第五話「宣告」

 拘置所での一日は長い。初日こそ腕の治療やら取調べやら所持品チェックやらであっという間に時が過ぎ去りはしたものの、それ以降は彼らも忙しいのか、行われたことと言えば腕に巻かれた包帯の巻きなおしと、接骨医による、折れた腕の強引な整形作業という地獄の拷問くらいである。取調べはあれから一度も行われることはなく、ぼくはただ一日一日を、独房の床に蚯蚓みみずのようにいつくばって悪戯いたずらに時を浪費させていた。こんな状態がずっと続くと思うと気が狂いそうになる。

 何かしなきゃ、と、ぼくはとりあえず片手腕立て伏せを始めた。

 すると、いきなり眼の前を黒い物体が、がさがさ、と、高速で通過した。

「ひゃ」

 ぼくは短い悲鳴をあげ、った。害虫ゴキブリだ。あの黒光りする忌々いまいましい、黴菌ばいきんの塊!

 ここがアパートなら、すぐさま超強力殺虫剤ゴキバズーカ・プロを噴射してやるところだが、むろんこの独房にそんな文明の利器はない。あの、体内に百兆以上もの黴菌を保有する生物兵器を前に、ぼくはいま丸腰である。

 なかばヒステリックに踏みつぶしにかかると、黒い暗殺者は反撃することもなく、扉の隙間から外へ出ていった。独房の衛生状態なんてたかが知れているし、床で食事をしてる以上〈彼ら〉が寄ってたかってくるのは自然なことかもしれないが、寝こみを襲われることを想像すると気が気ではなかった。不安を頭から払拭するためにも、ぼくはさらなる筋トレに没頭した。

 しばらくすると、今度はぼくの耳元をぷーんという神経を逆なでするような高周波の音が聞こえてきた。

 今は七月。〈奴〉がこの独房に侵入してきてもおかしくはない。そしてその羽音が止む。視覚と触覚を研ぎ澄ませ、〈奴〉の着陸地点を探る。卑怯にも〈奴〉は、骨折した我が左腕の、ぶ厚い包帯の上に、鎮座していた。

 だが相手の弱点を突くのは、戦術の基本中の基本である。

「死ねえ」

 独房生活の鬱憤うっぷんを晴らすべく、しかし左腕に極力損害を与えない程度の威力をぼくは瞬時に計算し、左腕の上の血液強盗を、右てのひらで、ばちんとたたきつけた。

「――――」

 手加減してもなお左腕に走る激痛に、ぼくは声にならない声を、あげた。

 が、そんな捨て身の一撃も虚しく、〈奴〉はぼくのみなぎる殺気を感知したのか、直前で飛び立ち、難を逃れた。

「よくもやったな」

 国家保安委員会による理不尽な仕打ちと、我が左腕にさらなる損傷を与えた怨敵に対する黒い憎悪が、ぼくの腹の奥底でうず巻いていた。彼女(人間の生き血を吸う蚊は雌だけである)には、このやり場のない怒りをぶつける人柱ならぬ虫柱になっていただこう。

 全身の感覚を研ぎ澄ませ、索敵する。ぼくの怨念のすべてを、この泥棒猫に、たたきつけてやる!

 しかし一方で、焦ってはならない、と、ぼくは自身を戒めることも忘れなかった。戦場では常にクールであれ。頭を冷やし、彼女を仕留めるための作戦を練る。「蚊は上下移動は得意だが左右の動きは鈍いので、左右からではなく上下から攻撃した方がうまく仕留められる」というネット情報を思い出したが、生憎いまは左腕が使えないため、彼女が地面近くを飛行する瞬間を粘り強く待ち、右手で上からの攻撃を加えた。

 ばちん。

 ぼくの黄金の右が彼女を捕らえた時、ぼくは妙な手応えを感じた。

 蚊はぼくの掌の中で爆散した、と思われた。

 が、実はそこにあったのは、虫の死骸ではなく……

「機械?」

 ぼくの手の中にあったのは、ばらばらに解体された、極細のワイヤーと金属片と、プラスチックか何かで造られた一対の羽で構成された、機械の残骸だった。

 蚊型の、ロボット?

 現在はロボットやAIの技術の進展は覚醒めざましいが、ここまで小型で緻密な物まで作れるようになっていようとは。もしこれに毒薬か何かを仕こんで標的を刺せばいとも簡単に暗殺が実行できてしまうではないかと考え、ぼくは戦慄した。

 しかし、何でこんなものがここに?

 わけがわからなかった。

 そして動揺していたぼくは、首筋に止まっていたもう一匹の虫型ロボットの存在に、気づかなかった。


 さらに三日後の朝。

「出ろ。局長がお呼びだ」

 独房の扉の鉄格子の向こう側から、高神たかがみの部下の後藤が威圧的にぼくを見おろし、そう告げた。

 ぼくは彼に連れられ、最上階の七階にある高神の局長室まで護送された。

 昨日の無骨なコンクリート壁の取調室とは異なり、絢爛豪華けんらんごうかな金細工の装飾があちこちに施され、天井にはシャンデリア、部屋の奥には美しい彫刻が眼をく局長高神の物と思われる木製の机。その背後に、巨大な黄金の桜の代紋と、X状に交差した二本の日本刀が特徴の、国家保安委員会のエンブレム。そしてその両脇には日の丸……ではなく旧日帝の旭日旗きょくじつきと、対称的な濃紺の上にたたずむ金の警察章が編みこまれた警察旗が、垂れ下がっていた。まるで王室だ。これが国家保安委員会秘密総局の局長室なのか。この日本国における高神麗那の権力の大きさがうかがい知れた。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 高神は、部屋の中央に向かいあって設置された臙脂えんじを基調とした細かい金の唐草模様が縫いこまれた高価たかそうなソファの上に、腰掛けていた。

 そして彼女の脇で寝そべっていた、大型犬ほどの大きさの豹に、ぼくは刮目かつもくした。

 ぼくの視線に気づいたのか、豹は一瞬こちらに眼を向けると、興味なさそうに自分の後ろ足をべろべろと舐めはじめた。

「私のペットよ。かわいいでしょう」

 高神が愛しそうに豹の頭に頬ずりすると、豹もそれに応えるように彼女の頬を舐めた。

 ぼくはどう反応していいかわからず、ただ「はあ」と声を洩らすのみだった。


 数瞬置いて、高神が口を開いた。

「さて。残念なお知らせがあるわ。朱井あかいくん」

 まるで捨て犬でも見るような、ぼくをあわれむような、そんな眼で、彼女は、言った。


「あなたをここから、生かして帰すわけにはいかなくなりました」


 突然の死の宣告に、ぼくは凍りついた。

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