第5話ロシア帰り

フォードは土煙をあげ、道を疾駆する。

当然のことながら、対向車はいない。

すれ違う人びとが物珍しそうに駆け抜けていくフォードをみつめていた。

アスファルトで道路が舗装されるのはまだまだ先の話である。

楽しそうに笑みを浮かべながら、樋口はフォードを運転した。


「樋口さん、いつ日本に戻ってきたのですか?」

嬉しそうに夢子はきいた。


樋口は夢子の憧れの人であった。

語学が堪能な人物で、特にロシア語が得意であったため、駐在武官として一年のほとんどをロシアで過ごしていた。

同じ陸軍に所属していてもめったに出会うことができない人物であった。

「つい、先日だよ、夢子くん。帰国早々、面白そうなレポートをみつけてね。君たちに会いにきたというわけだ。そしたら、君たちがどうやら不利な感じだったからね。わってはいったという次第さ」

「そうなんですか、うわっ、ありがとうございます」

夢子は礼を言う。

「でも、あのレポートって極秘扱いだったと思うんですけど」

「それは君、蛇の道は蛇というやつだよ」

ははっと樋口は高笑いをした。

「それでだ、私は君たちをどこまでつれていけば良い」

樋口はきいた。

「あっあの、聖都ホテルまでお願いします」

夢子は返答した。


「それで、彼が例の人物かね、渡辺中尉」

ルームミラーごしに樋口は志乃の秀麗な寝顔を見た。

「ええ、そうです」

司は言った。

渡辺とは司の姓である。

「しかし、まあ、ずいぶんと美人ではないかね」

と樋口。

「えー樋口さんもそっちの趣味があるんですか」

赤い頬を膨らませ、夢子は言った。

「いやいや、夢子くん。私はまったくもって普通だよ。ただね、性別関係なく美しいものは美しいという話だよ」

「そんなものなのですか」

「ああ、そうだよ」


ギギッとブレーキの音をきしませ、樋口の運転するフォードはとある建物の前で止まった。

見上げるほどに大きな建物であった。

外壁の所々にガーゴイルが彫られているのが特徴的な西洋建築であった。

関西でも屈指の名門ホテル、それが聖都ホテルであった。


「それでは私はこれで失礼するよ」

ゴーグルを外し、樋口は言った。

「ええっ、樋口さんも一緒に来てくれないんですか?」

名残惜しそうに夢子は言った。

「私は君たちみたいに人外魔境のものたちとは戦えないからね。ただ、私なりにこの事件調査させてもらうよ」

「わかりました、樋口少佐。助けて頂き、ありがとうございました」

司は言い、志乃を抱き抱えたまま、車を降りた。夢子がそれに続く。

「それでは、ひとときの別れだ」

そう言い、樋口はフォードを発進させた。

名残惜しそうに夢子は土煙をあげ、走り去っていくフォードを見つめていた。

右手を軍帽のつばにあて敬礼した。


樋口季一郎。

後にハルビン特務機関の長官になり、ナチスドイツの迫害を受けた何千人ものユダヤ人を

満州経由でアメリカに逃がした人物である。

だが、この時はまだ少壮の雰囲気を持つ青年将校のひとりであった。


ホテルに入った三人を出迎えたのは、燕尾服をすきなく着こなした初老の男性であった。

深々と頭をさげ、

「渡辺さま、平井さま、ようこそおいでくださいました」

と言った。

平井とは夢子の姓である。

彼女の名前は平井夢子といった。

「急な来訪で申し訳ないのだが、滝沢さん。彼を休ませる部屋を用意して欲しい」

司は軽く頭をさげ、言った。

「なにをおっしゃいます。先代であられる命さまからお世話になっている我らに遠慮することはございません」

滝沢は言った。

命とかいてミコトと読む人物は司の父親であった。

「すまない、助かる」

司は礼を言う。

「それでは、ご案内致します」

そう言い、滝沢はあるホテルの一室に三人を案内した。

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