第35話竜王の巫女

軽くまぶたをとじ、胸の前で手印を結び、夢子は精神を集中させていた。

想像するのは水のなかに潜る感覚である。

現実ではない、別の世界に彼女は心だけを渡航させようとしていた。


深く。


より深く。


さらに深く。


そこは時昌の流派では幻界とよばれる場所であった。

精神だけの生物が存在する世界。

そこに夢子はもぐっていた。

彼女も精神だけの存在となって。

肉体は現世にあり、仲間たちが人形どもと死闘を繰り広げている。


グガガという奇妙きわまりない笑い声をたてながら、コオロギのクリケットが右手の杖で刺突をくりだした。

夢子の愛らしい顔にむけてである。

だが、その凶悪な刺突は突き刺さる直前で強制的に停止した。

隻腕の鬼茨木が素手でつかんでとめたのである。

杖はまったく動かない。

コオロギのクリケットは昆虫の目でにらみつける。

「この者の術、邪魔はさせぬ」

尖った牙を見せながら、青い皮膚の鬼は言った。


この場所、この空間、この世界に来るのは十数年ぶりであった。

夢子がまだ物心つくかつかないかの幼き日いらいである。


彼女は羽衣の天女伝説が残る村に生まれた。

海で遊んでいた天女が、天界に戻るために必要な羽衣を村の若者に隠され、仕方なく村にすむことになった。

数年暮らすうちに若者との間に子供ができた。

そして、ある日、天女は若者が留守の間に隠されていた羽衣を見つけだし、天界にかえってしまった。

彼女の子供をのこして。


夢子はその村の神社の神主の娘として生まれた。幼き日から見鬼の才能をみせる夢子であったが、それ以外はごく普通の幼女であった。

優しい両親のもとで育つ彼女であったが、突然の不幸がおそう。

疫病のため、村の住人は夢子を残し、すべて死にたえてしまった。

医療が未発達なこの時代の地方の村では、ひとは簡単に死んでしまう。

両親はとある秘術を使い、夢子を生かした。

巨大な卵に彼女をとじこめ、仮死状態とした。

村人全滅の報告を受け、調査に現れたのは若き士官樋口季一郎と石井四郎という軍医であった。二人は神社の中にあった巨大な卵から、夢子を助け出した。

「この子、ぎりぎり生きてますね」

脈をとりながら、石井四郎は言った。のちに満州731部隊をひきいる彼であったが、この時はただの若き軍医でしかなかった。


夢子を目覚めさせるために多種多様な人間に樋口と石井は依頼した。そのうちの一人が時昌であった。

「この子のこころは幻界にあるみたいね。ちょっと難しいけど、なんとか連れ戻してみせるわ。しかし、竜の幻界か……やっかいだわ」

時昌は苦笑いをうかべ、頭をかいた。


「おそばにはべるのは乙でございます」

夢子は言った。

そこはイメージだけの世界。

幻想の空間。

乙とは、彼女の魂の真名であった。

薄い白布の着物を着て、みつ指をつき、石の床に座っていた。

少年のような風貌とは真逆の豊かな体に布はぴったりとはりつき、体の線をきわだだしていた。

夢子の頭上には四柱の竜がうごめいてた。八つの金色の瞳が彼女をみていた。

「わが娘、乙よ。なに用じゃ。われらのもとにかえってくる気になったのか」

内臓をつかまれたような感覚に襲われるほど低い声で竜は言った。

「いえ、残念ながらそうではございません。乙めは現世での友を救うため、お父上さまがたに助力をこうため、参りました」

夢子は言った。

「お父上さまの配下を一人かりとうございます」

「愛娘の願い、かなえてやりたいが、それはそれ相当の代価を必要とするぞ」

「いっこうにかまいません」

「そなたが友とよぶその者たちは、それほどの価値あるものたちなのか」

「はい、この上もない価値ある方々です」

少しの間をおき、竜は

「よかろう、かの者を使わそう」

と言った。

額を床にこすりつけ、夢子は

「ありがとうございまする」

と感謝の言をのべた。


かっと目をあけた。

戦闘はまだまだつづいている。

白鯨のモンストロの超強大な拳が司らを粉砕しようと振り下ろされる。

拳を握りしめ、司はそれを迎撃する。

二つの拳はぶつかりあい、両者の間で動きをとめる。

コオロギのクリケットが杖で司に斬りつける。それを迎え撃ったのは、剣客滝沢である。霊剣ジェラールと杖が火花をまきちらす。血と火が空中に舞う花びらのようだ。

軍服のポケットから小刀をとりどし、あろうことかそれを右手首にあてた。そして、一気にひく。

鮮血が周囲に散り、地面にひろがる。赤い血は一瞬にして魔方陣へと姿を変えた。

夢子は精神を集中させる。

「神将召還。我と我が友を守り、仇なす敵を滅ぼせ」

魔方陣が光輝き、その中から鉄鎧を身につけた一人の人物があらわれた。特大のさす又を肩にかついでいる。

「我が主君青竜王の名により、霊山大将参陣いたす」

かつて三蔵法師を天竺まで送り届けた三名の神将の一人で、別名沙悟浄という。

「こしゃくな」

人もどきのがさがさした声でクリケットはいい放つと杖を加速させ、刺突を幾重にもくりだす。その速さは音に限りなくちかい。

ゆっくりとさす又を振り上げると霊山大将はそれを一気に振り下ろす。ぐしゃりと鈍い音をたて、クリケットの頭はわずか一撃で粉砕されてしまった。

精神生命体を物質世界につなぎとめ、使役するにはそれ相応の代償が必要である。力の強い霊体を呼び出すならばその代償は比例して高くなる。夢子は命の元ともいえる血液をその代価とした。

だらだらと血液を流し続ける手首を茨木はつかんだ。夢子のかわいらしい顔は貧血のため、青ざめていた。不思議なことに鬼がつかんだ瞬間、止血されていた。

青鬼茨木は手についた血液をべろべろとうまそうになめた。

「竜女乙姫の血じゃ、これは甘露じゃ、甘露じゃ」

下品な笑みを浮かべ、茨木は言った。





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