由莉サイド②

 レストランの扉を開くと、数々の香ばしい匂いが鼻を通り抜けていく。空腹だったことを忘れかけていた胃が嗅覚からそのことを思い出し、咆哮のような音を轟かせた。

(う、鳴っちゃった……)

 慌ててお腹を押さえる私のことを賢二君は先程までと変わらぬ笑顔で見つめるが、何も言葉を発しなかった。

 そんな状態でカウンター付近まで歩いて、整然と羅列したメニューを眺める。カレーライス、ハンバーグ、オムライス……どれも傍らに正方形の写真が添えられていて、これでもかという程私の食欲を煽ってきた。

「どれも美味しそうだね。賢二君はどれにするか決めた?」

「う〜ん、まだ決められないなぁ。麺類にしたいっていう希望だけは固まってるんだけど……」

「麺類かぁ。じゃあ私はご飯ものにしようかな」

 ここは店が大々的にススメているカレーライスにしてみようか。そういえば、家でカレーライスなんてしばらく食べてないな。

(全部美味しそうだからってずっと迷ってたら、いつまで経っても何も食べられないし)

「よし、決めた! 先に頼んでくるね」

「わかった。俺もすぐに頼む──」

 ドタドタドタドタ……。

「うわっ!!」

「っ!?」

 なんだろう、お腹の辺りが急にひんやりとしてきた。

「ア、アイスが! お姉ちゃん、ごめんねっ」

「えっ。あ、えっと……」

 トップスへ軽く視線をやってみると、右の下腹部から腰にかけて真っ白いシミが見事なまでに広がっているではないか。(あちゃ〜、ずいぶんと広い範囲に……)

「ふ、拭くもの! 拭くもの持ってくるから待っててね。……おかーさーんっ」

 突如空虚と化したコーン片手に少年は、母親を呼びながら店の端の方まで駆けていった。

 服にアイスをつけたまま一人残された私はなんとなく恥ずかしくなり、とりあえず賢二君の元へと戻る。

「……アイス、ついちゃった」

「えっ、だ、大丈夫? お腹冷えてない?」

「うん。でも替えの服なんて持ってないから、どうしようかなって」

「あ〜……。────じゃあさ、俺のパーカー、着る?」

 賢二君、少しの逡巡ののちにそう切り出した。照れているのか単に挙動不審なだけなのか、私とまったく目を合わせないでうようよと視線を泳がせている。

 そんな彼にしっかりと「うん! ありがとう」と伝えたいから、空中を彷徨うその視線の先に行こうと努めるも失敗。目と目を合わせてお礼を言うのは諦めて、それでも笑顔で「うん、ありがとう」と一言。

「拭くもの貰ってきたよ、お姉ちゃ〜ん。……あれ? さっきまでここに居たのに。う〜ん? ──あ、いた!」

 右手のコーンをハンカチに変化させて、アイスの少年が帰ってきた。口の周りに小さなカスが沢山くっついているのはきっと、あのコーンを消したからなのだろう。

「ボクがちゃんと拭いて、アイスを落としてあげるからね!」

 ごしごし、ごしごしと口にしながら一生懸命に私のお腹を擦ってくれる少年。けれどもハンカチ一枚では当然全ての汚れを落とし切ることは不可能だ。

「こらこらタク、お店の中で走っちゃ駄目でしょ? それと、お姉さんにちゃんとごめんなさい、したの?」

 一つの物音も立てず優々と歩いてきたその女性を見るなり、少年は嬉しそうに「あ、ママー!」と彼女に駆け寄った。

「うちの息子が申し訳ありません。クリーニング代は出しますので……」

「いえいえ全然気にしないで下さいっ。この服そんなに大したものではないので本当」

「しかし代わりの服もないでしょう? その分のお金だけでもせめて……」

「ふ、服なら隣の彼のものを借りますので大丈夫ですからっ」

 少し強めに言ってしまったが、こういった場合いただいておくのが正解だったのだろうか?

「そ、そうですか、彼氏さんの……。まぁそこまで受け取りたくないという意思が強いのであれば無理強いはしません。ただ、本当に申し訳ありませんでした」

 おしとやかに頭を下げる少年の母。それに倣って、少年も私に向けてペコリ。

「そ、そんな。気にしないで下さい。本当に。私、全然大丈夫ですから」なんて言いつつ、頭の中はそれどころではなかった。


「パーカー本当にありがとう賢二君」

「どういたしまして。ちゃんと暖かい?」

「もちろん。それよりさ、さっき──」

「ん、さっき?」

 ──私達、恋人だと思われてたよね。

 という言葉が出かかったが、口に出る直前にどこかへ消えてしまった。

「いや、ビックリしたねって」

「……そうだね」

 今、私と賢二君は二人きりで食事をしている。それだけでいいじゃないか。充分、幸せではないか。

(今は、ね) 

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