第29話 開戦

異様な空気に樋口は憲兵隊の突入をためらっていた。

相手は人外魔境のものたちである。

憲兵隊ごときがおそらくは太刀打ちできる相手ではないだろう。

憲兵たちもそれを察したのだろう。動くものも、突入を進言するものもいなかった。

動物的な生存本能が彼らをそうさせたのだろう。

これがもう少し先の時代、昭和になっていたら指揮官は突入を命じていただろう。

昭和初期とはそういう時代なのだ。

鬼子の時代といっていいだろう。

「樋口少佐、ここは我々におまかせください」

司は樋口に言った。

「面目ない。ここは君らに一任しよう」

樋口はそう答えた。

「あなたが黒桜の渡辺中尉ですか……」

樋口の後ろから声をかけたのは川島芳子であった。その姿を見た夢子はあからさまに不機嫌そうな顔をした。下から上へなめるように芳子の容姿を見た。

ふっと鼻息混じりに夢子は笑った。

「なんだ、まな板がしゃべったのかと思いましたわ」

その言葉を聞いた芳子は形のよい眉をあげ、

「あら、珍しい。人の言葉をしゃべる豚がいるのですね」

ぎろりと芳子は夢子をにらみつける。

「樋口さん、この子はなんなんですか」

息を荒くし、夢子はきいた。

突然はじまった美少女同士の喧嘩に困惑しながらも、

「私の助手の川島芳子くんだよ」

とこたえた。

「そう、私は樋口のお兄様の助手よ。黒服の軍人さん」

ほほほと笑いながら芳子はいった。絵にかいたような高笑いだった。

「お、お兄様ってどういうことですか」

吃りながら夢子はきいた。 憧れの樋口にべったりとくっついている芳子が許せない。

「芳子くんとは彼女が幼いとき、まだ大陸にいたときに知り合ってね。それ以来、妹のようにせっしているのだよ」

「そうよ、私は樋口のお兄様とはひじょうに親しい間柄ですの、黒服さん」

勝ち誇ったように芳子は言う。

「大事な戦いのまえだ、それぐらいにしないか夢子。それに公主殿下に対して失礼だぞ」

と司が二人の言い争いをとめる。

「こっこっ公主殿下」

この夢子の言葉に芳子はニヤリと笑って見せる。公主とは皇族の女性のことであり、芳子は清朝の血をひく正真正銘のお姫様である。

「芳子くん、それぐらいにしたまえ。渡辺中尉、夢子くん、武運を祈っているよ。必ずまた、会おう。あのマダムのバーで一杯いきたいものだよ」

そう言い、樋口は司の手を強く握った。

「ええ、必ず」

その手を強く司は握りかえした。

「樋口さん、この戦いが終わったら……」

そう夢子が言おうとしたところ、芳子が手のひらでその言葉をさえぎった。

「その続きは生きて帰ってからおいいなさい」

「わかったわ。私は必ずもどってくる。あなたがお姫様だって、そんなのは関係ないんだから」

人は自分のことを皇族のひとりとして、遠慮して接する。その気遣いが煩わしかった。だが、この娘は違うようだ。もしかしたら、良い喧嘩友達になれるかもしれない。

樋口と芳子は彼らを笑顔で送り出した。


ねっとりとした気味の悪い空気が司たちの体にとりついた。

いくつもの戦場を経験した滝沢にとっても味わったことのないものだ。腰にぶらさげたジェラールの剣がかたかたと震えた。どうやら武者震いのようだ。

歴戦のこの剣はどうやら興奮しているようだ。

頼もしいかぎりだ。滝沢はこころの中で言った。

十分ほど歩いただろうか。かなりの広さの境内にたどり着いた。野球場ぐらいの広さはあるだろうか。

だだっ広い境内にたった一人の男が立っていた。

黒い詰襟服を着た義眼の男が腕を組んで立っていた。

「貴君らに問いたい。なぜこの世界から戦争や飢え、貧富、差別がなくならないのか」

よく通る声で北一輝は言った。

司たちはにらみつける。

彼は何をいっているのだろうか。

「貧しさのために娘を売る親。飢えのために人のものを盗む子供。戦争によりなによりも大事な命を国に奪われる若者たち。だがその一方で安全なところで豪華な生活を送るものたちがいる。同じ人間だと言うのに。何故だ、何故なのだ」

その言葉には熱がある。

北一輝は問うていた。

「それは人が人を支配しているからだ。同じ種族同士で階級をつくり、貴賤をつくるからだ。では、どうすべきか。答えはひとつだ。人間以上の高位の存在によって支配されれば良いのだ。その世界は真の平等で平和な世界になるであろう。そして、その高位の存在を産み出すのに君が必要なのだ。最上志乃」

一瞬であるが、志乃は北一輝の言葉に魅いられた。彼の生まれ故郷でも貧しさを理由に身売りする家があった。食べ物がなく、病気になり死んでいく子供たち。

貧しい家に産まれたものは貧しいまま。

負の連載。

北一輝が言うように高位の存在が人間たちの王になればその連鎖をたちきれるのだろうか。

「真なる王が現れれば、我々は苦悩から解放されるのだ。貧困と差別はなくなり、平和が訪れる。人はなにかに悩むことなく、王の指示に従い、安穏な生活を送ることができるのだ」

そんなのは違う。志乃は思った。悩むことは苦しい。だが、悩むこと、考えることをやめたら、人間といえるのだろうか。

「そんなの、間違ってる。そんなの、人間をやめて家畜になれっていってるのと同じだわ。どんなに愚かで間違ったことばかりしても私は悩み続ける人間をやめたりしない」

声をふりしぼり、志乃は言った。異常なる空気の中、北一輝という魔人を相手に心が恐怖で支配されそうであったが、彼は持てる勇気のすべてをふりしぼり、言った。

「よく言った」

そう言い、司は志乃の肩を抱いた。

「どうやら、私は君をみ誤っていたようだ。

志乃くん、君は勇気ある強い人間だ」

不敵な笑みを浮かべ滝沢は言った。

「志乃さんの言葉が私たちの戦う理由ですね」

そう言い、志乃の細く白い手を夢子は握った。

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