第42話帰還
一人、バーのカウンターで志乃はグラスを白いふきんで拭いていた。
キュッキュッとリズミカルな動きだ。
スエーデン王国に駐在武官として赴任することになった小野寺に同行することにしたマダムにかわって、志乃はこの店をきりもりしていた。
「死ぬ前に世界を見てくるわ」
元気はつらつにそう言うマダムの言葉をきき、死神があらわれるのはまだまだ先のことだろうと思った。
バーの仕事は忙しかったが、それだけにやりがいがあった。
最初、一人で引き受けることに不安があったが、乱暴な客などがいると白髪の剣客がどこともなくあらわれ、トラブルを解決してくれた。
時々、厚化粧の魔術師が貴族のご婦人がたを連れてきては店をひいきにしてくれ、それなりに繁盛した。
ある時には、追われる身となった美貌の女怪盗をかくまったこともある。その時のドキドキとした感覚は忘れられないものとなった。
闇をきりとって染めあげたのではないかと思われるほどの漆黒の軍服を着た男が、バーのドアを開け、入ってきた。
軍帽を深くかぶり、丸型の黒眼鏡をかけている。その奥の瞳は紫色に薄く、輝いている。
朱天童子と同化したあの日から、瞳の色が元に戻らなくなってしまった。知らぬひとが見て、不気味がるので彼は黒眼鏡をかけるようにしたのだった。
腰にぶらげた朱鞘の太刀をガチガチとならしながら店に入り、カウンターの席に腰かけた。
白い梵字の刻まれた手袋を脱ぎ、テーブルにおいた。
志乃は彼のために砂糖とミルクをたっぷりいれたかなり甘いコーヒーを出した。それがこの陸軍士官の好物であった。
出されたコーヒーをすこしすすり、
「うまいな……」
と短く言った。
志乃は自らの白い手を、彼の火傷だらけの手に重ねた。
「お帰りなさい、中尉さん」
秀麗な顔を近づけ、志乃は言った。
息と息がふれあい、混じりあうぐらいの距離であった。
軽やかな笑みを浮かべ、軍人は頷く。
ドタドタと激しい足音をたて、転がるように店の中に入ってくる少女がいた。
カウンターに座る軍人と同じデザインの軍服を着ていた。サイズが合わないのだろう、かなり軍服に着られている印象をうけた。
頬の赤みのとれない少年のような顔立ちであったが、その不自然に大きく豊かな胸が性別を女性であることを証明していた。
胸の部分だけ軍服がぴっちりとして苦しそうなのが、こっけいであった。
「こちらにいらしたのですね、司さま。さあさあ、また事件ですよ。じゃあね、志乃さん、またね」
軽くウインクし、夢子は司の腕を無理矢理に引き、つれていってしまった。
まったく慌ただしことこの上ない。
その情景を見て、志乃は端正な顔に笑みを浮かべた。
カウンターのテーブルに残された甘すぎるコーヒーを志乃は大事そうに飲んだ。
「またね……」
誰もいなくなった店内でひとり、志乃は言った。
鬼の啼き声 白鷺雨月 @sirasagiugethu
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