黒海臣(くろみのおみ)のはなし 三
――……何だ?
宮の北にある裏門へ入った瞬間、黒海臣はぞっと
あたりは血の河をぶちまけたように生臭く、その底を風のすすり泣きが流れてゆきます。
いえ、……これは人の哭き声です。宮びとたちがいずこかで呻き、這いずり、助けを求めているのです。
「――っ、」
黒海臣は怯える馬を乗り捨て、走り出しました。木立を抜け、茂みにすべり、草や枝葉で手足を切りながら突っ切ります。
そうして正殿の近くまで下ってくると、そこには幾人かの兵士が折り重なって倒れていました。
「いかがした!」
急いで抱き起こしてみれば、その兵は目を斬られて血みどろです。他に倒れ伏した者たちも、みな同じく両目をやられていました。
「……黒海臣、様?」
抱き起こした兵士が絶え絶えに息をつきます。黒海臣は、袴を縛る
「いったい何があったのだ、賊でも入り込んだのか?」
「違います。……
「王様と大君?」
兵の口ぶりは乱れており、なにを言いたいのか掴めません。他の者たちも気を失したり、あるいは唾を垂らして震えたりするばかりです。
その尋常でない
なにが起こったのかはわかりませんが、なにかとてつもない
黒海臣は冷や汗を押し隠し、正殿のほうを仰ぎました。
――くらひこ様!
そう、腰を上げた瞬間です。
うおぉぉおん、
と、大鐘の割れるようなどよめきが響きました。もしくは猛る山犬が夢中で暴れ回るような。
うぉん、おおん、という音は遠ざかり近くなり、そのたびに風が天地を薙いでゆきます。人の呻きも増えてゆきます。
濃い血臭がぷんとただよい、黒海臣はたまらず地を蹴りました。
――闇彦祇様、……かがよひ様!
「お二方様ッ!」
黒海臣は正殿の庭へ飛び込みました。
まさにそのとき、星あかりがしらしらと庭を照らし出します。
――……鬼だ、
黒海臣は、そこにたたずむ人影を見てそう思いました。
ざんばらに髪は乱れ、剣もろとも血を被り、しかしそれでもなお珠のごとき光を宿す、うるわしい男鬼です。
その男鬼は、黒海臣もよく知る御子のお顔をしてふりむきました。
「……かがよひ様、」
呆然と、かの御方の御名をお呼びします。
するとその一瞬だけ、鬼の瞳に淡い哀しみがよぎりました。ですが次の瞬間、鬼は青い炎のごとき怒りを燃え上がらせて躍りかかってきます。
「――ッ!」
ぐわん、と唸るその剣を、懐の短刀で受け止めるのが精いっぱいでした。
剣はすかさずひるがえり、縦に横にまた斜めに、息つく暇もなく黒海臣を追いつめます。ちりちりと打ち合う刃から火花が散り、やがて
「かがよひ様――!」
目の前がぱっと閃き、すぐさま雪崩れるような痛みと熱に覆われます。
あたりは真の闇に変わり、目頭に当てたてのひらがぬるつきました。両の目を斬りつけられ、血があふれ出たのです。
黒海臣は耐え切れずによろめきました。
「……ぐ、ッ」
そうして座り込んだかたわらを、獣のごとくしなやかなものが駆け抜けます。
黒海臣は、はっとしてその影に叫びました。
「かがよひ様! ――いずこへゆかれます、かがよひ様ッ!」
ですが、影はなにも答えませんでした。
あとには黒海臣の叫びだけがむなしく残り、夜ふけの静けさに吸い込まれます。黒海臣は痛みに喘ぎ、されども歯を食いしばって立ち上がりました。
――ここで倒れるわけにはゆかぬ。闇彦祇様のご無事を確かめ、宮を立て直さなくては……。
血を拭い、それでも流れゆくものはそのままに。
黒海臣はふらつく足を叱りつけ、手探りで地を歩み出しました。
闇彦祇も、その奥方である
そのころには、かがよひの王はすべての宮びとを斬り伏せておりました。
かがよひの
第十二代大君、
耀日祇は御みずから変の後始末をなさったあと、群臣を集めてお話をされました。すなわち、妃を
しかしその求めたい妃というのが、なんと貢の従者のひとりである、機織りむすめだというのでした。
ふたとせ前、闇彦祇に目をかけられた欠け星という親なし子です。
その折に、まだ
そこでむすめに惚れ込まれていたのでしょうか、耀日祇はこたびの変でも、むすめの身と引き換えに従者たちをお救いになったのです。
そのむすめは、いま耀日祇の寝所へ連れられているということでした。
臣下たちは耀日祇のお話を聴き、くちぐちに渋る声を漏らします。中でも、
「なりませぬぞ、耀日祇様! 下民を妃に据えるなど、なにを考えておいでなのですか!」
「……下民だと?」
すかさず、耀日祇が低く問い返されました。
そのお声は、死者の国からぐつぐつと煮え上がってきたように淀んでいます。阿多臣も臣下たちも、思わず息をつめました。
耀日祇は剣をひらめかし、めちゃくちゃに床を踏み鳴らされます。
「そなたがッ、そなたがかようなことを言うのかッ! そなたも、そちも、そいつもこいつも、誰もがわたしを排したではないか! わたしを異形と責めたではないか! だが欠け星は違ったのだ、わたしを見て、聴いて、まことのわたしを受け止めてくれたのだ――!」
「耀日祇様ッ!」
黒海臣は、がむしゃらに耀日祇をお押さえしました。
どれほど剣が
臣下たちは、怯えて後じさっている様子です。黒海臣は息を吸い、腹から声を響かせました。
「お収めください、耀日祇様、阿多臣どの。お妃様のことは、いまいったん脇に置きましょう。まずは宮を立て直し、それが落ち着いてからお妃様をお迎えになればよろしいのです。その方が耀日祇様も、ゆとりをもってお妃様とお睦まじゅうなられましょう」
黒海臣はそう語り、子をあやすように耀日祇の肩を叩きます。
耀日祇はしばし唸っていらっしゃいましたが、やがてぐったりとしてお席に座り込まれました。深く嘆息し、黒海臣に命じます。
「……父上と母上を弔ってくれ。くれぐれもねんごろに」
「承りました」
黒海臣は、すぐさま周りの臣下たちに指図をしました。
するとみな、蜘蛛の子を散らしたように動き出します。残された黒海臣は、耀日祇にひっそりと声をおかけしました。
「耀日祇様」
「――……ああ、」
耀日祇はうな垂れて、てのひらでお顔を覆われたようでした。
そうして、さめざめとお泣きになるのです。まるでいつかの、闇彦祇そのままのおふるまいでした。
黒海臣はそのお姿に、やるせない哀しみを覚えます。
――やはり、お二方は父と御子でいらっしゃる。
血のつながりは確かでなくとも、おふたりは疑いようもなく父子なのです。
そう悟ればいっそう哀しく、黒海臣はここでようやく、ひそかに闇彦祇のお隠れを悼みました。
ほんとうは最期までお仕え申し上げたかった、たったひとりの主君の死を。
――……くらひこ様。
ですがそのささやきは、誰にも届かず
欠け星という機織りむすめは、それから七夜のちに耀日祇の
妃は
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