風船

 杏奈と会話しながら時の経過を待っていると、十数分程で教室がいつもの活気に包まれる。

 けれども、そこに戸山君の姿は無い。いつもならこのくらいの時間に来ているはずなのに。

(もしかしたら、今日は欠席なのかな)

 そんな考えが頭をよぎると、ホッとしたような感情と、焦ったような感情が同時に現れる。

 分かっているのに。戸山君が居ないことに安心するのは駄目だって、頭では理解しているのに。

 それでも心のどこかで、戸山君への拒絶反応を示す自分がいる。

 だがそれでは、事が悪化するだけ。自分がされたからといって相手まで拒絶してしまったら、その時こそ本当に私達の関係は倒壊してしまうのだから。

 付き合いたての頃は、私が嫌がろうがお構いなしに、戸山君は私と向き合おうとしてくれたではないか。

 そう、だからきっと、次は私の番なのだ。私が彼に心を開いていったように、彼だって──

「夕梨ー? 眠いの?」

「う、ううん。昨日しっかり寝たよ」

 しまった。

 戸山君のことを考えていると、どうしても他のことに気を配れない。それが杏奈との会話であっても同じこと。

「そう。じゃあボーッとしてるのは、海斗のことって訳ね」

「う、うん……」

 杏奈相手には、やはり本音が出てしまう。もう隠すほどの間柄ではないというのは勿論のことだけれど、杏奈の頼りがいのある雰囲気が余計にそうさせるのだ。

「やっぱり。じゃあ、今日来るか来ないかだけでも、卓也に確認してくるわね」

「え? あ、うん。あり、がとう」

 驚くべき行動力に、私はその場で愕然としているしかない。

(ああいう所が杏奈の長所であり、決して私が杏奈に届かない理由なんだろうな)

 見習いたい気持ちはあれど、杏奈や蘭以外の人には怖くて話しかけることができない私。

 憧れが『憧れ』の域を出る日が、いつか訪れるのだろうか。

「聞いてきたわよー」

「お、おかえり。早いね」

「そりゃ、卓也が相手だもの。無駄話のネタなんか無いわよ」

「そっか」

 私が言ったのは無駄話のことではなく、声を掛けるまでの躊躇う時間のことなのだけれど、まあそんな話はどうだって良いか。

「で、海斗なんだけど。やっぱり今日は休みらしいわよ。理由は卓也も知らないって」

「そうなんだ。心配だね」

「そうね。精神を病んでなきゃいいけど」

「……うん」

「彼に限ってそんな事ありえない」と言いたいけれど、以前狂ったような戸山君を見たせいでそうは言い切れない。

 彼の痛みや苦しみを、私は知らないのだ。

「と、とりあえず、海斗が居ないんだからこの話は終わりっ。もっと明るい話しないと」

「だね。そういえば、ずっと気になってたんだけど杏奈って──」

 杏奈が話の方向を変えてくれてよかった。私はあまり、そういったことが得意でないから。


     ○ ○ ○


「文化祭の準備を行うので、できない人はさっさと教室から出て下さーい!」

 学級委員である千秋さんの声が響くと、部活のある生徒ややる気のない生徒達が、蜘蛛の子を散らしたように去っていく。

「さて、じゃあ始めますか」

 今年の私は、一味違うぞ。なんとあの母から、文化祭とその準備に参加する権利を与えられたのだから!

 理由は何も説明してくれなかったが、私が「文化祭に参加したい」と頼む前に母はそれを承諾してくれた。「私、様子を見に行くからね」という台詞を添えて。

 まぁ母が来ることさえ把握しておけば、臨機応変に対応できることだろう。

「えっと、確かダンボールの用意は入江に頼んだんだっけ?」

「あぁ、バッチリ持ってきてるぞ」

「そう。で、風船が確か……夕梨ちゃんか」

「っ! ゆ、夕梨ちゃ……」

 木嶋さんと呼ばれる気持ちでいたために、千秋さんの言葉を繰り返してしまった。まさか急に名前にちゃん付けとは。

「あ、ごめん。迷惑だった?」

「う、ううん! ビックリしただけで」

「なら良かった。それで、風船だけど、ちゃんとある?」

「も、勿論っ。この袋の中に……」

 幼稚生の時以来ずっと部屋に飾ってあった母特製の手さげ袋に手を突っ込み、中をかき回す。しかし何周しても、そこは空っぽ。「あれ?」

「どうしたの夕梨ちゃん。もしかして、入ってないの?」

「うん。た、確かに朝入れたんだけど……」

「どこかで落としちゃったとか? でも、流石に気付くはずだよね。ただ、もしかしたら夕梨ちゃんの家かもしれないから、一応帰ったら確認しておいてね。今日は風船が無くても最悪大丈夫だし」

「わ、分かった」

 必要なものを持ってこられなかった私を咎めることなく、千秋さんは微笑む。彼女の周囲の人達も、こちらに嫌な顔を向けてこない。本当に心から、「気にしなくても大丈夫だよ」と私に言ってくれているのだ。

(皆、すごい優しいな……)

 私のクラスメイトはこんなにも暖かい。けれどその温もりは、所詮クラス内でしか保たれない。

 世界には悲しいことに、冷たい人間だって山程存在する。例えば──他人のものを盗み取るような人とか。

(私は朝、絶対にこの袋に風船を入れた。だから、きっと盗まれたんだ)

 盗まれた、というのが確定事項ではないものの、犯人の目星はついている。

 さて、いつ返してもらおうか……。

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