目弱児(まよわこ)のはなし 五



「……それにしても、おまえはいかにして駆けつけたのだ。この村へ着くのは明日ではなかったのか」


 目弱児は川へ身をひたしながら、あかときのみこをふりむくように問いかけました。

 王はほとりに座し、礼儀正しく背を向けている様子です。そうしてからりとした声で答えました。


「いや、そなたに会いたくてな。もともと帰りを急いでいたのだ。なかに伝令を走らせてからも、夜通しずっと走っておった」

「まさか、兵たちをすべて連れてか?」

「ひとまずは、おれやそば仕えの者たちだけだ。兵らには、ほどほどに追いつくよう申しつけてある」

「……それは、そばの者たちが憐れだな、」


 あのいそとかいう者も、きっとこの男に付き合わされたのでしょう。目弱児は嘆息しましたが、王はからからと笑うばかりでした。


「みな、おれの気ままには慣れているゆえな。なにということもなかろう」

「おまえな。ふり回すほうはそれでよいだろうが、ふり回されるほうは難儀だぞ」


 目弱児は水をはだにかけながら、あきれました。おのれも心を奪われたひとりとして、恨みがましい口ぶりとなってしまいます。

 ですが王は、思いのほか静かな声音で続けました。


「だが、こうして急いだがゆえに、そなたを助け出せたのだ」

「――……、」


 目弱児は、そのきまじめなさまに黙り込みます。王は歌うように続けました。


「それでな、夜通し走っているところを、そなたの村の者に出会うた」

「わたしの?」

「おう、そなたと同い歳くらいのおのこであったな。その者が必死の形相で駆けてきて、そなたが危ういと報せてくれた。それで磯良たちも置いて、おれひとりで走ってきたというわけだ」


 そうしたら目弱児が襲われていたので、剣で男たちの首を落としたというのでした。

 目弱児はそこまで聴き、もしやと思います。川から上がり、王のはおりをまとって訊ねました。


「おいおまえ。おまえが出会うた村の者は、わかとか名乗らなんだか?」

「さあなあ、名までは訊かなかったゆえ。が、いまは磯良たちとともにいるはずだから、身の危ういことはなかろう」

「……そうか、」


 目弱児は黙り込みました。

 不思議なことですが、おそらく小稚が、目弱児のために走ったのでしょう。あのおのこは、てっきり目弱児を苦しめたいのだと思っていましたが。


――あ奴は、そこまで落ちぶれてはおらなんだということか。


 そのように考えていると、王が待ちかねたような衣ずれをさせました。


「なあ、もうよいか? 衣も身につけたな?」

「……ああ、かまわぬ。こちらを見てもよいぞ」


 そう告げた途端に、うしろから男の匂いがかぶさりました。王は目弱児を抱きしめ、長々と息を吐き出します。


「間に合うてよかった。もしも間に合わなんだら、おれはあの者どもをなますにしていた」

「痴れたことを……。わたしなぞのために、そこまでする奴があるか」


 目弱児は、熱くなる耳を反らして吐き捨てました。しかし王は、ますます目弱児を抱き込みます。


「ここにいる。そなたのために走る痴れ者ならば、ここにいるぞ」

「――っ、」


 喉が、ひとりでに鳴ってしまいました。心の臓がどんどんと速さを増します。

 てのひらに汗が滲み、目弱児はそれを押し隠して王の手をはたきました。


「だから、おまえは烏滸おこだというのだ。わたしばかりかき乱しおって、くちおしい……」

「嫌か?」


 王の手が、少しだけゆるみます。

 きっと目弱児が嫌だと言えば、すなおに離れてゆくのでしょう。先ほどの下種げすどものように、無理を強いることはないはずです。


――そうだ、この男はわたしを犯さぬ。わたしはもう、この男を信じている……。


 その心のうつろいを認めるのは、身の引きちぎられそうなほどに恐ろしいことでした。おのれのすべてが、ばらばらにほどけて散り果ててしまいそうです。

 ですが目弱児は、唇を噛んで耐えました。

 耐え抜いて、この甘い苦みをおのれの中に飲み干しました。


「……嫌ではない。おまえ相手に、背を向けて逃げ出すほうが腹立たしい」


 身をひるがえし、両の手で男の頬を探ります。そうしてぶつかるように口を吸うと、みこも目弱児のうなじを捕まえました。

 唇を乗せられ、噛みつかれ、舌すらも引きずり出されて吸いつかれます。

 頭の中に霞がかかり、目弱児は背の骨を抜き取られたようにしどけなくなってしまいました。

 王は目弱児の唇から垂れた唾をぬぐい、嬉しげに笑います。


「戻ったら、口でも吸うてくれとおれは言うたな。いまこそ、その約定が果たされた」

「ふん。……この色狂いめ」


 目弱児は、小さく男の胸を叩きました。王はそのふるまいすらいものだというように、甘く含み笑いをします。

 そうして、目弱児の耳にささやきました。


「なあ、――もうよいだろう。そなたの名を教えてくれ」


 とろりと融けた男の声に、息の止まってしまうような心地がします。

 目弱児は熱のこもったため息をつき、王の背へ手を回しました。


「わたしは、……よわ。機織りの村の目弱児だ」


 そうすればあとはもう、その声すらも、くちづけの中に消えてゆくばかりです。

 目弱児は見えぬ目を閉じ、男のぬくみにみずからを預けました。



 男は、起きて衣を整えているようです。

 その衣ずれを耳にして、目弱児も目を覚ましました。夜露に濡れた草のしとねから身を起こし、乱れた髪をまとめます。

 あかときのみこは、気づいて目弱児をふりむいたようでした。


「おう、目が覚めたのか」

「……もう、夜は明けたか?」


 もしもみなが起き出してくれば、かような様子を見られるのは、たいへんなことになります。

 目弱児の問いに隠れた心を、みこはただしく読み取りました。


「案ずるな。まだ村は眠っている刻限だろう」

「そうか。わたしの住まいは……」

「そちらも磯良たちが追いついて、片づけておるであろうよ。そなたがあの家はもはや嫌だといえば、叩き壊すこともできようが」

「否、かまわぬ。そば仕えの者たちには、よく礼を述べておいてくれ」

「……、」


 目弱児のいらえに対して、王は唇を引き結んだようでした。

 それから、改めて目弱児に向き直ります。


「なあ、目弱児。そなたやはり、おれとともに来ぬか。おれの妻になれ」

「――、」


 目弱児も、王の前に膝をそろえました。こぶしを握り、首をふります。


「わたしは、ゆかぬ。おまえを厭うからではない。わたしはこの村の、機織りの女でありたいからだ」

「――……」


 こたびは王も、目弱児の心が固いのを察したようでした。ふかぶかと嘆息し、頭を掻きむしる気配がします。


「やはり、……そなたは頑なだなあ」


 ですがそのことばには、目弱児を甘やかすような苦い笑いが滲んでいました。王は思いきるように膝を叩き、すくと立ち上がります。


「わかった、こたびも退こう。だがおれはまた来るぞ、そなたに会いにやってくる」

「……もう、供の者たちを撒いてなどは来るなよ」


 目弱児はぎこちなく笑み、差し出された手を握りました。王はからからと声を上げ、目弱児の小言をかわします。


「そこは、前向きに努めよう」

「しようのない男だな」


 目弱児は男の腕をこづきました。王は目弱児の頬に手を添え、額へとくちづけます。


「女を恋うれば、男はしようがなくなるものだ。……ではな、」


 王はひらりと手をふり、目弱児から離れてゆきました。

 目弱児は、その足音が聞こえなくなるまで、耳をすませ続けます。そうして王が去ってから、深いため息をつきました。


――すまぬな、よ。わたしはおまえに偽りを言うた。


 あかときの王の手を取らなかったのは、決して、機織りの女でいたいからではありませんでした。

 目弱児ははだを重ねたそのときに、ふいと悟ってしまったのです。


――あの男は、おそらく、ひとところに留まれる者ではない。


 あかときの王を満たすには、女にしろ土地にしろ、ただひとつでは足らないのではあるまいか。

 目弱児は、男の心根をそのように感じ取ったのです。

 かのみこは、きっとこれからも戦うでしょう。

 東を平らげ、あるいは西や南にも下り、外へ外へと進んでゆくに違いありません。もしかしたら息の根の止まる瞬間まで、戦い果てるやもしれぬのです。

 そうした男が、ただひとりの女をいつくしみ抜くなどとは、とうてい思えぬのでした。


――たとえあの男が、わたしを都に迎えて囲うたとしても。下民のわたしでは、この子を守りきれぬやもしれぬ……。


 目弱児は、そっと胎に手をやります。

 確かなあかしはありませんが、目弱児はおのれが孕んだと感じていました。あかときの王の――すなわち大君の血筋につらなる御子です。

 王の御子ともなれば、男であれ女であれ、まつりごとの争いにさらされるでしょう。

 ともすれば、いのちが危うくなることとて、あるのではないでしょうか。


――そのくらいならば、わたしは独りでこの子を産む。あの男と交わしたえにしを、おのが手で育ててみせる。


 そう考えて、目弱児はあかときの王の手を離したのでした。

 たとえ偽りを述べてでも、王の御子を守るために。


――ゆえに、よ。おまえはもう、ふりむくな。わたしのことなど忘れ果て、外へ外へ駆けてゆけ。


 目弱児は胎を抱え、その場に立ち尽くします。

 その髪を、衣を風がさらってゆき、漠々とした野の向こうまで通り抜けてゆきました。


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