潮織りの比売(ひめ) 十九
あかるの立太子礼は、涼やかな秋の
衣は、明るいしののめ色の
帯は細蟹が織りました。こちらは春風をあわく染め上げたような、清々しい
庭にはこがねとしろがねの大楯が
居ならぶ臣下たちが
あるはずもない春の花すら高く香り、
「ああ……」
「あかる様」
「国にあたたかな夜明けをもたらす、あかるの
誰からともなく、ふたたび地に叩頭み伏します。その衣ずれがさざ波となって、まことに夜明けの潮が満ちてきたかのようでした。
細蟹はその晴れがましい儀を、高御座のすぐそばで聴きました。国母として、皇子の隣に配された御台です。
細蟹の中には、さまざまな思いがぶつかり、せめぎ合っておりました。
――なんと立派な王になって。
――かがよひが生きていたら、どんなふうに言うかしら。
――けれどもこれから、あの子は険しい大君の道を歩むのだわ。
――わたしの道も、ここから別に分かたれてゆく……。
胸のつぶれるような気持ちでいると、かたわらに立つ黒海臣が声をかけました。
「細蟹様」
「……はい」
よろしいですか、という問いかけだとわかり、頷きます。
黒海臣は礼を取り、御台の陰から進み出ました。ろうろうと声を張り、ここで立太子礼の儀が終わること、引き続き報せがあることを述べます。
そして黒海臣が、細蟹とおのれとの新たな結びつきを宣しました。
「
とたんに、宮びとたちがわっと沸き立ちます。誰かがことほぎの歌をうたえば、みながそれに和しました。
「ほしみつ 常夜の国に あらたしき 世の始め立つ くはし日に いや栄え増す うまし日に……」
よき日、よき
しかし細蟹は、そう祝われれば祝われるほど、独り遠ざかってゆくようでした。夜の青雲が星から離れ、空から離れて消えゆくように、しんしんとした気持ちになります。
――これは、かつてのわたしの孤独。
幼いころ、機織りの村で村人たちと隔たっていた日のように。
細蟹はいま、もういちど独りきりの道を踏み出したのだと思いました。そしてこたびの孤独には、もう連れ添うべき夫君はいないのだとも。
宴は
あかるが正式な世継ぎとなり、また黒海臣が細蟹に婿入りしたことを祝う宴です。常ならばひっそりとしている宮も、この夜ばかりは明るくにぎわっておりました。
笛や太鼓が鳴りとどろき、誰かが歌い、誰かが舞います。酒や山海の
夜がふければ、宴のあるじが抜けても誰もかまわなくなります。
あかるは女官の手で、寝所に連れていかれました。細蟹と別れる前に、いとけない声で休む挨拶をしてゆきます。細蟹はいつものとおり、ほほ笑んでそれに答えました。
そうしてあかるを送っていると、別な女官が細蟹のそばに寄ってきます。
「細蟹さま」
そのかぼそい声を聴き、驚きました。あかるを産んでからというもの、ほとんど見かけなくなっていた女官だったからです。
「……
名を呟くと、相手は礼を取るような衣ずれをさせました。
「ご無沙汰しております、細蟹さま。おそば近くお仕えできず、近ごろとんと失礼をいたしました」
「ああ、ほんとうに真木なのね……。いいのよ、あなたは息災でいた?」
「はい」
真木は頷き、いっそう畏まります。細蟹は会えたことを喜びたく思いましたが、真木はそれを遮るように告げました。
「恐れながら、黒海臣さまのご命でお迎えにあがりました。寝所をお支度申し上げておりますので、
「黒海臣さまの?」
思わず、宴の席に顔を向けます。
宮びとたちが浮かれ騒いでいる中には、黒海臣の静かな声も混じっていました。彼がこちらを気にしているふうはありませんが、ひそかに真木へ命じていたものでしょうか。
――黒海臣さまは、わたしをまことの妻とするおつもりなのかしら……。
この道を進むと決めたときから、細蟹は身を奪われる覚悟もしていました。
ですが、黒海臣とは父とむすめほども歳が離れています。黒海臣そのものも、これまで細蟹に色めいた目を向けたことはありませんでした。
ですから、てっきり黒海臣は、ただ飾りの妻として細蟹を求めたのだと思ったのですが。
――とはいえ、望まれるならば、務めは果たさねばならないわ。
仮にも縁組みをした仲なのですから、このくらいのことで怯んではいられません。
細蟹は口を結び、真木に向き直りました。
「わかりました。真木、ありがとう。寝所までの
真木は黙って、ふかぶかと頭を下げたようでした。
ひたひたという足音だけが響いています。
細蟹は真木に導かれ、糸縄にすがって歩いていました。真木は正殿を出、南へ向かう回廊を渡り始めたようです。
気が張りつめているせいか、その道のりはとほうもなく長いように感じられます。喉が干上がり、細蟹は固い唾を飲み込みました。
ひたひたと。
ほとほとと。
くねる山道をひたすらかき分けるような道ゆきのうちに、細蟹はふと、真木がどこへゆこうとしているのか気づきました。
――もしかして、
いま、足の向いている方角に覚えがあるのです。
かつて細蟹も使ったことがある、かがよひのおかあさまが住まった部屋。真木は細蟹を、そこへ案内しようとしているのではないでしょうか。
――夕生比売さまのお部屋は、大君の正妻が住むところ。国母のわたしが連れられても、不思議はないけれど……。
ですが、細蟹はなにか引っかかるものを感じました。近づいてきた小川のせせらぎが、かん高い鈴の音を転がしたように聞こえます。
「真木……、」
細蟹はその場に立ち止まってささやきました。
するとその直後、真木が細蟹を抱きしめたかに思われました。ふわりと真木の匂いがし、たおやかな身に似合わぬ重みが細蟹へのしかかります。
「――え?」
一瞬、時が凍りつきました。
それからぱっと脇腹が熱くなり、焼いた石をめり込ませたような痛みが走ります。その痛みに息を吸った瞬間、真木が吼えました。
「黒海臣さまの、御ために――!」
ふたたび躍りかかってくる気配があり、細蟹は思わず身をひねります。
しかし真木は、死にもの狂いでしがみついてきました。雄叫びとともに何か――どうやら刃が振りかぶられ、細蟹の腕や
細蟹はそれを止めようともみ合いになり、その中ではらりと目隠しが外れました。
「……あ、」
幾年かぶりに目の前が
真木は髪をふり乱し、取り憑かれたように肩で息をしています。その片手が、みずからの胎をかばうように押さえました。
それで細蟹は、ふいにすべてを悟ります。
――ああ、
おそらく真木は、黒海臣の子を孕んでいるのです。
そしてそれゆえに、真木は細蟹を襲ったのだとも。
「――うアアアァッ!」
真木が斬りかかり、細蟹が避け、しかし避けきれずに背を刺されました。身が引きつれたように跳ね踊り、胸の奥から血の臭いがこみ上げてきます。
そのとき、回廊を追ってきた誰かがしゃにむに割り込みました。
「細蟹様ッ!」
駒の声です。駒は真木を押さえつけ、彼女の手から刃を叩き落としました。
「汝ッ、なにをしているのだ! 気でも狂ったかッ!」
「狂ってなどおりませぬッ! 妾は黒海臣さまの御ために……!」
「とにかく来い! 黒海臣様の裁きを受けよ――」
駒は片手で真木をひねり、もう片手で細蟹を救おうとします。
細蟹様、と必死の形相で呼びかけられ、しかし細蟹はとっさにかぶりを振って逃れました。
「いいえ、いいえ! 違うわ、真木は誰も刺していない、わたしは誰にも殺されていない――!」
それはまことに、ほんとうにとっさの動きでした。
細蟹は考えるよりも先に駆け出しました。駒がうしろで叫びます。ですが細蟹はふりむく間もなく、血の流れ出る背と腹を抱えて走りました。
――……痛みなど……、
痛みなど、もはや何ほどのこともありません。
ただ目の前が痺れ始め、手足が重くなってきます。息が乱れて震えます。いのちの元が、留まることなくこぼれ去っていっています。
細蟹にはまざまざとそれがわかり、目に涙がにじみました。
――あかる。……ごめんなさい。
細蟹はもう、あかるの隣にはいてやれません。国母になると誓ったのに。わが子を守るのだと決めたのに。
そう思えばはらわたが千切れそうなほどに悔しく、あとからあとから涙があふれ出してきます。
――けれど、わたしは真木を罪びとにしたくはない。
そのためには、いまここで細蟹が細蟹そのものにとどめを刺すしかないのです。
駆け続けるうちに、滾々と湧く北の泉が見えてきました。泉は、星明かりの下でなめらかな銀色に澄んでいます。
細蟹は息を吸い、その泉へ身を投げ出しました。
大小の泡がきらきらと舞い上がり、満天の星を散らしたようにかがやきます。まといつく血の帯すらも、その銀河のひとつであるかのようなうるわしさです。
細蟹は水のおもてを仰ぎ、恋しい
――あなたさま。……かがよひ、
いまからそちらへ参りますと、そう呟いた声は声になりませんでした。
そうして、細蟹は暗い水底に融け落ちてゆきました。
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