黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十八
月日は、またたく間に過ぎてゆきました。
日々のまつりごとに加え、あかるの
黒海臣はその支度にかかりきりとなり、駒や細蟹比売と話し合うことが多くなりました。
そうなれば、ますます寝所に戻るどころではありません。真木のことは気にかかりながらも、つい忙しさにまぎれて置いていました。
そのようにして、立太子礼が三日のちに迫ったころです。
黒海臣は、細蟹比売の部屋へ向かっていました。立太子礼の次第について、比売と打ち合わせねばならないことが出てきたためです。
正殿から南へ下り、比売の部屋近くまでやってきます。
しかし黒海臣は、そこで歩みを止めました。部屋の中から、なにか蹴倒すような烈しい音が聞こえたためです。
「おまえ、……なにを
どうやら、糸くりの婆が細蟹比売を責めているようです。
助けに入るべきかと迷いましたが、比売は思いがけず強い声で抗いました。
「ちがいます。
――細蟹様は、もしや婆どのを、村へ帰らせようとしているのか。
黒海臣はそう考え、戸の陰に隠れます。つかの間の沈黙があり、やがて婆が嘆息しました。
「……おまえは、愚かなむすめよの、」
「はい」
細蟹比売は頷きましたが、みずからを恥じるふうはありません。
その落ち着きに、婆も折れざるをえなかったようです。荒々しく座り込む音が聞こえ、婆が絞り出すように呻きました。
「まったく、……大君の一族は厭わしい。つねに儂の心の臓を抉ってゆく……、」
「おばあさま?」
おや、と黒海臣も眉を上げます。
婆が大君を、とりわけ
黒海臣はふむと顎に手をやりましたが、途端に、婆が比売を叱りつけました。
「その呼び方をするでない! もうおまえは国母なのじゃ、ならばそれ相応のふるまいをせよ」
「はい」
細蟹比売が、あわてて背を正す気配がします。
それから、あたりを払い清めるような衣ずれが響きました。
「機織り
「……ええ。よろしく、頼みます」
細蟹比売のいらえには、少しの間がありました。
それでも、凛とした声音は変わりません。その様子に、婆もうむと頷いて立ち上がったようでした。
「死ぬるなよ」
「――」
婆が部屋から出てきます。戸の閉じられる音がしたあと、陰に立つ黒海臣へ気づきました。
「……この気配は、黒海臣か。見上げたふるまいじゃな」
婆は、皮肉らしく笑んだ声でささやきます。黒海臣はすなおに無礼を詫びました。
「申し訳ない。お話を伺うつもりはなかったのですが」
「ふん。口ではどうとでも言えような」
つねと変わらず、婆は強い口ぶりです。黒海臣はその
「しかし、よろしかったのですか。途中からしか聴いておりませんでしたが、村へ帰るように言われたのでは」
「では嫌だと言うて、おまえが取りなしをしてくれるのか?」
婆は吐き捨てるように問い返しました。黒海臣は苦く笑みます。
「さて。
「それよ。……あれはもう、子の母じゃ。そして国の母でもある。儂がとやかく口出しできる歳は過ぎた」
婆はちらりと、見えぬ目を部屋へ向けたようでした。
中からは、比売のすすり泣く声が聞こえてきます。むせぶのをなんとか耐えようとしている、いたわしい声音でした。
婆のたたずまいに、雨夜のごとき翳りが差します。それでも婆は、愁いをふり払うように続けました。
「なればもはや、儂の為すべきは離れること。近くにおっては、かえって
そのように言い切る婆は、さっぱりとした冷たさに満ちていました。愁いも苦みも、すべてを乗り越えてきた人のことばです。
黒海臣は、改めてこの年かさの女人に対して、こうべを垂れたくなりました。
「婆どのの御ありかたには、敬服いたします」
「ふん」
黒海臣が畏まっても、婆は鼻を鳴らすだけでした。足早に歩き出し、ふりむかぬまま言い残します。
「あれを守れよ、黒海臣よ。それがあれを縛りつける、おまえの責じゃ」
黒海臣は、黙って頭を下げました。
そしてそれから、戸の向こうにいる細蟹比売へ呼びかけます。これからの国の行く末を、ともに進む
「……細蟹様」
その声は黒海臣自身にも、ひと足を踏み出す力をもって響きました。
立太子礼の夜の宴は、長く続いていました。
宮びとたちは、あかるの
黒海臣は宴を差配する役として、膳や催しの指図にせわしなくしています。駒も酒壺や
ですが
宴の席は乱れ果て、起きている者も大いびきをかいている者も、誰が誰やらわからぬ有様になっていました。
そこでようやく、黒海臣も腰を落ち着けます。すぐさま、横から杯が差し出されました。
「やあやあ黒海臣様、ご苦労様でございます。どうぞひと差し」
これは、
連は酔っているらしく、いつもの物怖じもすっかり忘れた様子でした。黒海臣へ酒を注ぎ、ほがらかに祝いを述べます。
「細蟹比売様とのこと、まことにおめでとうございます。あかるの王様のこともですが、実にめでたい」
「かたじけない。私には過ぎた縁組みではあるが」
「なにを仰せられますか! そうしたご遠慮はつまらぬことですよ」
連は高らかに笑い、黒海臣の肩を叩きました。
黒海臣は、黙って頭を下げるだけにしておきます。連はなおも機嫌よく、黒海臣と肩を組んで話しました。
「ですがまあ、私めからすれば、羨ましい限りでございますね。いまや黒海臣様の
その卑しい含み笑いが聞こえた瞬間、黒海臣は杯を地へ叩きつけていました。
土の割れる音が響き、あたりも静まり返ります。黒海臣は、連の腕を鋭くふり払いました。
「私を
「――っひ、」
連が息をのみ、周りもしんと凍りつきます。
いまにも張りつめた糸が切れそうな中、ふいに、男女の言い争う声が近づいてきました。
「
「おい、しゃんと歩かぬか! ――黒海臣様!」
その呼びかけは、まぎれもなく駒のものでした。黒海臣は急いで駆けつけます。
「駒、いかがした! ……連れているのは、まさか真木か?」
女人は――真木は、駒の腕の中でなにか喚きながら暴れていました。
尋常でないその様子に、黒海臣の背がぞっと冷えます。駒は真木を抑え込みながら叫びました。
「そうなのです! 細蟹様が、おそらく北の泉に御みずからの身を――!」
「何!」
周囲がどよめき、雪崩れるように取り乱し始めます。黒海臣は彼らを叱りつけ、ただちに兵を北の泉へ向かわせました。
細蟹比売の亡骸が引き上げられたのは、それからほどなくしてのことです。
宮は宴どころではなくなり、深い驚きと嘆きに包まれました。黒海臣そのものも、いまだ信じられぬ心地がします。
――なぜ、……なにゆえに、こうなった。
泉にあった細蟹比売の亡骸は、雪のごとく冷えていました。
黒海臣はその死を
駒は畏まり、悔いる声で語り始めます。
「宴がひと息ついたころ、わたくしは、細蟹様のお姿がその場にないようであると気づきました」
そこで周囲に声をかけ、細蟹比売の行方を訊ねて回ったそうです。
そのうちに、女官のひとりが、真木と話しているところを聴いたと告げてきました。そこで女官の示すとおり、南へ足を向けてみたところ――
「真木と細蟹様が、回廊のさなかで争っていたのです。真木が小刀かなにかを持っていたようなので、急いで止めに入ったのですが……」
細蟹比売からは、すでに血の臭いがしていました。
ですが比売は、助けようとする駒をふりほどいて、こう叫んだというのです。
「真木は誰も刺していない、わたしは誰にも殺されていない、と。そしてそのまま、わたくしがお止めするいとまもなく――」
細蟹比売は、信じがたいほどの強さで走り去っていったのでした。
すなわち、北の泉があるほうへと。
駒は真木を捕まえるのに精いっぱいで、どうにか引きずって、宴の場まで戻ってきたというわけです。
黒海臣はそのあらましを聴き、呻きました。
「……そうか、」
――おそらく、真木はほんとうに細蟹様を刺したのだろう。
しかし、
――ゆえに、みずから泉へ身を投げた……。
そこまで考え、黒海臣はふるえる唇を噛みしめました。駒は手をついて黒海臣に謝ります。
「申し訳ございません、黒海臣様。わたくしは細蟹様をお守りできませんでした。この償いはわが首で――」
「――駒ッ?」
すらりと剣を抜き放つ音がし、黒海臣はとっさに駒の頬をぶちました。
剣が転がり、黒海臣の息だけがせわしなく響きます。黒海臣はひざまずき、駒の頬に手を添えました。
「……細蟹様をお守りできなかったのは、私の責だ。お前に
「黒海臣様、」
駒はなにかを口にしかけ、しかしすぐに黙り込みます。
黒海臣は、激しく歯を食いしばっておりました。そうでもせねば、とほうもない憤りが腹の底から噴き上がりそうなのでした。
――私が殺した。……私が愚かなばかりに、細蟹様を殺めたのだ!
細蟹比売だけではありません。
おのれはまことに、殺すことしか知らぬ
「……駒。糸くりの婆どのを、呼び戻しに行ってくれ、」
黒海臣は、呻きながら駒の肩を掴みました。
婆は三日前、機織りの村へ戻っています。ですがまさか、このまま報せぬわけにもゆきません。
その遣いとして発ってくれと命じると、駒はすぐさま礼を取りました。
「畏まりました。すぐにお連れ申し上げます」
「頼む」
駒は黒海臣の背をさすり、風のかき消えるごとく去ってゆきました。
残された黒海臣は、床へ転がった剣を手に取ります。それをおのれの喉にあてがい――やがて力なく下ろしました。
――私はまだ、生きねばならぬ。
国を守るそのために。あかるの
あかるの王が大君となられるときまでは、黒海臣は、いかにしてでも生き抜かねばならぬのです。どれほど歪んだ、闇ふかき道を歩もうとも。
「くらひこ様、……」
黒海臣は、小さく潰れた声で呟きました。
すがるように、祈るように。かつての主君のその御名を、ただひとつの
その後、真木は黒海臣の子を孕んでいることがわかりました。
狂い果てた真木を
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