潮織りの比売(ひめ) 九



 やがてつきが経ちました。

 細蟹は御子とともに、文目あやひとの住まいで過ごしていました。

 首も据わらぬ子を抱えての暮らしは気を張りましたが、文目人たちがよく手を貸してくれます。細蟹はそのありがたさに、こうべを垂れずにはいられませんでした。

 また、いまはばばさまも工房に移っています。ここで糸を繰りながら、細蟹の世話をしてくれているのでした。

 細蟹はそのかたわらで子に乳をやり、泣きぐずる背をあやします。耳に響くみどりの声を聞いていると、いつも夫君のことを思い出しました。


――かがよひ。あなたはほんとうに、いなくなってしまったの?


 かがよひは、まことに病で死んだのでしょうか。ほんとうにもう、いないのでしょうか。

 細蟹にはどうしても信じられません。しかし一方で、あの黒い白鳥くぐいの夢が偽りでないこともわかっていました。そうした直感がありました。


――せめて、正殿に行ければ……。


 細蟹は唇を噛みました。

 正殿に行けば、かがよひの消息が聞けるはずです。さすれば真実も見えるでしょう。

 されども細蟹には御子がおり、ばばさまや文目人たちの目があります。

 それらを投げ捨てて動くことはできません。そのもどかしさが、つねに細蟹の喉をひりつかせていました。

 そうした物思いにふけっていると、ふと、ばばさまが顔を上げたようでした。


「おとなしいな」


 細蟹は身をすくめ、目隠しのままふりむきます。ばばさまは察したようすで、糸を繰りながら続けました。


みこのことよ。おまえが何ぞ思うておると、かならず泣き止むじゃろう」

「……、」


 そう言われて、細蟹はもう泣き声が聞こえないことに気づきました。

 そっと頬に手をやれば、御子も小さな御手で触れてきます。その力の、はだの熱さ。やわらかさ。

 目を塞いでいる細蟹には見えませんが、きっと御子は一心に細蟹を見つめているのでしょう。熟した桑の実のようにうるわしく、清らかなその瞳で。

 あらためて考えれば、御子はいつもそうなのでした。

 細蟹が思い、哀しむときに、御子はふっつりと泣き止みます。

 そうして、まるで寄り添うように口をつぐんでいるのです。細蟹はこの御子に支えられ、ほほ笑まれているような気がしました。


――……あかる。


 細蟹は胸のうちで、御子の名をささやきました。

 この子は光。

 澄んだ目でとこの闇を包み込む、新たなる国の光。

 細蟹はなにかそんな気持ちがし、ひそかに御子の名を決めていました。みなの心を明るませる、春風のようにやさしき皇子。


――あかる。あなたがいてくれてよかった。


 細蟹は祈るように、あかるの額にくちづけを落としました。

 ばばさまは、そんな細蟹たちを見えぬ目で眺めているようでした。それから、ふいと顔を背けるようにして呟きました。


「あまり、わずろうてばかりおるなよ。子は母の鏡なのじゃから」



 その翌日あくるひです。

 なにやら工房のほうが騒がしくなり、ばばさまが烈しくいきり立つ声も聞こえました。

 どうやら、誰かを通す通さぬという争いをしているようです。

 細蟹はあかるを胸に抱き、身を硬くしました。あかるは母の怖れを察して、悲鳴のような声を上げます。

 その声が争いを止ませたようです。しんと静まる気配とともに、重く落ち着いた足音が入ってきました。


「――黒海臣くろみのおみッ!」


 ばばさまの声もします。黒海臣はばばさまには答えず、細蟹とあかるの前に叩頭み伏したようでした。


「細蟹様、ご無沙汰しております。黒海臣にございます。覚えていらっしゃいますでしょうか」


 黒海臣は、以前と変わらずくろがねのような落ち着きを帯びています。その静けさに、細蟹は少し肩の力を抜きました。


「ええ、……もちろんです。耀日祇さまの……」


 そう言いかけたとき、ばばさまが割り込みました。


「聞くな欠け星! この男は勝手に機屋へ踏み込んだ狼藉者じゃ、さような者と向き合わぬでよい!」

「婆どの、あまり声を荒げられますな。みこに障ります」


 あかるは、細蟹があやす腕の中でぐずっていました。ひと手でも間違えば、とたんに大声で泣き出しそうです。

 ばばさまもその気色を察したようで、しぶしぶ押し黙りました。黒海臣が細蟹に声をかけます。


「このたびは細蟹様にお願いがあり、わたくし黒海臣が参上仕りました。突然のことにて恐縮ですが、どうぞお聴き届けくださいますよう」

「願い?」


 かがよひの臣下であった――細蟹などより、よほど生まれがよいはずの黒海臣が、いったいなんの願いごとというのでしょう。

 細蟹が驚くそばで、ばばさまが呪詛でも唱えるように呻きました。


「そのことは、ならぬと申したはずじゃ。幾度ここに来ようともまかりならぬ」

「婆どの。ご息女かわいさはお察しするが、これ以上とどめ置くことはできぬのです。いまやこの国唯一の儲君もうけのきみを、こうもうち棄てておくわけにはまいらぬ」

「まだ首の据わりも危うい赤子であるぞ。それを母と引き離し、祀り上げて傀儡くぐつとなすか。この奸臣め」

「いかようにも罵られるがよい。私はかまいませぬ」

「――愚者めがッ!」


 こぶしで床を打つような音がしました。

 どうやら、ばばさまが手を出したようです。細蟹は息をのみつつ、ぐずつくあかるを抱きしめました。


「黒海臣さま……。お願いというのは、あかるの身の振り方についてのことでしょうか」

「あかる?」


 黒海臣が訊ねます。細蟹は頷き、あかるの背を撫でました。


「この子の――耀日祇さまの御子の名です。きっとこの子は、ひとびとの心を明るませるみこになります」

「……尊き王の御名を、お独りで決めてしまわれたのですか」


 黒海臣は絶句したようでした。しかしすぐさま、気を取り直したようすで続けます。


「まあ、それはいまの話の筋ではない。お願いというのは、たしかにそのみこ様についてのことです」

「はい」

「細蟹様、どうか王様を正殿にお返しください。王様は、耀日祇様のたったひとりの御子でいらっしゃる。しかるべき乳母をつけ、大君おおきみとしてのふるまいを学び、ゆくゆくはかみとしてお立ちいただかねばならない。いつまでも技人わざひとの中に混じらせておくわけにはゆかぬのです」

「――」


 細蟹はひやりとしました。

 忘れていたわけではなかった、けれども忘れようとしていたことを、腹の底に突きつけられたようでした。

 あかるは耀日祇の、尊き大君の血を引く子です。

 そのうえいまの大君のお血筋には、ほかに皇位を継げる男王ひこみこがおりません。あかるはただしく、この国唯一の皇子なのです。


――その重さは、わかっていたつもりだわ。でも……。


 離れたくない、と願うのは、細蟹のわがままでしょうか。

 乳をやり、腕に抱き、わが子の生い立ってゆくさまを眺めたいと思うのは。


「黒海臣さま……、」


 思わず取りすがる声になりました。ばばさまが細蟹と黒海臣の間に入ります。


「この男の言うことなど聴かぬでよい、欠け星。おまえこそが王の母じゃ、気をしかと持て」

「婆どの。貴女もわかっておいででしょう、そのような我が通るものではないと。これは国の大事です」

「ふん、国とな。男という生きものはそればかりじゃ。そのうねりの中で女や子らがいかな目に遭おうとも、ふりむきもせぬ。外ばかり向いて大義じゃ使命じゃと騒ぎ立てる」

「さようなことはない。男は女や子らのことを思うがゆえに、国を動かし働くのです。あかるの王様のこととて同じ――」

「……やめてください」


 細蟹はたまらず首をふりました。

 腕の中で、あかるがぐずぐずと泣いています。そのからだは熱を持ち、涙で腫れているようです。

 細蟹は咳き込むあかるの背を叩き、きッと黒海臣を仰ぎました。


「わかりました、黒海臣さま。あかるは正殿にお渡しします」

「――欠け星!」


 ばばさまが声を上げます。しかし細蟹はそれを否み、黒海臣に向かって続けました。


「その代わり、わたしも王とともに連れて行ってください。せめてこの子が乳を離れ、おのれで立ち、口をきけるようになる歳まで。どうか母として王のそばに添い、王にお仕えさせてください」


 それが細蟹の、精いっぱいの戦いでした。

 母として、子を守る年月を少しでも勝ち取りたかったのです。

 あかるが世継ぎの皇子ではなく、ただひとりの子として暮らすことができるように。その日々をわずかでも延ばせるように。


――それに、正殿へ行けばきっとかがよひのことも知れる……。


 細蟹はそうも考え、話を持ちかけたのでした。

 黒海臣は見定めるように黙り込みます。それからややあって口を開きました。


「もしもわたくしが、それはならぬと退けましたら?」

「あかるを殺して、わたしも死にます」


 細蟹はすかさず答え、あかるの首に手をやりました。

 あかるが呻き、黒海臣もまことに手をかける気であると感じたようです。彼はため息をついて立ち上がりました。


とせです。耀日祇様の喪があける三年のちまでは、細蟹様に王様をお預けしましょう」


 黒海臣は手をさしのべ、細蟹を立ち上がらせました。細蟹は礼を述べ、その手に導かれて部屋を出ます。

 するとさらにそのうしろから、ばばさまも追ってきました。


「ならば儂も戻る。黒海臣よ、おまえには信が置けぬ」

「ええ、よきように」


 黒海臣はさらりと頷き、先に立って歩きはじめます。

 細蟹はそれに従いつつ、いまさらながら冷や汗が落ちるのを感じました。


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