潮織りの比売(ひめ) 十三



 とこの国にも、水ぬるむ春はやってきます。

 銀の辛夷こぶしに金のやまぶき、梅、もも、さくら。光がないこの国では、樹々は透きとおった雪びらのような、あわい花を咲かせます。

 宮の庭は、そうした花々の甘い息吹でいっぱいでした。

 細蟹は目にできませんが、あかるはふつうに景色が見えます。ために、はしゃいで走り出そうとするので、細蟹はやわらかにその手を捕まえました。


「あかる、ひとりで離れないで。母さまも行きたいわ」

「ん!」


 あかるは頷き、小さな護衛のように細蟹の手を引きます。

 ふたりのうしろを、まことの護衛であるこまもついてきます。細蟹は笑み、胸をくすぐる花の香を吸い込みました。

 あかるが生まれて、ひととせと七月ななつきが過ぎていました。

 近ごろのあかるは、こうして話せるようになっています。歩いたり走ったりも盛んになり、うかうかと放ってはおけません。

 耳を澄ましておらねば、どこで怪我をするかもしれず――されども細蟹は、そうした生い立ちが嬉しいのでした。

 子は日ごと手足が伸び、抱けば重くなり、泣き、笑い、怒ります。

 そのかんしゃくや泣き声はつらいこともありますが、やはり、育ちゆくことは嬉しいのです。のびのびとした姿を追えば、細蟹まですがすがしくなってきます。

 それは、宮びとたちも同じようです。あかるの笑う声を耳にして、花摘みの女官や園丁が寄ってきました。


「あかる様」

みこさま、ごきげんようございます」

「細蟹さまも――」


 宮びとたちはうやうやしく控えているようですが、一方で、なにか気もそぞろでした。あかるを気にしていることが明らかです。

 細蟹は微笑し、かがんであかるの背を撫でました。


「あかる、ご挨拶は?」

「こお、んは!」


 あかるは、こんにちは、と言っているつもりでお辞儀をします。周りの大人たちが楽しげに笑いました。


「まあ、お上手ですこと」

「さすがあかる様、聡明でいらっしゃる」

「王さま、お花を一輪いかがですか」


 あかるは女官から花をもらい、ご機嫌です。その笑い声が風を呼び、辺りを掃き清めてゆくようでした。

 その風を浴び、みな、ほうと肩を和らげます。


「ああ、よい風――」

「あかる様のおぼしめし」

「心がさっぱりとするようね」


 そうなのです。

 これが、あかるだけが持つ力であるようなのでした。

 かつて細蟹が感じたとおり、あかるの声は春風を呼び寄せます。光を知らぬ常夜の者らに、ほのぼのとした夜明けのすがしさを芽ぐませるのです。

 その清らかさは人の心を明るませ、雪どけをもたらしました。

 初めはおそるおそる、少しずつ。

 やがて若い女官たちがあかるを抱き、年かさの女人や男らも近づいてくるようになりました。いまやあかるを介して、細蟹にも声をかけてくれています。

 きょうも、女官のひとりが不足や困りごとはないかと問いました。

 細蟹は礼を述べ、あかるについて気になるところを訊いてみます。この女官は子を産んだことのある人なので、話をもちかけやすいのです。

 ことばの早い遅い、背丈や目方の伸び、食事の好みに寝つきのよし悪し――。

 さまざまな悩みを談ずるうちに、ふと、みながはっとした様子で引き下がりました。あかるが誰かに手を伸ばします。


「くお!」


 呼ばれた人は、静かな足どりであかるの前にひざまずきました。


「あかるのみこ様、本日もご機嫌ようございます」

「ん、どうど」


 あかるは、彼に花を渡したようです。その人――黒海臣くろみのおみは、ほのかに微笑するような声音になりました。


「幸甚にございます」

「くお、どうど、どうど」


 畏まる黒海臣に、あかるはまつわりついて甘えます。

 そうするとなお風が立ち、周囲に満開の花がこぼれました。宮びとたちは、黒海臣に気がねしつつ歓声を上げています。

 黒海臣は周りにかまわず、あかるを抱き上げて礼をしました。


「細蟹様。恐れながら、昼のまつりごとの刻限です」

「承知しました。ご足労をかけましたね」


 細蟹は周囲にいとまを告げ、黒海臣に従います。あかるは黒海臣の肩に乗り、のびやかに歌っていました。

 そのうしろで、宮びとたちがひっそりとささやきます。


「不思議なことだな。あかる様が黒海臣様になつかれるとは」

「ほんとうに。たしかに黒海臣さまは、すぐれたまつりごとの御方ではあるけれど――」


 細蟹はその噂を気にしながら、気にしすぎぬように歩きます。

 実のところ、不思議なのは細蟹も同じでした。

 黒海臣は、つねに陰と苦みをまとったような男の人です。他人ひとを寄せつけぬ厳しさもあり、おさな子に好かれそうな人柄ではありません。

 ところがあかるは、よく黒海臣を慕っています。まるで、おのれの父に対するような親しみでした。


――たしかに、あかるにとっては、いちばん身近な男の人だろうけれど……。


 そして父を知らぬあかるが、父代わりの相手を得られるならば、よいことだとは思うのですが。

 ですが細蟹は、それをよいことだとは認めたくないのでした。

 あかるに笑いかけながらも、まぶたの裏には、黒い白鳥くぐいのおもかげがよぎります。独り死者の国にいる汝兄なせの君のことを思うのです。

 しかし宮びとたちはそのような気持ちも知らず、ひそかに細蟹たちを窺っているのでした。

 どこか、まぶしげな望みの混じった心をも向けながら。



ひむかし夷人ひなびとあり、いとたけり従はず、卑向鹿志ひむかしわうりて、十二道とをあまりふたみちの国治めししに――」


 細蟹は膝をそろえ、黒海臣の語りに耳をかたむけます。

 これが、昼のまつりごとの一環です。あかるはばばさまに預け、たかくらのある部屋で教えを請います。

 こうして国の史を学び、風土ふどを知ること。それこそがまつりごとのはじめであると、師たる黒海臣が教えたのでした。


「卑向鹿志の王、八十やそいくさ挙げて東のよりるるさま、蟻の海、山とるが如く――」


 黒海臣は低く重く、川が流れゆくように物語をつむいでゆきます。古き祇々かみがみの、大君たちの口伝です。

 おやたる日呑祇ひのめのかみの生まれに始まり、そのむすめたち、孫、そして中継ぎのみこの話まで。

 これまで主だった大君たちの伝承を聴きましたが、いまは御世の変わり目にさしかかっています。中継ぎの王のあと、国は東に住まっていた異民えみしの手に落ちたのです。

 荒ぶる異民のおうは都を平らげ、おのが子を大君の位に就けました。


「――それまでは、女人であった始祖日呑祇を敬い、女王ひめみこが国のいただきにあらせられました。しかしこの夷王ののち、大君の座は男王ひこみこに移ります。このころはいくさが多く、武に強い男のまつりごとが求められたのです」


 黒海臣は、そのように御世の移り変わりを説きました。

 細蟹は頷きながら、はるか前の世に生きた大君たちを思います。


――脈々としたこの血の果てに、かがよひや、あかるが生きているのだわ。


 そう考えれば、かつてかがよひが言っていたことを思い出しました。

 わたしはこの一族の澱なのだと、さびしげに笑んだ孤独な皇子。細蟹はそのさびしさに惹かれ、彼の手をとり、最後までともにゆこうと誓ったのでした。

 かがよひは、決して恐ろしい荒神すさがみではない。ただ周りに屈しただけの哀しきにえなのだと信じて。


――……けれど。


「卑向鹿志の王の子阿志多毘あしたび、長じて小暗祇をぐらのかみ嫡妻むかひめ水門郎女みなとのいらつめを取り持ち来、皇后おほきさきとす。其の郎女の生みませる御子、未明王みみょうのみこ、次に遅明王ちみょうのみこ――」


 そのあとも、大君の一族の物語は続きます。

 兄が弟を、父を殺し、しかしのちには、おのれも別の末弟に殺されるのです。生き残った末弟は兄嫁を妃に乞い、あるいはおのが姪を妾妃として迎えました。

 このころ、大君も臣下たちも、こうした殺し殺されという戦いの下に生きていました。

 血は混じり、離れ、互いをうたがい、裏切りながらかばねを踏みつけていったのです。人々は息をひそめ、固く閉じこもりながら暮らしていました。

 細蟹はそのような物語を聴き、しんとした気持ちになります。


――国は、一族は、血のつながりは、たやすくし悪しを判ぜられるものではない……。


 いままでは、ただかがよひが謂われなき罪をこうむってきたのだと思っていました。

 されども、一族の史は入り組み、誰が悪いとも言い切れません。殺した兄にも言い分はあり、殺された父や弟にもそれぞれの思いと筋道があったのです。

 いまの世を生きる宮びとたちにも、おのおのの抱えるものはあるのでしょう。

 彼らの言い分を汲めば、かがよひはやはり、大君としては危うい皇子であったのかもしれません。かがよひは、このうつし世を生きるには細やかすぎる人だったのやも。


――とりわけ、黒海臣さまと接していると、……。


 隣の黒海臣に気を配れば、彼は背すじを正して座しているようでした。

 その揺るぎなさ、くろがねのごとき強さ。黒海臣のたたずまいには、宮びとたちが心頼みとするのもわかる芯があります。

 国を守るには、こうした鋭さ、冷ややかさがなければ務まらぬのでは――。


「……細蟹様?」


 そこで名を呼ばれ、はっとしました。

 黒海臣がこちらを窺っている気配がします。細蟹は急いで背を伸ばしました。


「申し訳ありません、気が逸れておりました」

「いえ。本日はここまでに致しましょう」

「はい」


 礼を述べ、高御座のある部屋をあとにします。

 その途中で、細蟹は黒海臣の座すほうをふりむきました。


――だけどわたしは、それでもこの方を許せない。


 誰かを殺さねば成り立たぬ血筋など、あってはならぬと思うのです。あかるには、決してそのようなみこになってほしくありません。

 細蟹は息を吸い、唇を噛んで歩き出しました。

 おのれを奮い立たせるように、ただひとりの国母として胸を張って。


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