黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十四
闇の中を、矢や剣の切っ先が光のように走ります。
黒海臣にはその筋は見えませんが、うなりは絶えず聞こえてきます。耳の脇すれすれを矢が飛び過ぎ、すぐ脇で兵が倒れ、あるいは生臭い血しぶきがかかります。
黒海臣は、熱と狂乱に沸く
――小夜比売様。
ごう、と剣が
――細蟹様。
ひょう、と流れ矢が腕に当たります。
取っ組み合う兵らが転がり、そばにいた黒海臣へぶつかりました。黒海臣は避けきれずにつまずき、ともに絡まり合って投げ飛ばされます。
そこへ、また別の兵の撃ち合う
「――ッ!」
とっさに背を丸めた瞬間、きりきりと
「黒海臣様!」
「……その声は、駒か?」
駒は矛を跳ね返した勢いのままに、すばやく兵たちを斬り伏せた様子です。近くで呻きが上がったのち、駒の足音が近づきました。
「お怪我はございませんか、黒海臣様」
「ああ、大事ない。……よく私だとわかったな」
黒海臣は差し出された手を握り、立ち上がりました。駒がおだやかに笑む声でいらえます。
「わかります。ほかの誰でもない、黒海臣様のことですから」
「そうか。お前のおかげでいのちを拾った」
「幸甚です」
「これから、私は小夜比売様の舘へ向かう。ともに来てくれるか」
すると駒は、胸を叩いて礼を取りました。
「むろんにございます。わたくしは、いずこなりとも黒海臣様に
そこからの道ゆきは、心安きものでした。
駒は頼もしい影となり、黒海臣のかたわらに添うてくれます。戦場の渦に巻き込まれることもなく、小夜比売の舘まで走り抜くことができました。
ですが、その先にある舘は惑乱を極めていました。
火はまだ収まりきっていないのか、ものの爆ぜる音や煤の臭いが届いてきます。
兵たちは舘の周りや庭で小競り合い、あるいは笑いながら舘を壊そうとする者もいました。戦の昂ぶりが火に煽られ、まことの物狂いとなってしまったようです。
黒海臣は、真っ先に舘の奥へ向かいました。
――なによりも細蟹様だ。比売が籠められているとしたら、おそらく……。
舘には夫妻の寝所とは別に、夫と妻それぞれの部屋もあります。黒海臣は、その妻の部屋がある北東のほうへ向かいました。
戸にはつっかえがされています。黒海臣はそれを叩き壊す勢いで飛び込み、床を這いずって探りました。
ほどなく、ぐったりと横たわるむすめの肩に触れます。
「――っ、細蟹様!」
黒海臣は比売の脈をとり、かるく叩くようにして呼びかけました。
「細蟹様、――細蟹様ッ!」
幾度も呼びかけるうちに、ふっと息を吐く音がします。その唇から、絶えかけた清水のような声がこぼれました。
「……黒海臣さま?」
黒海臣は息をのみ、細蟹比売を抱き起こします。
「お気がつかれましたか。いま少しご辛抱ください、すぐにここからお連れ申し上げます」
「宮は……、あかるは?」
「いずれも大事ございません」
ふりむいて駒を呼びます。部屋の外を見張っていた駒は、すぐに応じて細蟹比売を背負いました。
「駒は細蟹様をお守りして宮へ戻れ。私は小夜比売様の元へゆく」
「畏まりました。わたくしの兵が幾人か庭にいたようですので、声をかけておきます。その者たちをお連れください」
「助かる」
黒海臣と駒は頷き合い、二手に分かれました。
駒は、細蟹比売を背負って宮への道を。黒海臣は、夫であるみずからの部屋がある、北西の方角へ。
その途上、駒の配下である兵たちが追いついてきました。
そうして、北西の部屋へ近づいたときでした。
「これはッ、いかなることでございますか小夜比売様ッ、話と違うではございませぬか――!」
部屋の中から、
この声は、まぎれもなく
黒海臣と兵たちは、足を忍ばせて部屋の前に立ちました。阿多臣はなにごとか喚き散らし、周囲のものを蹴り倒すような音もします。
合間に、冴えたしろがねのような声が答えました。
「暴れてどうなるものでもない。これがそなたの為せたこと――」
その瞬間、黒海臣は部屋の中へ踏み込みました。
「阿多臣、ならびに小夜どの! そなたらを謀反の罪で召し捕らえる!」
兵たちが、ざっと阿多臣と小夜比売を取り囲みます。
阿多臣は喉を引きつらせましたが、小夜比売は静かに座しているばかりです。黒海臣は見えぬ目で妻を睨み、ひそかに歯を噛みました。
阿多臣
そこで宮びとを宮へ帰らせ、あかるの
黒海臣はそのように為すべきことを為したのち、まず阿多臣を裁きの場に召し出しました。
場は、正殿の前庭です。
左右にずらりと臣下たちを居並ばせ、この裁きの立会人とします。阿多臣はうしろ手に縛られながら、甲高い声で喚きました。
「わたしは、なにも悪くないッ! すべて小夜比売様の仰せのとおりにしただけだ!」
阿多臣の言い分というのは、こうでした。
おのれは大君を弑した逆臣、黒海臣を誅そうとした忠臣である。
この国の行く末を憂い、どうしたものかと知恵を集めていたところ、小夜比売のほうからお声をかけてくださった。
小夜比売は阿多臣に手を貸そうとおっしゃり、お持ちの財や兵まで賜った。
こたびの乱で策をお授けくださったのも、小夜比売である。おのれはその策に従っただけであり、決して裁かれるような罪は犯していない――。
阿多臣はなにを問うても、おのれは悪くないと叫び続けるばかりでした。
その言い方がどうにも小ずるいような感じで、立会の臣下たちは鼻白んだ様子をします。黒海臣は、阿多臣をいったん牢へ戻しました。
そののち、次は小夜比売を裁きの場に召し出します。
途端に、あたりは気高く掃き清められたようなおごそかさに包まれました。
臣下たちが思わず背筋を伸ばします。黒海臣も、ぐっとその場に踏ん張りました。
――まるで、私たちのほうが裁かれているかのようだ。
脇の下を、ひそかな汗が伝います。黒海臣はそれを押し隠し、腹から声を響かせました。
「小夜比売、改め小夜どの。貴女は阿多臣の謀りごとに
黒海臣の問いに対して、小夜比売はさえざえと答えました。
「
「それは、諾ということですか」
「そう思いたいのならば、そのように思われればよい」
これでは、裁きになりません。黒海臣は首をふり、もういちど小夜比売に問いました。
「いまは、貴女のお考えを訊いているのです。小夜どのご自身に、この宮を、ひいてはあかるの
黒海臣はそう語りつつ、腰に提げた布包みを取り出しました。
中には、
「みなには見えておらぬだろうが、いまここにある耳飾りは、以前、私の
そう問いつめると、小夜比売は小さく息をつきました。
それからやはり、冴えた口ぶりで語り始めます。
「さようです。これは、
始まりは、
耀日祇が血濡れの剣を持ち、身ごもった細蟹比売の部屋を襲ったときです。
この話を聴いた小夜比売も、騒ぎを仕組んだのは阿多臣ではないかと考えたらしいのでした。
「私はかねてより、宮に間諜をひそませていました。その者たちからの報せを受けたあと、私は阿多臣に近づきました」
すなわち、ともに世を変えぬかともちかけたのです。
小夜比売はみずからの財や兵までも
この点においては、阿多臣の語ったことと違いがありません。黒海臣は息を吸い込み、静かに小夜比売へ問いかけました。
「では、貴女は明らかな意をもって、こたびの乱を起こしたのですね」
「そう考えていただいて結構です」
居並ぶ臣下たちがどよめきます。黒海臣はひそかに歯を噛みました。
――これでは、まったく庇いだてができぬ。
せめて、小夜比売が阿多臣のように、相手に罪をなすりつけてくれていたら。
双方の言い分に食い違いがあれば、裁きを長引かせることもできたはずです。もしかしたら、小夜比売の罪を軽くすることとて叶ったやもしれません。
ですが、こうも言い切られてしまっては、もはや
黒海臣は、血の気の引いたこぶしを握りました。
「……なにゆえに。なぜ小夜どのは、この乱を起こそうとたくらまれたのですか、」
それは同時に、夫としての、妻への叫びでもありました。
なぜ阿多臣の手を取ったのか。なぜ少しでも、黒海臣に話をしてくれなかったか。
深いうなそこで渦が逆巻くように、黒海臣は憤っていました。青い
黒海臣はその叫びを叩きつけ、震え出しそうな唇を結びます。
しかし小夜比売は顎を上げ、たったひとこと、凛とした声でいらえました。
「これが、
それきり、小夜比売はなにも申し開きをしませんでした。
どれほど黒海臣が責めようともなじろうとも、頑として口を開かぬのです。
立会の臣下たちも困り果て、これはもう、刑に処するしかあるまいとささやきを交わしました。
そうして
前の日と同じ、正殿の前庭です。見せしめも兼ねているため、その場には宮じゅうの臣下や女官たちが集められました。
阿多臣は最期まで、おのれの無実を喚き続けておりました。煮えた
「ッああああァアア――」
黒海臣は生焼けの肉と化した阿多臣を、首から斬り落としました。
みなが、思わず悲鳴を上げます。血とただれた
ところが小夜比売は、なおも背を正して座していました。
――なにゆえに、こうも落ち着いていられるのか……。
黒海臣は、いくらかぞっとするような気持ちになります。唾を飲み込み、小夜比売の前に立ちました。
「……次は、小夜どのの番です。なにかご遺言はございますか」
「では、黒海臣様だけに」
かがんでくれ、というような衣ずれをさせるので、黒海臣はその場に膝をつきました。
小夜比売が、黒海臣の耳元へ寄り添います。ひんやりとした
小夜比売は、そうしてひっそりと口を開きました。
「
甘い毒を吹き込むように、比売の声が黒海臣をからめ取ります。
「貴方はきっと、この世の誰もいとおしめない。貴方は死ぬまで、
「――!」
黒海臣は、火を浴びせられたように跳び退きました。
心の臓が早鐘を打っています。鉄を飲ませる役目の兵が、脇からいぶかしげに声をかけます。
それでも黒海臣が動けずいると、小夜比売のほうが兵を急き立てました。
「もうよい、早く
「……は。しかし、黒海臣様のご命がまだ……」
「この私が、そなたによいと申している」
その声は重く響く大鐘のごとく、周囲のひとびとを
言われた兵士は慌てふためいた様子で、煮え鉄の鍋をかたむけました。
「っ、待ちなさ――」
黒海臣が我に返ったときには、肉の焼ける湯気があたりへ立ち込めておりました。
じゅう、という音だけが、小夜比売の最期のおことばです。
黒海臣は呆然とその音を聞き、やがて比売が倒れ伏すまで、立ち尽くしたままでした。
そのような黒海臣を、兵が遠慮がちにうながします。
「あの、黒海臣様……」
「……ああ、」
黒海臣は首をふり、息を吸って、また吐きます。
それから思いきり剣をふりかぶり、横たわる小夜比売へ振り下ろしました。
――小夜比売様。
その刹那、たしかに黒海臣の中のなにかが断ち切れます。
それは
黒海臣はそのようにして、またひとつ、おのが手で
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます