黒海臣(くろみのおみ)のはなし 一
――小さなむすめだ。
いまいるのは宮の正殿、
そこで示されたのが、従者たちのもっとも後ろにいるむすめです。
糸くりの婆が欠け星と呼んだむすめは、大君のご機嫌を損ねたと思ったのでしょう。平伏して震えています。まだ十をふたつ三つ越えたほどの、まことに幼げなむすめでした。
大君は顎を撫で、そのむすめの技をお褒めになります。
「よき手だ。わが妃の、若きころの織りに似ている」
「……勿体のう、おことばにございます」
むすめは、かぼそい小川のせせらぎのような声でいらえました。黒海臣からすれば、こんな小さなむすめが大君のお気に召すものを織ったとは、とうてい信じられません。
しかしそれよりも、大君のほうがさらに信じがたいことをおっしゃいました。
「巧みな織り手は、いくらおっても困らぬ。欠け星よ、そなたは一日この宮に留まり、
途端に、居並ぶ臣下たちがどよめきます。
その中でも、大君の
「大君、それはなりませぬ! 下民に宮の工房を見せよなど、貴重な技が盗まれます!」
古い豪族の出である阿多臣は、大君の身の回りのお世話をすることで、わが身の位を守っています。その位ゆえに、こうして大君へ意を述べることも多いのです。
ですが大君はまなじりを裂き、お席をなぎ倒す勢いで阿多臣に迫られました。
「ええ黙れッ! この私がよいと言うておるのだ、そなたが口を挟むことではない!」
「――ッ、」
大君がこうおっしゃれば、もはや誰もお止めすることなどできません。阿多臣は鼻白み、恨めしげなまなざしをして黙り込みました。
大君は息を荒げ、ぬるりと群臣たちをご覧になります。
「
「はい」
そう答えた人影が進み出ます。その瞬間、あたりに大輪の花のごとき光がこぼれたように思われました。
大君のただひとりの御子、かがよひの
むすめは糸くりの婆をふりかえり、迷いながら立ち上がります。
群臣たちは半ば恐れ、半ばものめずらしげに王とむすめを見送りました。あとには、なにか白けたものがただよいます。
大君は荒々しくお席に就かれ、手で従者たちを払いました。
「もうよい、下がれ」
「……は、」
糸くりの婆が、呻くように
しかしその瞳はぎらぎらと燃えており、大君になどたやすく屈さぬという志が透けていました。婆はそのような目を残し、従者らとともに下がってゆきます。
「――ちっ、」
それから阿多臣が舌打ちし、そそくさと部屋を出てゆきました。その荒らかさにつられるように、他の臣下たちもまかり始めます。
最後には、大君と黒海臣だけが取り残されました。大君がどっと疲れたように力を抜きます。
「そなたも、阿多のように私をなじるか。黒海よ」
「必要とあらば」
静かに大君へ頷きます。大君はため息をつき、てのひらで御みずからのお顔を覆いました。
「そうだな。おまえはそのように在ってくれ。……
大君は土くれのようにひび割れたお声で、黒海臣の下の名をささやきます。ともに育った童のころから変わらない、その呼び方で。
――そうだ、私はこのように在り続ける。貴方様が望む限り。
まぶたの裏に、若き日の大君のお姿が浮かびます。
私を殺せと、そのときの大君は乾いた御目でおっしゃいました。乾いた中にほとばしるような飢えをひそめて、黒海臣へすがるように。
――あの約束を、私は決して忘れませぬ。……くらひこ様。
黒海臣も、大君が皇子でいらしたときの名を呟きます。
そうして、声もなくお哭きになる大君のかたわらへ添い続けました。かつてのその約束が、やがて黒海臣を大いなるうねりの中へ連れてゆくとも知らぬままに。
出入りする人は少なく、しかし隅々まで掃き清められたおごそかさがあるのです。ここは比売の夫である黒海臣の家でもあるのですが、黒海臣は、この舘で安らぎを覚えたためしがありませんでした。
――いかにも、
明かりもない中、黒海臣は手探りで寝所へ向かいます。
奥方の小夜比売は、大君である闇彦祇の姉君なのです。黒海臣の家系はそれなりの古さと格があり、また黒海臣自身は、闇彦祇の乳兄弟でもあります。
ゆえに大君の姉君を
――あの御方は、私ごときの手には余る。
そう嘆息したとき、寝所の戸に触れました。黒海臣はほとほとと戸を叩きます。
「ただいま戻りました、小夜比売様」
しかし、いらえはありません。黒海臣はふたたび嘆息したくなるのをこらえ、戸を開きました。
「小夜比売様」
「……、」
比売はこちらに背を向け、やわらかな葦の
寝入っているふうにも見えますが、おそらく目は冴えているのだろうと思います。いつもそうであるからこそ、わかるのです。
黒海臣は少し頭を下げ、比売の隣に横たわりました。比売は変わらず、硬い背を向けています。
その
――……女人というものは、幾年経ってもよくわからぬ。
比売と連れ添って、もはや十と八年が過ぎています。
ふたりは、比売が十七、黒海臣が十五のときに縁組みをしました。比売は大君の一族のむすめでありましたが、
そのために宮を出て、誰かに嫁がねばなりませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、黒海臣だったのです。
比売のおとうさまであるよひの
ところが比売は、嫁いだときから黒海臣に冷ややかでした。
なんでもよくできる御方であるので、夫の世話や舘の差配など、みな手抜かりなく整えてはくれます。あまりにも抜かりがなさすぎて、いくらか息苦しいとすら感じるほどです。
そうしたまじめさ、おごそかさは、弟君である闇彦祇と似ています。闇彦祇も、まじめゆえに一点の曇りも許さぬようなところがおありなのです。
ですが比売は闇彦祇と異なり、決して黒海臣に弱みをみせようとはしませんでした。
いかに
このようにされるたび、黒海臣はおのれが泥になってゆくような心地がしました。ずぶずぶと足元から融けてゆき、最後には疲れ果ててくじけ落ちてしまうような。
そしてさような心持ちになると、もうなにを言う気にもなりません。ただ口をつぐみ、黙々と闇彦祇の下へ戻るのでした。
――比売様は、私ごときが夫などご不満であるのだろう。
まことならば、比売は尊き大君のお血筋につらなる御方です。
そうした御方が宮を出され、かようにむさ苦しいお住まいに籠められているのです。
それも夫は、気働きのできぬ黒海臣。そう考えれば、比売が厭うのも無理からぬことと思われます。
――せめて子があれば、なにか違ったかもしれぬが。
しかし、それを言ってもしようのないことです。
ふたりの間に子はできず、ならばできぬなりに生きてゆくしかありません。契って十年が経ったころ、黒海臣はそのように比売へ話していました。
――そうだ。人は生きてゆくしかない。私も、比売様も、闇彦祇様も。
息の根の止まるときまで、それぞれにおのれの為すべき責を抱えて歩みながら。
黒海臣は心のうちで低く呻き、目を閉じました。
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