工房へ来ることを望んだのでした。
「わがたまを わが背の君に 結び込め わが背の君に つなぎとめ……」
歌いながら、つたなく
すると、その様子を窺っていたらしい女たちも和し始めました。機の音はしだいに大きく、ゆるやかな潮騒のようにさんざめいてゆきました。
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