潮織りの比売(ひめ) 十七
阿多臣
また、女官のとがのも、里に帰されるだけで収まりました。
とがのは進んで
あとからそうした
宮びとたちは、細蟹の嘆願が兵やとがのを救ったのだと噂しました。細蟹はいつくしみ深き
年が明け、あかるの立太子礼もあと半年ほどに迫ったころです。
宮では乱の始末がつき、焼け崩れた倉や工房もきれいに建て直されておりました。すがすがしい
どこからともなく梅の香がただよい、
しかし細蟹は、黒海臣と
「近ごろ、宮のうちで高まっている声のことをご存知ですね」
「はい」
細蟹は慎重に頷きました。
細蟹にとってはとんでもない、悪い夢としか思えぬ声です。ですが黒海臣の出方がわからぬうえは、まだ不要なことは言わないほうがよいと考えていました。
黒海臣は嘆息し、立てていた膝を組み替えたようすです。そうして考え込むように呟きました。
「宮びとたちの望みは、人の道としていかがかと思われるものですが……」
「ええ」
「だがしかし、……一方では、理にかなった面もあるかと考えています。あかるの
「――、」
細蟹は息をのみました。
心の臓が早鐘を打ち、てのひらに汗が滲みます。黒海臣はそうした細蟹の揺らぎを聴き逃すまいとするように、硬い居ずまいのまま続けました。
「細蟹様には位の高い、たしかな後ろ盾がいらっしゃらない。逆に
黒海臣はいちどことばを切ったあと、腹からふり払うように言いました。
「臣を、細蟹様の婿としてお迎えいただきたいのです」
そのことばは、飲み込めぬ石のように細蟹の中をすべり落ちます。
細蟹のからだは
黒海臣が細蟹の婿となり、あかるの後見として国に立つ――。
これが、宮びとたちの間に高まっている声なのでした。
すぐれたまつりごとを為す黒海臣と、いつくしみ深き国母である細蟹。ふたりが結びつけば、国はきびしさとあたたかさを備えた、こよなき地になるのではないかと言うのです。
宮びとたちは、決して表立ってその願いを口にしたわけではありません。それでも、ひそかなささやきは細蟹たちの耳に届いていました。
「すぐに答えを、とは申し上げません。おおやけにするとすれば、あかるの
そのときまでに心を決めてほしい、と黒海臣は告げました。細蟹は頷くことも、拒むこともできずに黒海臣の前を辞しました。
――そのような、むごいこと……。
おのれの部屋へ戻りながら、細蟹の足は重くなります。
細蟹の
そうした身でほかの夫を迎え入れるなど、
ですが同時に、細蟹は冷ややかなまなざしでおのれを見つめてもいました。
――たしかに、わたしには力がない。あざやかな知恵も、兵士のような雄々しさも、尊い生まれも。
それはあの乱のとき、身に染みたことでした。
少しまつりごとを学んでみたところで、まことに国を動かせるだけの力を得たわけではありません。細蟹ひとりでは、籠められた部屋を抜け出すことすらできなかったのです。
かように弱き身で、あかるを守っていってやれるでしょうか。おのれに力がないのならば、力ある者へ取りすがるのも、ひとつの力とは呼べぬでしょうか。
――そして取りすがるとしたら、黒海臣さまのほかにはない。
あとはみな切り捨てなさい、と断じた声が、耳の奥によみがえります。
黒海臣の、きびしい強さ。独り耐え続けているようなうら哀しさ。黒海臣は誰よりも強く、しかしさびしい人なのでしょう。おのれの妻すらも手にかけて、そうすることでしか国をいとおしめないのです。
そのさびしさを思うとき、細蟹は彼を捨てきれません。しくしくと後ろ髪を引かれるようで、胸を掻きむしりたいような、とほうもなく泣き出したい気持ちになるのです。
――わたしはきっと、黒海臣さまを憐れんでいる。たいそう無礼なことだけれど……。
そう細蟹が胸元を押さえたとき、かろやかな足音が回廊を渡ってきました。
「かあさま!」
あかるが足に飛びついてきます。そのあとを女官が焦った声で追い、細蟹に気づいて礼をしました。
「申し訳ございません、細蟹さま。あかるの王さまが、どうしても細蟹さまをお迎えにあがりたいと……」
「ええ、わかっているわ。あかるがそう、わがままを言ったのでしょう」
細蟹はかがみ込み、あかるの頭を撫でながらたしなめました。
「あかる、周りの人を困らせてはいけないわ。みなは目が見えぬのだから、あなたが勝手をすればひどく心配するのよ……」
「ん!」
そう言うそばから、あかるはなにかを細蟹に差し出しました。
突き出すように渡されたそのものから、はなやいだ梅の香りがただよいます。どうやら満開の梅が
あかるはそれを示して、明るく笑んだ声をしました。
「かあさま、おめめ、ないよ。おはな、におい、かあさまみえるよ」
見えねども、香りは嗅げる――あかるはそう言って、清水のごとく涼やかに笑うのです。
そののびやかさ、限りない健やかさ。あかるは光そのもののような力に満ちて、細蟹の愁いを包み込んでくれるのでした。
「――ああ、……」
細蟹は唇をわななかせ、あかるを胸に引き寄せます。そうしてしがみつくように、その背をかき抱きました。
――あかる。……わたしの、そしてこの国の新たな光。あなたを守るそのためならば、わたしはわたしの大切なものだけを選び取ろう。
黒海臣がそうしたように、おのれもまた。
細蟹はひりつく思いを胸に秘め、あふれるものを噛みしめました。
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