黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十五



――静かだ。


 阿多臣と小夜比売を誅した日の、その夜半よわです。

 黒海臣は、独りたかくらの部屋に座していました。戸を開け放ち、庭まで眺められるようにします。

 目で見ることはできませんが、秋の風のささめきが渡ってきました。

 萩の香。

 虫の

 荒涼とした風の声。


――否、荒れているのは私のほうか。


 黒海臣は、めずらしく酒を酌んでいました。疲れを癒すためではない、愁いを忘れるための酒です。

 しかしどれほど杯をかたむけても、いっこうに酔えはしませんでした。

 手に、鼻に、はだや髪のひとすじに、いまだ血とあぶらの臭いがこびりついている気がします。呪いのごとき小夜比売の声が、幾度も耳によみがえるのです。


 貴方はきっと、この世の誰もいとおしめない。

 貴方は死ぬまで、他人ひとを愛せぬ御方です。


 そうやもしれぬ、と思いました。おのれは主君の御子を手にかけ、敵をほふり、いまはおのれの妻すらも殺めた身です。

 黒海臣は、殺すことでしか国を守れぬ男でした。そのように、つたないやり方しか知らぬ愚物でした。


――小夜比売様ならば、もっとよきすべをお持ちであっただろうか。


 死に際しても冷ややかさを失わずにいた、あの強き女人であれば。

 黒海臣などよりも、よほどすぐれたまつりごとを為したやもしれません。賢き大君となられたやもしれません。


――だが、もはや二度ふたたびと、小夜比売様のお心を聴くことはない……。


 胸のうちで呻きながら、ふたたび杯をかたむけたそのときでした。


「……黒海臣さま、」


 ひっそりとした衣ずれとともに、真木の声が近づいてきます。黒海臣は杯を置きました。


「真木どのか。こちらへ座りなさい」

「はい」


 真木は、黒海臣が勧めた円座へ腰を下ろします。その鼻先が、ついと酒のほうへ向いたようでした。


「お注ぎいたします」

「すまぬ」


 酒壺はそうから、濃い酒の匂いが立ちのぼります。黒海臣は杯を干し、飲み口を指で拭いました。その杯を真木へ差し出します。


「貴女は、酒はいかがか」

「では、ひと口だけ、頂戴いたします」


 黒海臣は真木に酒を注いでやりながら、乱での働きぶりをねぎらいました。


「こたびは、真木どのにも力を尽くしてもらった。よくやってくれた」

わたくしは、黒海臣さまのお役に立てれば、ただそれで……」


 真木はそこで、いちど酒に口をつけます。

 しかしすぐに杯を置き、改めて、かぶりを振ったようでした。


「……いえ。ほんとうは、お役に立つだけでは足りません。妾には、まだ、思うところが残っております」

「褒美でも欲しいか」

「違います」


 さらに首をふるような気配とともに、衣ずれが近づいてきます。

 熟した百合の花のような匂いに包まれ、黒海臣は、おのれが真木に抱きしめられているとわかりました。


「真木どの?」


 急いで身を引こうとしますが、真木はやわらかに黒海臣を封じ込めます。

 そうして、祈るように黒海臣へ乞いました。


「黒海臣さま。どうか貴方さまの哀しみを、妾にお与えください」

「……なにを、」


 口の中が乾きます。耳の奥で、心の臓がごうごうと音を立てているようです。

 真木はその鼓動すら呑み尽くそうとするように、黒海臣の頭をおのれの胸へもたせかけました。


「独りで、お行きにならないで。妾は黒海臣さまとともにまいります。まつりごとの重さも、死も、奥方を亡くされた哀しみも、妾は貴方さまの背負うすべてを、妾のものにしてしまいたい」

「――、」

「妾を、貴方さまの影にしてください。妾を抱いて、貴方さまの哀しみをここに注いで」


 真木は黒海臣の手を取り、みずからのむなまで導きます。

 まろやかなふくらみが、ぬくい熱を帯びて黒海臣の手に収まりました。生きている、こよなき力にあふれた女人のはだです。

 黒海臣はその膚をこすり、胸の底から、涙がせり上がるのを感じました。


――……ああ。


「真木どの。……真木」

「黒海臣さま」


 床にその身を横たえさせれば、真木は喜ばしげに黒海臣へしがみつきます。

 黒海臣は見えぬ目を閉じ、彼女のぬくもりにおのが身を預けました。いまこのときだけ、ひと夜だけと念じながら。



 翌日あくるひからも、黒海臣は高御座の部屋に座し続けました。

 まつりごとは、いかなときでも待ってなどくれません。臣下たちはますます黒海臣を恐れつつも、引きも切らずに訴えごとを持ってきます。


――黒海臣は、身内たる妻にすらも容赦せぬ男である。


 陰でそのように噂されていることを、黒海臣は知っていました。しかし、それで国が治められるのならばかまいません。

 ともすれば、こたびの乱をきっかけに、ほかの臣たちからも不満が出てこないとも限らぬのです。そうした反逆を防ぐには、容赦のない男と思われていたほうがよいのでした。

 そのように慌ただしい日を過ごしていた、七夜のちです。

 このときの黒海臣は、臣下のひとりと外宮のことについて話していました。

 先の乱で踏み荒らされた外宮は、戦でもっとも害をこうむった区画さかいです。駒も含め、すでに建て直しの兵団は遣わせていますが、まだいろいろと心配りの要るところでした。

 そこで黒海臣は、この外宮の扱いを話し合おうとしていたのです。

 向かい合う臣下は粟生あおのむらじといい、外宮のもりに当たっていた役人でした。


「小夜比売様の――黒海臣様のおやかたは、まことにこのまま、取り壊してしまってよろしいのですか?」


 粟生連が、こわごわと訊ねます。黒海臣は頷きました。


「かまわぬ。あの舘は阿多臣がたの根城であった場、戒めのためにもすべて壊し尽くしてしまうほうがよい」

「では、この先黒海臣様のお住まいは……」

「私ならば、いずこででも暮らせる。これまでもほとんど宮に寝泊まりしていたのでな」


 最後だけ、おのれを嘲るような苦みが滲んでしまいました。

 まつりごとに打ち込み、舘へ帰らなかったのは黒海臣です。そのせいで、小夜比売は阿多臣に近づいたところもあったのやもしれません。

 しかし粟生連は、むろん黒海臣の悔いなど知りえませんでした。はあと気の抜けた頷きを返し、次の話へ移ります。


「それでは、次に外宮の新たな区割りについてですが――」


 そのとき、外で騒がしい気配がしました。宮びとたちが狼狽し、誰かを止めようとしているような声もします。

 やがてその誰かが部屋へ飛び込んできました。


「黒海臣さま!」


 細蟹比売です。乱より救い出されてからずっと寝ついていましたが、いま飛び込んできたさまは息災な様子でした。

 粟生あおのむらじが畏まる横で、細蟹比売は足早に黒海臣の前へ立ちます。黒海臣はゆっくりと背を正しました。


「細蟹様、いかがなされましたか」


 おそらく乱のことであろうと思いながら、細蟹比売を落ち着かせるように問いかけます。

 比売は息をはずませ、形ばかり頭を下げました。


「申し訳ありません、黒海臣さま。まつりごとの最中に失礼をいたします。ですが、できればお人払いを」

「それは急がねばならぬお話ですか」

「いまこのときにも、身を削がれつつある人々がいるのならば」


 細蟹比売は、いたく焦れている様子です。おおよそ、糸くり婆から首謀者たちのことを聞かされでもしたのでしょう。

 黒海臣は顎に手をやり、どう説いたものかと考えました。粟生連が耳元でささやきます。


「なにやら、細蟹比売様は急を要されるご様子。私めはまたのちほど伺います」

「すまぬな。手数をかける」


 粟生連は、ていねいな礼を捧げて去ってゆきました。

 部屋は静けさに満たされ、細蟹比売の張りつめた気配だけがあざやかになります。黒海臣はひとまず声をかけました。


「お加減はもうよろしいですか」


 細蟹比売は落ち着かぬふうでありながらも、強いて国母らしくしようとするように座しました。


「はい、こたびはまことにありがとう存じました。駒にも助けられました」

「あれは細蟹様にお付けした護衛です。その務めを果たしたまで」

「そうですね。……ですからわたしも、わたしの成すべき務めを果たしに参りました」


 比売は、よもやまの話で席をあたためる気などないようです。

 いきなり斬り込んでくるような構えを見せ、黒海臣もそれに応じて膝をそろえました。


「……成すべき務め、とは」


 半ばは、その先のことばを見通しながら訊ねます。

 すると果たせるかな、細蟹比売は胸を張って切り出しました。


「阿多臣がたの兵たちのことです。いま、黒海臣さまは彼らの罪を問い、刑に処していっておられますね」

「ええ」

「その罪をゆるしてやっていただきたいのです。兵たちは阿多臣の手足となって動いただけ、ならば身を削がれるほどの罪に値するとは思われません」

「細蟹様」


 あまりにも考えたとおりのことばで、黒海臣は嘆息しました。


――細蟹様は、あかるのみこ様を産んでから、とみに強くなられたと思っていたが……。


 とはいえ、比売はやはりまだ、若いむすめだったのだと気づかされます。血の気に逸るさまは危うく、いまにも思いがけぬ方角へ走り出すやもしれません。

 黒海臣は師として、また年かさの者として渋く口を開きました。


「よろしいですか、細蟹様。まつりごとというのは、そうたやすく罪をゆるめたり放免したりできるものではございません。そのような勝手をすれば、民たちはつけ上がります。なれば大君の力が地に落ちてしまいます」


 噛んでふくめるがごとく、まつりごとのかなめを説きます。

 しかし細蟹比売は、きっぱりと首をふりました。


「それは違います。民の身と心を締めつければ、人々からゆとりが失せます。ゆとりのなさは人を疲れさせ、老いさせ、恐れと疑いを生み出すものです」


 あの小さかった比売が、なかなか言うようになったものです。

 黒海臣は思いがけず感心しながら、なおも実のむすめに言い聞かせるごとく語りかけました。


「たしかに、きびしさは人をねじけさせる面もございます。だがそれだからと言って、こたびの乱の罪を負わぬでよいということにはならない。この宮に、ひいては次代の大君であらせられるみこ様に向かって弓を引くなど、子が親を殺めるにひとしい重き罪です」

「……そうした理をこね上げて、黒海臣さまは人をお殺しになるのですね、」


 細蟹比売が低く呻き、黒海臣はふと口をつぐみました。

 比売は、まるで死者の国からよみがえってきた鬼のごとく座しています。戦で死した者たちの恨みを背負い、いのちを燃やしているかのような。

 細蟹比売は身を乗り出し、黒海臣へ掴みかかるようにして叫びました。


「なぜあなたは、さように憎しみを生み出そうとなさるのですか。人が人を殺めれば、遺された者は恨みます。恨んだものはおのれのあだを殺すでしょう、さすれば殺された者の縁者がまた相手を殺すでしょう。黒海臣さまがなさっているのはそういうことです、黒海臣さまはおのが身でもって、みなにとしていらっしゃる!」

「細蟹様」


 黒海臣は細蟹比売を呼びました。

 ですが比売は止まりません。罪を断じるようにこぶしを振り上げ、黒海臣を責め立てます。


「かがよひも、そのようにして死んだのです。彼はあなたに殺された。わたしはあなたを許せない。けれどあなたのそば近くにいるとつらいのです。あなたはみずから、孤独な道を貫こうとされているように見えるから。おのれを殺そうとしているように思えるから。どうしてあなたは、それほど死に近づこうとしているのですか……!」

「細蟹様ッ!」


 とっさに、黒海臣も叫び返しておりました。息が上がり、細蟹比売の腕を掴んだおのれの手までもが震えます。

 黒海臣の頭の中は、わけもわからずに乱れていました。


――私が死のうとしているだと? なぜこのむすめは、かようなことが言えるのだ……。


 しかも細蟹比売は、そうした黒海臣を見るのがつらいと言うのです。

 それではまるで、細蟹比売が、黒海臣の死を厭うているようではありませんか。比売にとっては、夫君の仇であるはずの黒海臣の死を。

 黒海臣は乱れていました。目の前が赤くほとばしるような昂ぶりの中、黒海臣はおのれを守るように言い返しました。


「お収めください、細蟹様。貴女様のおっしゃることはただの夢です。人を殺さぬまつりごとなどできません。おのれにとって最も必要なもののことだけを考え、あとはみな切り捨てなさい。さなくば国は守れない」


――そうだ、そうでなければ生き抜けない。私は他人ひとを愛せない。


 他人を、敵を、身内ですらも殺さねばならなかったのです。

 黒海臣は、さような生き方しかできぬのです。殺して、殺して、いつかあかるのみこが即位されたあかつきには、おのれでさえも殺し果ててしまいたいのだと。


――……そうか、


 そのとき、黒海臣は雪が融け落ちるように気づきました。

 あかるの王が長じるまでは、おのれは死ねぬと思っていました。狂うことも、倒れることも決してできぬと。

 されども、みこが大君となられたのちのことは、なにひとつ考えていなかったのです。

 否、国の行く末については案じていました。国をさらに栄えさせる策ならば、いくらでもあかるの王に奏上申し上げたでしょう。

 ですが、黒海臣が考える行く末の中には、おのれ自身のことがひとつも入っていなかったのでした。


――私は、罪に殉じてしまいたかったのか。耀日祇かがよひのかみ様を、小夜比売様をこの手にかけたという罪に。


 しんと、心が静まります。

 そんな黒海臣を見透かすように、細蟹比売がかすれた声で呟きました。


「それでも、……わたしはもう、誰にも死んでほしくない。あなたにも」


 そのことばは、黒海臣の深いところをおののかせます。

 それでいて、なぜか清水のようにはだの奥まで沁み込んでゆくのでした。


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