優しい女と強き女

 とある昼休み。

 私は図書室でせっせっと勉強に励む。

 少し行き詰まった時には、窓の外を眺めてみる。

 そこには、そよそよと風に揺れる細い枝。それを見ると問題が解けなくて荒立っていた私の気分が一新されるのだ。

 人だって先生一人しか居ないし、勉強するにはうってつけの、最高の場所だ。

 しかしここを勉強それに利用し始めたのは、昨日の事である。

 それというのも、前回話した通り最近の私の学習は滞りやすいため、あまり定着していないような気がするのだ。集中はおそらく出来ているのだが。

 以前から、図書室自体は時折利用していた。先生の名前くらいは覚えている程度に。

だからこそ気軽に、この場所に通う事ができているのだ。

(温度も丁度いいから、より落ち着くな。はじめから、ここで勉強しておけば良かった)

 この静けさや大量に並んだ本の匂いもまた、私に安らぎを与えてくれる。

「あっ」

 机に置いたペンが転がり、棚の方へ向かっていってしまう。

 座っていた椅子をしっかりとしまってから、私はペンを追いかけた。そんな私に追われるペンはかなり奥に設置された棚にカツンとぶつかり、静止した。

 身をかがめてそれを掴み取り、私はスッと立ち上がる。そこでふと、ある本が目に入った。


『絶対に当たる占い50選〜全ての恋する乙女のために〜』


 他の本のカバーが地味で色褪せている中、この本だけは光沢のあるピンク色で圧倒的な存在感を放っていた。

「占……い?」

 ほんの少しだが、この単語には聞き覚えがあった。

 あれは小学生の頃。とある本を所持した1名の女子の席が、大勢の友人でごった返していた。

 本を持った子がその内容についてちょっと話すと、周りの子達は誕生日や星座などをブツブツと唱え、「結果は!? 結果は!?」と興味津々に訊く。

 その度に本を持つ子があーだのこうだの述べ、都合の良いポイントにだけ皆キャーキャー騒ぎ出す。という茶番が、私の席の前で展開されていたな。懐かしい。

 それで、その時の本に書かれていたのが──『占い』という文字だった。

 今思い起こされたものから考えると、占いというのは女子の大好物ってところか。

(少しだけ、目を通してみようかな)

 あの時本を持っていたあの子は、「好きな人」や「相性」、「恋」という言葉をよく口にしていた。つまりは、そういう物なのだろう。

 だがこれも何かの縁。折角の機会だから読んで見るのもいいかもしれない。あくまでも社会勉強、という名目で。

「あら、木嶋さん。すっかり恋する乙女ですね」

「!?」

 背後からねっとりした女性の声が聞こえた。ドアの開く音はしなかったため、その持ち主として考えられるのはただ一人。

 そう、図書室の先生だ。

「そんなに驚かなくて良いんですよ、ウフフッ。その本はですね、隅に置いてあるけれど、先月入ってきた新しい奴なんですよ。貴女の為に、わざとそこに配置したんですけどね」

「え、え、えーっと。……わ、私の為ってどういう意味ですか?」

「そんなの決まっているじゃないですか。貴女と……戸山君、でしたっけ? まあとにかくその2人の色恋を応援したいという事ですよ」

 まずなんと言うか、この先生、こんな人だったのか……。

 今まで会話を交わした事がなかったけれど、図書室の先生はおとなしい性格なのだと思い込んでいたみたいだ。

 見た目は、性格のイメージと完全に一致しているんだがな。

「ど、どうして先生がそんな事をなさるのですか? そ、そもそも、それをご存知なのにも驚きなんですが」

「私、聴覚だけはすごく良いんです。読書中にもあらゆる情報がここに出入りします。ですから、生徒の噂に乗り遅れたりはしないんです。……この行動に関しての理由は、そうですね。木嶋さんが心なしか、明るくなったように感じたから、ですかね」

 先生は自身の右耳に、人差し指で触れた。その存在を私に示すために。

「え……?」

 私が、明るくなっただと。

 しかし確かに自分自身、変化を感じている節はある。前も思ったことだが。

 ──そしてその理由は、戸山君だった。

 なら先生がそう感じるのにも無理はないという訳か。

「感じたというか……絶対に木嶋さんは、良い変化を遂げています。もしくはその中間地点にいるのかも。どちらにせよ、そんな貴女を見ていたら協力したくもなります」

「私が頼まずとも、ですか」

「ええ。だって貴女、付き合っては見たものの恋愛において消極的なのが見て取れますから。誰かがその背中を押さればならなかったのです。貴女の幸せの為に。今回のはそれが、私だっただけで」

 先生は笑った。聖母のごとく。

 それにしてもこの学校の先生って、変な所に協力したがるなぁ。まだ二人目だが。

「よ、余計なお世話です。私、じ、自分のことは自分でできますので」

 今まで見た人の中で誰よりも穏やかさで溢れていたため、容易に気持ちをぶつける事ができた。

「まあまあ、落ち着いて下さいな。占いの本を見るだけなら無料タダなんですから。それに、私が話し掛けなければ読むつもりだったのでしょう?」

「ゔ……」

 それが分かっていたのなら、どうしてあのタイミングで声を掛けたのだろうか。

「経験は大切です。ささ、お読み下さい」

「……べ、勉強しなくてはならないので」

 気恥ずかしくて、「はい、じゃあ読みます」とはいかなかった。

「う〜ん、勉強も大事ですものね。あっ! なら貸し出しますよ。というか、そのための空間ですもありますし、ここ図書室

「え。いや、えっと……。まあ、それなら」

「決まりですね。こっちで勝手に手続きは済ませますから、勉強なさって結構ですよ」

「は、はい」

 こんなやり取りを済ませ、ゆっくりと私は席についた。

(松江先生、結構おせっかいだなぁ)

 ちなみに、図書室の先生の名前は松江千華子ちかこという。

 私はこの人や場所を知ったつもりでいたけれど、思いがけない出来事は何食わぬ顔をして襲いかかる。

 これは日常の影に潜む、厄介な物語だ。そう思うことにしよう。

 ──キーンコーンカーンコーン。

(あ、予鈴)

 急いで席を立ち、勉強道具をまとめて立ち去ろうとする。

「ちょっとちょっと木嶋さん。本、お忘れですよ」

「あ……すみません」

 荷物を抱えているので、私の両手はふさがっていた。そのため先生が、それの上に占いの本をボンッと置く。

 このままでは本が目立ってしまう。と、私が慌てることはなかった。腕に収まる参考書などを抱き締めるようにして、進めば良いだけなのだから。

 その手段を用いれば一番上の占いの本は必然的に私の体と触れ合い、他者の目にはとまらない。

「しっかり読むんですよー」

「は、はいっ」

 私は元気の良い返事を先生に返し、教室まで全力で歩いた。


     ○ ○ ○


「いただきます」

 今日は珍しい事に、母を目の前にして夕食を食べようとしている。

 母は稀に、無性に娘とコミュニケーションを取りたくなる時があるらしい。それが今だ。

「今日はやる気が出たから、沢山作ったわ。残さず食べるのよ」

「う、うん」

 少食気味の私からしたら、拷問じみた要求だ。破る事は決してないがな。

「ねぇ夕梨。何か欲しいものはない? 今お金に余裕があるから、リクエストがあれば買うわよ」

「う〜ん。シャー芯かな」

「我が子ながら、無欲ね〜。素晴らしい事だとは思うけど」

 私の母はいつも、首にシンプルなデザインのストールを巻いている。

 その理由を幼い頃の姉は、「胸にしまっておきな」と言った。だからだれにも話さない。父にも、母にも。

「エヘヘ。勉強してると、芯ってすぐ減っちゃうからさ」

「勉強熱心で良い事ね。そんな夕梨が大好きよ! 箱一杯のシャー芯を買ってあげるわね」

「誕生日でもないんだし、そんなに大量はちょっと……。置き場所にも困るし」

「そう? でも、もうすぐでしょ、夕梨の誕生日って」

「じ、12月だよ? まだまだ先だよ」

「2ヶ月くらいなら、すぐだと思うけどねぇ」

 母は時間の感じ方が早い。常に仕事を多く抱え、バタバタしているからなのだろうか。

 しかし母のあの働きっぷりは、私も憧れるところがある。声には出せないが正直に言ってカッコいい。

 父は……そうだな。まず単身赴任しているため、あまり会うことがない。

「話変わるんだけどさ、夕梨アンタ、最近わよ」

「えっ」

 その言葉に、慌てて腕の臭いを嗅ぐ。体育がなかったのに臭うのは異常だ。それも、母のいる向かいの席まで届いている。

「そ、そう?」

 しばらく鼻を働かせたけれど、刺激的なものが鼻を攻撃することはなかった。私ではなく、別の物が臭ったのではないか?

「分からない? でも確かに、臭ってるわ。──紛れもない、男の臭い」

「お、男?」

 不自然に見えないようにとぼける。

 いくらなんでも、気付き方独特すぎないか。普通に怖いわ。

「身に覚えがないはず無いわ。この私が、男の臭いと夕梨の臭いを間違える事はあり得ないから」

「え。やめてよ。ぜ、全然心当たりが……」

 どうしよう。

 恐怖で心が爆発しそうだ。もし本格的にバレたら私はどうなってしまうのだろう。

 学校に通う事さえ、許されなくなる?

 もしかしたら、家から出ることすら困難になるかもしれない。

 終わった。本当に。

 今まで上手くやってたと思っていたのに。こんな何気ない会話の一言で、崩れ去ってしまうのか。


「あら。ゆ、夕梨もしかして、怯えてる? ……なるほど。変に言い寄ってくる下品な男でもいたのね。そんなのに怖がる必要はないわ、大丈夫。無視をすれば、そんな奴自ずと身を引くわ」


「……。そ、そう、だよね。心配し過ぎかな」

 母は自分が恐れられているとは夢にも思っていない様子で、割と的を射た解釈を述べて納得した。

 そうなれば好都合。一瞬唖然とするもすぐに私は話を合わせた。

 演技に自信はない。だから大分前の戸山君への気持ちを掘り起こして、なるべく嘘に見えないようにした。

「まあ、夕梨が男と関わるなんてこと、あるわけ無いわよね。まだ由莉の方が可能性高いわ」

「姉さんだってありえないよ」

「勿論それは前提として喋ってるわよ。ま、もう食べ終わったみたいだしお風呂入って早く寝なさい」

 母は少しだけ伸びをすると、眠そうに部屋を去っていった。

「う、うん……」

 この場はやり過ごせたが、長くは持たないかもしれない。母が私をどれだけ信頼しているかによって私の未来が大きく左右されてしまうだろう。

 怪しい動きをしない事は大前提として、戸山君等に家に近付かないことを約束してもらわなくては。

 今回母が察知したのは男(即ち戸山君)の存在だけだが、だからといって女への油断は禁物だ。過度な接触は控えるべきである。

 やはり、母は偉大だ。

 圧倒的な存在感。日常会話中ですら、唐突な一言は私を困惑の沼に引きずり下ろす。自分があの人の血を継いでいるなんて、とても信じる事ができない。

(お風呂の後読もうと思ってたけど……。占いの本、なんだか読みにくいな)

 入浴中に好奇心と恐怖心を戦わせる他なさそうだ。結果は分かりきっているがな。


(さて。怖いし寝るか)

 あの気持ちを思い返すだけで、体が大きく震えた。

 別に彼女は悪い母親ではないのだと私は勝手に思っている。彼女は彼女なりの方法で、私達を庇護したいだけなのだ。

 だから咎められない。悪意あっての行動ではないから。

 母の縛り方は傍から見ても分かるくらいに不完全である。それなのに、私は告白の時までそれを破らなかった。おそらくは、姉も同じだろう。

 一体なぜ? という疑問が生じるかもしれない。

 それに対する私の考え。

 仕組みに欠陥が数多く存在しても、母自身の持つ力で押さえつけようとしているのかもしれない、というもの。

 これは一種の『歪んだ愛』なのかもしれない。先程も述べたように、母は私達を護ろうとしているだけなのだから。

 ここ最近、人との距離感が掴めない。

 急に名前呼びをしたり、占いの本を勧められたり。

 私の人生が大きく変化してきている──

 確かな事実は、ただそれだけだ。

(今となっては当たり前のこの日常。だけど一昔前の私からしたら、まるでフィクションの世界の話であるはずだった)

 思えば当時の私は、何を求めていたのだろうか。今の私には小さいながらもやりたい事や欲しい物がある。でも少し前までは……空っぽだったのではないか?

 目指すのはただ一人だけの平穏な生活。あらゆる者を恐れ、距離をとる。

 それだけがたった1つの幸せだと思っていた。

(『たった1つの幸せ』とか、柄にもなくクサい事考えちゃったな。早く寝ないと)


     ▲ ▲ ▲


「こんにちは、木嶋さん。本はお読みになりました?」

 道具を抱えて今日もまた図書室へ。受付で待ち構えていたのは無論、松江先生だ。

「い、いえ。全然」

「では今日こそはここで読んでいかれたらどうです? 時間はありますし」

「一応私、勉強目的で来てるので……。そ、それに成績が落ちたら母に叱られてしまいますし」

 昨日の束の間の絶望。久々の会話という特別感も相まってか、もの凄い力で「アンタはここに居るべきなのよ」と現実に引きずり込まれたかのようだった。

 可能なら、もう二度とアレを味わいたくはない。私は自分自身の変化を、『異常なもの』だとは思いたくないのだ。

「昨日は読もうとしていたのに、おかしな方ですね。もしかしてあの後何かあったのですか?」

「……。せ、先生には、関係ないですから」

 冷たく言い放った私を見て、先生は少しだけ表情を歪ませた。その後寂しげに「厳しいお母様なんですね」と告げるともう一切口を開かなかった。

 先生の母親も似たような人物だったのだろうか。まあともかく、今は勉強に集中だ。テストも近付いているしな。

(えっと……ウ? あっ違うエか)

 気を抜くと選択問題も危うい。引き締めていかないと。

 これは私の考えだが、母が私達娘に疑ってかかるきっかけは大きく2つあるはずだ。

 1つ目は臭い。昨日知った最新の情報である。おそらくだが彼女は犬並みの嗅覚を持っており、他人と娘の臭いの嗅ぎ分けができるのだ。

 2つ目は成績。私も姉も、学校の中ではかなり高いレベルを保持している。そのためそれが少しでも崩れたら、『何かがあった』事は確実。前例がないので推測に過ぎないが可能性は高いだろう。

 だが基本的に母は私達を信用してくれているんだと思う。その証拠に、昨日は都合の良い捉え方をしてくれた。

 もっと言えば、『疑いたくない』のかもしれない。自分の教育がしっかりと体に刻まれていて、もはや疑う余地がないのが母の理想……それもまた、考えられる可能性。

(いくら考えた所で、人の気持ちは分からないか)

 母もそうだが例えば、先程寂しそうな様子を見せた松江先生。今では静かに読書している。

 人の気持ちは複雑に交錯するものだ。喜び、悲しみ、怒り、驚き……。多くの要素を材料にして形作られる。

 それは人生経験が豊富である程深く絡まり合うのかもしれない。過去の様々なものもまた、気持ちを生み出す理由につながる。

 今の私にだってそれはある。主な感情は焦りであるが、影には恐怖なども隠れていて賑やかだ。

 けれど昔は何も無かった。小さなそれらが目立たぬように入れ替わるだけで、基本的には本当に──

(中身のない人生送ってたんだなー、私)

 占いの本が原因という訳ではないだろうが、結果的にそんな事を思い知らされるとは。分からないものだな。

 それにしても、知識を得たはずなのにまた新たな分からない事が増えていく。不思議で溢れているな、この世界は。

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