潮織りの比売(ひめ) 十六



 細蟹は七夜ほど寝込みました。

 熱に浮かされて見る夢は、いずれも息のつまるようなものでした。

 たとえばあかるを抱き、いくさから逃げる夢。しかし火と煙の中を駆けずるうちに、あかるは細蟹の胸で押しつぶされておりました。

 あるいは、ばばさまが首を斬られる夢。土気色をしたばばさまは、血まみれの怒りの形相で目を閉じておりました。

 またあるいは、かがよひがおのれのはらわたを食らう夢。黒海臣が手足を失くして這いずる夢。とがのが、駒が、宮びとたちが火に焼かれ、もだえ苦しんで死にゆく夢。

 細蟹は身を削られるようにして眠り、呻き、汗みずくになって飛び起きました。


「――ああ!」


 息を吸い込むとともに激しくむせます。

 と同時に、脇からいとおしいぬくもりが抱きついてきました。


「かあさま!」


 あかるの声です。控えていた女官もその声に気づいたらしく、あわてて薬師を呼びに行ったようでした。

 とたんに周囲が騒がしくなりますが、細蟹はひたすらにあかるの手足をたしかめます。


「あかる、あなたは無事なのね? なんともないわよね?」

は、ない! かあさま、いたい? いたいないよ?」


 あかるは、細蟹の怪我をさすって治そうとしてくれます。その手も指もどこも欠けていないとわかり、安堵で崩れ落ちそうになりました。


「ああ……」

――ああ、天の星々よ。


 ぬかずくように祈りを唱えていると、薬師と幾人かの女官がやってきました。

 薬師は細蟹の手をとり、具合を診てくれます。その見立てを待ちながら、女官たちに宮のようすを訊ねました。


「みんな、なにごともなく済んでいる? 困ってはいないかしら?」

「はい。倉や技人わざひとたちの工房が少々焼けたのを除けば、大きな禍はなく収まっております」


 そのことばに、細蟹は身を乗り出しました。


「工房が? 文目あやひとたちの住まいはどうなったの?」

「案ずるな、あやつらも住まいも無事じゃ」


 ふいにいかめしい声が割り込み、地をすような足音も入ってきました。細蟹は顔を上げます。


「……おばあさま」

「その声のさまからすれば、からだは落ち着いたようじゃな」


 ばばさまは座り込み、細蟹の頬に手を伸ばしました。

 かつて幼かったころですら、このように触れられたことはありません。細蟹はむずがゆくも、どこか安らいだ気持ちで頷きました。


「はい。おばあさまも息災で、なによりでした」

「ふん、黒海臣のやつが儂を老いぼれ扱いしおったのでな。真っ先に逃げさせられたわ」


 ばばさまはそう吐き捨て、あかるを抱きとってあやしました。

 細蟹は小さく笑みを浮かべたあと、居ずまいを正します。そうして、気になっていたことを問いました。


「こたびの乱、首謀者たちはどうなりましたか」

「――」


 ばばさまが、鋭く見えぬ目を向けてくる気配がします。

 すると横から、女官や薬師たちが口を挟んできました。まだ怪我も癒えておらぬのにと言うのでしたが、ばばさまが彼女らをいさめます。


「止めるな、こやつは国母じゃ。知る務めがある」

「ではございますが、しかし……」

「甘やかすでない!」


 ぴしりとむちを振るうような声が飛び、薬師たちはたじろいだようでした。

 あかるは周りを見回しながら、思慮ぶかく大人たちを窺っているようすです。察したばばさまが女官のひとりを呼びました。


みこを連れてゆけ」


 応じた女官とあかるが去り、あたりに静寂が戻ります。そこでばばさまが、床を払うような衣ずれを立てました。


「首謀者たる阿多臣あたのおみ、そして小夜比売さよひめは煮えたくろがねを飲ませたのち首斬り。阿多にくみした兵どもも捕らえられ、順々に文身いれずみや鼻削ぎの刑に処されていっておる」

「――……、」


 細蟹は唇を噛みました。やはり、と腑の底が沈みます。

 そのままほとばしりそうな憤りをこらえ、重ねて呻くように問いました。


「黒海臣さまが、その裁きをなさったのですね」

「そうじゃ。あの男がすべてを仕切り、宮を救った。そして罪人どもを手にかけておる」


 その瞬間、細蟹は跳ね起きるように立ち上がりました。

 とたんにふらついたものの、かまわず手探りで部屋を出ようとします。女官たちが取りすがってきましたが、細蟹はきびしく彼女らを拒みました。


「おやめなさい。わたしは黒海臣さまの元へ参ります」

「ですが細蟹さま……、」

「こたびの乱は、わたしにこそ関わりのあることです。わたしが行かねばならぬのです」


 細蟹はそれだけ言い置き、さっと身をひるがえしました。

 あとから女官たちの声が追ってきますが、それもじきに遠ざかります。細蟹はふつふつとたぎる胸を抱え、ふるえる顎を上げました。


――黒海臣さま。……あなたはそうして、また憎しみの道を歩まれてゆくのですか。


 その道はたいそう孤独な、凍えそうなほどにさびしいものです。

 細蟹のまぶたの裏には、足を引きずるようにして道を踏む男の姿が浮かんでいました。

 

 

「黒海臣さま!」


 細蟹はぎょっとする宮びとたちをしりに、たかくらの部屋へ飛び込みました。

 その場では、黒海臣と別な臣下が話し合いをしていたようです。臣下のほうはすぐさま畏まりましたが、黒海臣はゆっくりと背を正しました。


「細蟹様、いかがなされましたか」

「申し訳ありません、黒海臣さま。まつりごとの最中に失礼をいたします。ですが、できればお人払いを」

「それは急がねばならぬお話ですか」

「いまこのときにも、身を削がれつつある人々がいるのならば」


 そう言い切ると、黒海臣はおおよその用向きを悟ったようでした。

 ふむと考え込むそぶりがあり、察した臣下がなにごとかささやきます。黒海臣もそれに答え、やがて臣下のほうが部屋を下がりました。

 戸が閉じられ、あたりは張りつめた気に満たされます。まず黒海臣が問いかけました。


「お加減はもうよろしいですか」

「はい、こたびはまことにありがとう存じました。駒にも助けられました」

「あれは細蟹様にお付けした護衛です。その務めを果たしたまで」

「そうですね。……ですからわたしも、わたしの成すべき務めを果たしに参りました」


 細蟹は挑むようにこぶしを握り、黒海臣へ顔を向けました。

 すう、と青い炎のような芯が揺らめき、ふたりの間に横たわります。それを受けて、黒海臣も剣をかまえるような居ずまいをみせました。


「……成すべき務め、とは」

「阿多臣がたの兵たちのことです。いま、黒海臣さまは彼らの罪を問い、刑に処していっておられますね」

「ええ」

「その罪をゆるしてやっていただきたいのです。兵たちは阿多臣の手足となって動いただけ、ならば身を削がれるほどの罪に値するとは思われません」

「細蟹様」


 黒海臣は嘆息しました。それから、父がむすめへ言い聞かせるような口ぶりをしてみせます。


「よろしいですか、細蟹様。まつりごとというのは、そうたやすく罪をゆるめたり放免したりできるものではございません。そのような勝手をすれば、民たちはつけ上がります。なれば大君おおきみの力が地に落ちてしまいます」


 噛んでふくめるような物言いに、細蟹はきっぱりと首をふりました。


「それは違います。民の身と心を締めつければ、人々からゆとりが失せます。ゆとりのなさは人を疲れさせ、老いさせ、恐れと疑いを生み出すものです」

「たしかに、きびしさは人をねじけさせる面もございます。だがそれだからと言って、こたびの乱の罪を負わぬでよいということにはならない。この宮に、ひいては次代の大君であらせられるみこ様に向かって弓を引くなど、子が親を殺めるにひとしい重き罪です」

「……そうした理をこね上げて、黒海臣さまは人をお殺しになるのですね、」


 低く呻くと、黒海臣は鼻白んだふうに口をつぐみます。細蟹は唇を噛み、掴みかかるようにして言いました。


「なぜあなたは、さように憎しみを生み出そうとなさるのですか。人が人を殺めれば、遺された者は恨みます。恨んだ者はおのれのあだを殺すでしょう、さすれば殺された者の縁者がまた相手を殺すでしょう。黒海臣さまがなさっているのはそういうことです、黒海臣さまはおのが身でもって、みなにとしていらっしゃる!」

「細蟹様」

「かがよひも、そのようにして死んだのです。彼はあなたに殺された。わたしはあなたを許せない。けれどあなたのそば近くにいるとつらいのです。あなたはみずから、孤独な道を貫こうとされているように見えるから。おのれを殺そうとしているように思えるから。どうしてあなたは、それほど死に近づこうとしているのですか……!」

「細蟹様ッ!」


 いつしか細蟹はほんとうに黒海臣の膝へ乗り出し、腕を取られて止められました。

 黒海臣の手はふるえています。黒海臣は痛いほどに細蟹の腕を握り、おのれを押し殺すような声で言いました。


「お収めください、細蟹様。貴女様のおっしゃることはただの夢です。人を殺さぬまつりごとなどできません。おのれにとって最も必要なもののことだけを考え、あとはみな切り捨てなさい。さなくば国は守れない」


――……ああ、


 そのとき、細蟹は雨滴が地へ落ちるように悟りました。

 黒海臣は、きっと常にこのようにして生きてきたのです。おのれでおのれの心を削ぎ、大切なものをつくらぬように目を背けて。

 そうしてみずから、鬼になることを科したのです。人々の仇となることを引き受けたのです。


――それがきっと、黒海臣さまなりのいつくしみ方。この御方は、こうしたいとおしみ方しか知らないのだわ。


 そう思えば、細蟹の胸にしとしとと雨が染みてきます。水のが波紋を広げてゆくように、やるせなく哀しいものをもたらしました。

 細蟹は力尽き、くじけ果てた手負いの兵のように呟きました。


「それでも、……わたしはもう、誰にも死んでほしくない。あなたにも」


 そのことばに、黒海臣の指先が小さくわなないたような気がしました。

 まるで、細蟹のことを恐れるように。


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