アタシの想い①

 トイレから出ると、目の前に杏奈さんが居た。

「うわっ。最悪」

 彼女は私の姿を見るなり顔をしかめた。

 それに対して何も反応できない私は、そそくさと逃げる事しかできなかった。

(そういえば……杏奈さんも戸山君が好きなのかな)

 蘭さんの流した噂を聞き、私を戸山君達から遠ざけようとしたという事は、まあそうなるだろう。

 前に彼らがモテるという事も知ったので、それ以外には考えられない。

(日暮さんも杏奈さんも、戸山君が好き。なら、二人にもそれぞれの想いがあるんだよね……)

 そう考えたら、戸山君の突き放し方は一方的すぎるかもしれない。私のことを守ってくれているのは分かるが、それは結局、彼の自己満足に過ぎないのだ。

 ふとそんな考えが浮かび、杏奈さんの心の内が知りたくなった。

(でも、仲良くなんてなれないしな……)


「あの顔を見るだけで、とてつもなく腹が立つ。調子に乗ったような、あの表情!! マジでウザい!」

 私の居る教室の中で、堂々と悪態をつく杏奈さん。

「分かる〜。海斗と付き合ったのもどうせ無理にお願いしただけでしょ〜? もしくは金払ったとか」

 クラスの女子全員、彼女に同調しているようだった。

 それは、私と戸山君が恋人というのが正式に広まったからである。戸山君ファンは学校のほぼ全員と言っても過言ではない。だからこそ、私は多くの人の怒りを買ったのだ。

 けれど、その中に私のことを恨んでいない人も居る。例えば、サイドテールの環奈さんのような。

 しかしそんな彼女らの思いは、杏奈さんの存在によって潰されているようなのだ。

 杏奈さん──上の名前は確か『赤江』──はカースト最上位の女子。すなわち、。これが意味するのは、『逆らったらどうなるか分からない』という事。私も彼女には日々戦々恐々としながら生活している。

 しかし私が今まで彼女から何かされた事などは無い。それは、私には戸山君が付いているから。

 しかしいつ隙を見つけ、何か仕掛けてくるかなんて分からない。蘭さんの件もあってある程度警戒はしているものの、やはりそれ以上の恐怖があったのだ。

「ほんっと、一回懲らしめてやらないと分からないのかしらね。……それか海斗を説得するか」

「そうだね。……う〜ん。一度一対一で話してみるしかないよ」

 ショートボブの女子は冷や汗をかいていた。彼女は杏奈さんに怯えている側の人間だろう。

「そうよね。誘ってみるわ」

「誘う必要無いよ」

 杏奈さんの背後には無表情の戸山君が立っていた。

「あら、海斗じゃない。怒ってる?」

「当然でしょ。いい加減にしなよ、二人共……いいや、赤江」

 彼の声は低く、通常時の何倍も暗かった。

 杏奈さんは髪の毛をサラリと払い、机に肘をつく。

「アタシだけご指名? ってか、そんな怒ることないんじゃない?」

「木嶋さんのことさんざん悪く言っといて何言ってんの。ふざけないで」

 杏奈さんが私の悪口を言うのは、もはや日課となっているんだと思う。最初の内は戸山君も「気にすることないよ」と言っていたが、毎日毎日しつこくて限界が来たのだろう。

「ふざけてないわ。それに、木嶋夕梨が悪いんじゃない。海斗をたぶらかしたりして」

 杏奈さんは発話する度、顔を歪ませていた。

「たぶらかされてなんかいないよ。それとさ、赤江、他人が流した噂を真に受けて悪口を言うなんて馬鹿らしいと思わない?」

「そうね。確かに馬鹿みたいだわ。……だけど海斗、アタシは馬鹿なの」

 杏奈さんが大きくため息をついた。

 それを見た戸山君は苛ついたのか、眉を吊り上げる。

「そんなこと、知ってるよ」

「なら馬鹿らしいなんて言う必要無いじゃない。何なの? 結局、何が目的なのよ」

「木嶋さんのことを悪く言わないでって言ってるんだよ」

 戸山君は落ち着いた様子でそう言ったが、彼の周りには確かに憤然とした雰囲気が漂っていた。

「分かったわよ、うるさいわねぇ。やめるわ。面倒くさいし」

 杏奈さんは戸山君から目を逸らした。『本人の前』というワードで戸山君は少しムッとした様子だったが、事を荒立てるのはやめようと思ったのか

「……うん、そうして」

 と言って自分の席についた。

 戸山君があまりにもあっさり引き下がったのでクラスは静寂に包まれる。一瞬だけ「チッ」という音が響いたが、それからは誰も何も発しなかった。


「赤江腹立つなぁ。あれじゃあ結局反省もしてないよ」

 休み時間、杏奈さんとその取り巻きが教室に居ないからなのか、戸山君は愚痴を零していた。

 ──本を読む私の目の前で。

「海斗、ああいう輩は放っておくのが一番だって。変にちょっかい出したら大問題になるかもしれない」

「それが一番いいのは分かってるよ、でも……。木嶋さんは何も悪い事してないのに、あんな風に言われるのが許せないんだよね」

「その気持ちは分かる。けど、関わらない方が良いぞ」

 戸山君と彼方君で話し合っているようだが、それなら他所よそでやってくれないだろうか。

「というか、木嶋さんが悪口言われてるんだよ? 何とも思わないの?」

 おっと。急に私に振るのか。

 ……ここで「何も思わない」と言えば、彼らは離れてくれるのか? いや、きっと答えは『NO』だ。

「……え、ええと」

 陰口を言われるくらいなら慣れている。別に私に危害が加わらなければ、何とだって言えばいい。それは私の耳に届かないのだから。

 と、二人の前で言いたい。けれど、不可能だ。まだそこまで話せるような関係ではないから。

「よく、分からない」

「え?」「え?」

「えっ?」

 二人が全く同じリアクションを取るものだから、つられて私も驚いてしまった。

「分からないって、自分の感情でしょ!?」

 戸山君は何故か焦った様子だった。そこまで騒ぐ事なのか?

「その……皆、自分で見た私と、自分で聞いた私しか分からないから。悪口を向けてる相手は、『皆の中の私』だから、何だか、あんまり自分に言われてる感じがしなくて」

 これもまた、私の考えであった。

 などは、しっかり私に向けられたもの。けれど今回の雑言に関しては、少し異なる。

 杏奈さんが毛嫌いしているのはきっと、『戸山君を誘惑し付き合う事に成功した』という、噂を通して彼女の中で作られた私なのだ。実際は『突然告白され断るに断れなかった』のが私だというのに。

 だからなのか、私は無性に杏奈さんの気持ちが知りたくなったのだ。

 以前までの私ならば絶対に興味を持たなかった人物だけれど、蘭さんの存在から影響を受けて私の考えは変化していった。

「まあ、確かにな……」

 頭を掻きながら彼方君が同意した。

「木嶋さんは、強いんだね」

 戸山君は瞳に涙を浮かべながらニッと笑った。

「い、いや、そんなことな──」

「ううん、すっごく強いよ。それなのに、俺ばっかりが一人で慌てふためいてさ、子供っぽいよね」

 己の弱さを実感したのか、戸山君は大量に涙を流した。

 まあ私は弱いとは思わないけれど。

 むしろ、他人の為に本気で怒ったり泣いたり出来るのは素晴らしい事だと思った。

(……言った方が、良いかな)

 今の、私の思った事を彼に言うべきか迷った。

 言い方がアレだが、私が「そんな事ないよ」みたいな事を言えば、戸山君はきっと喜ぶと思う。

 それは充分、判っていた。

 そう、勇気が出ないだけ。

 ──ポンッ。

「そんな事無いぞ、海斗。木嶋さん──好きな人の為に怒れるのは素敵なことだ」

「た、卓也……」

 戸山君がグッと涙を拭った。

「そうだね。ありがとっ」

 ほんのりと赤色に染まった瞳。そんな風になるまで、彼は泣いていた。苦しみに潰されそうになっていた。

 それなのに、私は一言も声を掛けられなかった。辛そうに泣く戸山君を前に、声が出なかったのだ。


「な、何が起きたのあそこ……」

「戸山泣いてない?」


 急に周りの声が耳に入ってきた。

 すると。

 バンッ!!

「……ハンッ。何が「たぶらかされてなんかない」よ。泣かされてんじゃないの」

 どこかで授業をサボっていた杏奈さん達が帰ってきたのだ。

 そしてその時、汗がダラリと私の頬を伝った。

(怖い人……だけど、理由もなくあんな振る舞いをする訳が無いよね)

 私の決意は固まった。

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