「心配なの」

 逃げた私を走って追ってきたのか、杏奈はぜえぜえと肩で呼吸をしている。

「どうして……急に逃げ出したりするのよ」

「ご、ごめんなさい」

「ちょ、謝らないでよ。別にアタシ怒ってないから」

(……むしろ、私の行いに腹を立ててくれた方が良かったよ)

 そうすれば私の感情は恐怖に上書きされ、こんなにも罪悪感に苛まれることは無かったのに。

「……」

「ねぇ、夕梨。なんで目を逸らすの? アタシ、何か悪いことしちゃってた?」

「ううん。杏奈は、何もしてないよ」

 力なく俯いた私の表情を確認しようとしてか、杏奈は机の前で屈んで顔を覗き込んでくる。

「アタシ何もしてないってことは、別の誰かに変なことをされたのね?」

「……されてない、よ」

「ふ〜ん? まぁ、教えてくれないならそれでいいけど」

 スクッと立ち上がり、杏奈はまたこちらを見てくる。

 自分が杏奈に不信感を与えてしまっているのだと思うと、なんだかいたたまれない気持ちになってくる。

 けれども、ここで口を割れば私は、杏奈に頼ってしまうだろう。それでは駄目なのだ。

 変わらなければならない。成長を、遂げなければならない。

「……勘違いはしてほしくないの」

 どんな表情で発せられたのかは分からなかったが、それはとても力の無い声だった。

「か、勘違い?」

 軽く握っていた拳が、突如として暖かさに包まれる。

「アタシは、夕梨が心配なだけ。ただそれだけだから。怒ったり、疑ったりはしてないわ」

「杏奈……」

 重ねられた手から、杏奈の想いがひしひしと伝わってくるような感じがして、なんだか目頭が熱くなった。

「心配かけて、ごめんね。でも、大丈夫だよ。私、大丈夫だから」

 杏奈へ、しっかりと笑顔を向ける。彼女は完全に安心した訳ではなさそうだったけれども、笑みを返してくれた。

(やっぱりいきなり避けるなんて、私にはできない。でも、大丈夫。ものを盗まれることなんて、杏奈と仲違いするのと比べたら、屁でもないからっ)


     ▷ ▷ ▷


 ある日の、昼下がりのこと。

「夕梨ー! まだなの〜?」

「うん……。先に行ってていいよ」

 ガサゴソ、と狭いロッカーの中を探り続けても、体操着が見つからない。

(ここまで探して無かったら、きっと加藤さんなんだろうな)

 盗みが始まってからもう結構な時が流れているため、焦ることすらなくなってきた。

 しかし、盗られる物は少しずつランクアップしている。ノート、参考書は家に有り余っているのでなんの心配もないのだが、体操着は予備が一着のみ。

 その予備までもが彼女の手に渡ってしまったら、ずっと借り続けるしかない。それは何だか嫌だ。

「やっぱり無い。蘭に借りてくるね」

「……夕梨最近忘れ物多いわね。海斗のことで悩んでるの?」

 突然名前を出されて、少しだけ硬直してしまう。

「う〜〜ん、分からない。どうなんだろう」

「そう……」

 忘れ物ではなく盗まれていて、戸山君ではなく加藤さんが関係しているなんて、やっぱり言えない。


「はい、体操着よ。ちょっと小さいかもしれないけど、まぁ我慢して」

「ありがとう、蘭」

「それにしても、しっかり者の夕梨が体操着を忘れる日が来るなんてね。意外すぎてビックリよ」

「そうかな。最近は結構忘れ物してるよ。ね、杏奈」

 振り向いて杏奈に声を掛けると、彼女はちょっと呆れたような顔をして笑った。

「フフ、そうね」

「へ〜。疲れてるのかもしれないわね、夕梨って家だとずっと勉強してるみたいだから」

 アタシだったら絶対ムリ! と蘭は続ける。

「もう少し休み休みやった方がいいのかな」

「うん、夕梨は休むべきよ。じゃないとこういう事になるんだからね。あと! 今日の夜は特にちゃんと体を休めなきゃ駄目よ」

「今夜……? あぁそっか、明日って文化祭だもんね」

 ずっと楽しみにしていた行事。

 戸山君と一緒に時を過ごしたかったが、それはもはや叶わぬ夢だろうな。

「早いものよねぇ、もう本番だなんて。今はまだ全然そんな感じしないけど」

「そうだね。……あっ、もう一度だけ二人に忠告しておくね。もしも、私のお母さんの姿が見えたら合図を送るから、そしたら──」

「「他人のフリ、でしょ?」」

 得意顔をした二人が、綺麗に声を揃えてそう口にした。

「うん、よろしくね」

 任せて、と言う杏奈の隣で、蘭が自信満々な様子で胸をぽんと叩く。「演技は得意だから安心しなさい!」


 ふと時計に目をやると、授業開始五分前の時刻を指していた。座学なら良かったものの、これから体操着への着替えがあると考えると、きっと間に合わないだろう。

 しかし、「それでも別に構わない」。そう思えた。

 明日が楽しみだからなのか、三人での談笑が心地よいからなのかは分からない。ただ私の心の中で、授業への遅刻などどうでも良くなってしまうくらい、大切な何かが膨らんでいるような、そんな気がした。

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