潮織りの比売(ひめ) 十三
銀の
宮の庭は、そうした花々の甘い息吹でいっぱいでした。
細蟹は目にできませんが、あかるはふつうに景色が見えます。ために、はしゃいで走り出そうとするので、細蟹はやわらかにその手を捕まえました。
「あかる、ひとりで離れないで。母さまも行きたいわ」
「ん!」
あかるは頷き、小さな護衛のように細蟹の手を引きます。
ふたりのうしろを、まことの護衛である
あかるが生まれて、ひととせと
近ごろのあかるは、こうして話せるようになっています。歩いたり走ったりも盛んになり、うかうかと放ってはおけません。
耳を澄ましておらねば、どこで怪我をするかもしれず――されども細蟹は、そうした生い立ちが嬉しいのでした。
子は日ごと手足が伸び、抱けば重くなり、泣き、笑い、怒ります。
その
それは、宮びとたちも同じようです。あかるの笑う声を耳にして、花摘みの女官や園丁が寄ってきました。
「あかる様」
「
「細蟹さまも――」
宮びとたちはうやうやしく控えているようですが、一方で、なにか気もそぞろでした。あかるを気にしていることが明らかです。
細蟹は微笑し、かがんであかるの背を撫でました。
「あかる、ご挨拶は?」
「こお、んは!」
あかるは、こんにちは、と言っているつもりでお辞儀をします。周りの大人たちが楽しげに笑いました。
「まあ、お上手ですこと」
「さすがあかる様、聡明でいらっしゃる」
「王さま、お花を一輪いかがですか」
あかるは女官から花をもらい、ご機嫌です。その笑い声が風を呼び、辺りを掃き清めてゆくようでした。
その風を浴び、みな、ほうと肩を和らげます。
「ああ、よい風――」
「あかる様のおぼしめし」
「心がさっぱりとするようね」
そうなのです。
これが、あかるだけが持つ力であるようなのでした。
かつて細蟹が感じたとおり、あかるの声は春風を呼び寄せます。光を知らぬ常夜の者らに、ほのぼのとした夜明けの
その清らかさは人の心を明るませ、雪どけをもたらしました。
初めはおそるおそる、少しずつ。
やがて若い女官たちがあかるを抱き、年かさの女人や男らも近づいてくるようになりました。いまやあかるを介して、細蟹にも声をかけてくれています。
きょうも、女官のひとりが不足や困りごとはないかと問いました。
細蟹は礼を述べ、あかるについて気になるところを訊いてみます。この女官は子を産んだことのある人なので、話をもちかけやすいのです。
ことばの早い遅い、背丈や目方の伸び、食事の好みに寝つきのよし悪し――。
さまざまな悩みを談ずるうちに、ふと、みながはっとした様子で引き下がりました。あかるが誰かに手を伸ばします。
「くお!」
呼ばれた人は、静かな足どりであかるの前にひざまずきました。
「あかるの
「ん、どうど」
あかるは、彼に花を渡したようです。その人――
「幸甚にございます」
「くお、どうど、どうど」
畏まる黒海臣に、あかるはまつわりついて甘えます。
そうするとなお風が立ち、周囲に満開の花がこぼれました。宮びとたちは、黒海臣に気がねしつつ歓声を上げています。
黒海臣は周りにかまわず、あかるを抱き上げて礼をしました。
「細蟹様。恐れながら、昼のまつりごとの刻限です」
「承知しました。ご足労をかけましたね」
細蟹は周囲にいとまを告げ、黒海臣に従います。あかるは黒海臣の肩に乗り、のびやかに歌っていました。
そのうしろで、宮びとたちがひっそりとささやきます。
「不思議なことだな。あかる様が黒海臣様になつかれるとは」
「ほんとうに。たしかに黒海臣さまは、すぐれたまつりごとの御方ではあるけれど――」
細蟹はその噂を気にしながら、気にしすぎぬように歩きます。
実のところ、不思議なのは細蟹も同じでした。
黒海臣は、つねに陰と苦みをまとったような男の人です。
ところがあかるは、よく黒海臣を慕っています。まるで、おのれの父に対するような親しみでした。
――たしかに、あかるにとっては、いちばん身近な男の人だろうけれど……。
そして父を知らぬあかるが、父代わりの相手を得られるならば、よいことだとは思うのですが。
ですが細蟹は、それをよいことだとは認めたくないのでした。
あかるに笑いかけながらも、まぶたの裏には、黒い
しかし宮びとたちはそのような気持ちも知らず、ひそかに細蟹たちを窺っているのでした。
どこか、まぶしげな望みの混じった心をも向けながら。
「
細蟹は膝をそろえ、黒海臣の語りに耳をかたむけます。
これが、昼のまつりごとの一環です。あかるはばばさまに預け、
こうして国の史を学び、
「卑向鹿志の王、
黒海臣は低く重く、川が流れゆくように物語をつむいでゆきます。古き
これまで主だった大君たちの伝承を聴きましたが、いまは御世の変わり目にさしかかっています。中継ぎの王のあと、国は東に住まっていた
荒ぶる異民の
「――それまでは、女人であった始祖日呑祇を敬い、
黒海臣は、そのように御世の移り変わりを説きました。
細蟹は頷きながら、はるか前の世に生きた大君たちを思います。
――脈々としたこの血の果てに、かがよひや、あかるが生きているのだわ。
そう考えれば、かつてかがよひが言っていたことを思い出しました。
わたしはこの一族の澱なのだと、さびしげに笑んだ孤独な皇子。細蟹はそのさびしさに惹かれ、彼の手をとり、最後までともにゆこうと誓ったのでした。
かがよひは、決して恐ろしい
――……けれど。
「卑向鹿志の王の子
そのあとも、大君の一族の物語は続きます。
兄が弟を、父を殺し、しかしのちには、おのれも別の末弟に殺されるのです。生き残った末弟は兄嫁を妃に乞い、あるいはおのが姪を妾妃として迎えました。
このころ、大君も臣下たちも、こうした殺し殺されという戦いの下に生きていました。
血は混じり、離れ、互いをうたがい、裏切りながら
細蟹はそのような物語を聴き、しんとした気持ちになります。
――国は、一族は、血のつながりは、たやすく
いままでは、ただかがよひが謂われなき罪をこうむってきたのだと思っていました。
されども、一族の史は入り組み、誰が悪いとも言い切れません。殺した兄にも言い分はあり、殺された父や弟にもそれぞれの思いと筋道があったのです。
いまの世を生きる宮びとたちにも、おのおのの抱えるものはあるのでしょう。
彼らの言い分を汲めば、かがよひはやはり、大君としては危うい皇子であったのかもしれません。かがよひは、このうつし世を生きるには細やかすぎる人だったのやも。
――とりわけ、黒海臣さまと接していると、……。
隣の黒海臣に気を配れば、彼は背すじを正して座しているようでした。
その揺るぎなさ、
国を守るには、こうした鋭さ、冷ややかさがなければ務まらぬのでは――。
「……細蟹様?」
そこで名を呼ばれ、はっとしました。
黒海臣がこちらを窺っている気配がします。細蟹は急いで背を伸ばしました。
「申し訳ありません、気が逸れておりました」
「いえ。本日はここまでに致しましょう」
「はい」
礼を述べ、高御座のある部屋をあとにします。
その途中で、細蟹は黒海臣の座すほうをふりむきました。
――だけどわたしは、それでもこの方を許せない。
誰かを殺さねば成り立たぬ血筋など、あってはならぬと思うのです。あかるには、決してそのような
細蟹は息を吸い、唇を噛んで歩き出しました。
おのれを奮い立たせるように、ただひとりの国母として胸を張って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます