戸山君の話

「説明しなくちゃいけないこと……?」

「ほら、文化祭の時に木嶋さんが訊いてきたでしょ? 「大丈夫なの?」って。俺のことを心配してさ」

「ああ、そういえば……!」

 今ではもうすっかり元通りだが、少し前までの彼の外見は正直酷かった。痣や傷が彼の身体のあらゆる場所から顔を覗かせていたが、あまりにも当人が触れてほしくなさそうにするため、誰もそれを追及することはなかったけれど。

「こんな日に話すことじゃないとは思うけど、また先延ばしにしたら今度こそ忘れてしまう気がするから」

 戸山君の瞳が切なげに私の姿を捉えた。レンズに映る私が、かすかに揺らめいている。

「大丈夫。私、ちゃんと聞くよ」

「ありがとう。まず、俺の両親のことから話すね──


     ● ● ●


 俺の両親はとても仲睦まじい平穏な夫婦だった。けれど俺がまだ小さかった時に、父さんがあの世に逝ってしまったんだ。

 母さんは父さんの墓前で、「いなくなっても変わらない。私はずっとあなただけを愛し続ける」と確かに誓った。

 ……のに、一年も経たないうちに見知らぬ男を家に連れ込むようになってしまったんだ。

 父さん以外の人間に向けられる母さんの熱い視線や愛の言葉を見聞きした時、本気で吐きそうになったよ。寂しいのは分かるけど、父さんを裏切るなんて信じられなかった。母さんがそんな人だったって知って、ただただ悲しかった。

 それでも、ずっとその環境で生活していると慣れちゃうんだよね……。いや、慣れたというより、呆れたのかもしれないな。本当は。

「俺に直接害がなければそれでいい」って思い始めた頃、母さんはとんでもない人物を家に連れ帰ってきた。──丁度、木嶋さんと気持ちがすれ違っていた時期かな。

 その男を一言で表すなら、暴君。目が合うなり殴りかかってくるし、コップにお茶を注ぐという行為すら、自分の力でやろうとしない。

 タバコを片手にソファでふんぞり返っている奴は勿論だけど、俺はその隣で色目を使う母さんが何より憎かった。父さんを何度も何度も裏切って、息子が傷だらけという状況の中でも、まだ隣のろくでもない男に愛を囁き続けるんだって。

 あんな悲惨な身体のままじゃ学校に行くに忍びないから、卓也にすら事情を話さずに家に籠りっぱなしになった。気持ちが沈んでたからなのか、ご飯が喉を通ってくれなくなったよ。

 でもそんな日々は、呆気なく終焉を迎えたんだ。

 ある日、俺は男女の言い争う声で目が覚めた。それは母さんとあの男の別れ話だったようで、男の声はいつにも増して凶暴だった。

 しばらくして家中に扉の閉まる音が轟いたから、俺はゆっくりとリビングへ向かったんだ。

 涙が故か目は腫れていて、腕や脚はむごい程に傷を作っていた。

 視線と視線がぶつかって、咄嗟に「大丈夫?」って言葉が出てきたんだ。

 母さんは「あ、あの男を追っ払ってやったわ。あいつは脳筋だから、こんなにボロボロになっちゃったけどね」と笑っていたけど、本当は、俺、分かっていた。

「行かないで」って、母さんがあの男に縋り付いていたこと。

 無理やり笑顔を作っている母さんを見て……、俺にも責任があったのかもしれない。そう感じたんだ。


     ● ● ●


 ──まぁ、ざっとこんな感じかな。これでもう、俺は木嶋さんに内緒にしていること、なくなったよ」

 猿山を背景に、戸山君はふわりと笑った。

「うん……。ありがとう、話してくれて。戸山君のこと知れて、嬉しかったよ」

「……。じゃあ、そろそろライオンの所に行こう? 今の時間なら餌をあげられるかも」

「え! そんなことも出来るんだ! 動物園ってすごいね。すぐ行こうっ」

 私達は再び、ライオンへの一歩を踏み出す。

 にこやかに小走りをしながらも、頭はつい先程の話のことでいっぱいだ。

(私はまだ、戸山君のこと全然知らないな……)

 でもきっと、これから先彼のことについて理解を深める機会は数多くあるだろう。

 それらを楽しみにして、この先も生きていこうと思う。

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