第四十八話「条件」

「気がついたかい」

 ぼくたちが借りている革命ヒョンミョンマンションの201室にて、ベッドに横たわってぼくの声に反応した美煐ミヨンは、眠そうに眼をこすりながら、ぼくの方へと視線を向けた。

日出イルチェ……さん? ここは一体」

「ああ、ぼくたちが〈解放戦線〉から借りてるマンションの部屋だよ。居酒屋・大浦洞テポドン階上うえにある。君はあの後気を失って、ここで半日眠っていたのさ」

 部屋の壁の中央に掛けられている、北朝鮮建国の父・金勇浚キム・ヨンジュンの肖像が描かれた壁時計の短針は二に差しかかっており、カーテンのない窓からは午後の秋の柔らかい日ざしが差しこみ、からすやかましい鳴き声が聞こえてきた。

「昨日、うっ」

 それでようやく昨日の一件を思い出したのか、美煐ミヨンは頭を抱えてうめき出した。

 そう、美煐ミヨンが憎しみに駈られて泰希テヒを射殺しようとしたあの後、結局ぼくが美煐ミヨンに飛びかかり、力ずくで銃を奪いとり、事なきを得たのである。癇癪かんしゃくを起こして暴れ回る美煐ミヨンの首筋を手刀で一撃して気絶させなければ、真茶がぼくの制止を無視して美煐ミヨンを殺していただろう。

「結局、パパとママを死に至らしめたあの糞女は、のうのうと何の罰も受けずに生きているのね。パパを殺したあの忌まわしい人殺しも、〈解放戦線〉に加わってしまうのね」

 やり場のない怒りと憎しみと無力感をなかば壁にでもたたきつけるように、美煐ミヨンは呟いた。

 ぼくはすかさず弁明する。

美煐ミヨンちゃん。君が泰希テヒを撃っていたら、〈解放戦線〉の誰かが君を殺していただろう。おそらくあの〈黒電話〉くんあたりがね」

「別に、もうどうだってよかったわ。あの糞女と糞男と一緒にいたら、私は壊れてしまう。でもここを出ても行くところなんてないし、〈党〉の刺客に見つかれば裏切り者パパの娘というだけで殺される。運よく逃げおおせたとしても、野垂れ死ぬだけ。それなら、いっそのこと、あの糞女を殺して私も」

 その先は言わないで、と、ぼくは美煐ミヨンの頭に手を置き、優しい口調で続けて言った。

「大丈夫だよ。美煐ミヨンちゃん。そんなことはぼくがさせない。あんな男を迎え入れたら、〈党〉のスパイとしてぼくたちを殺そうとするに決まっている。泰希テヒもだめだ。どんな事情があれ、彼女は君の両親を殺し、〈我々〉の仲間を〈党〉に売った裏切り者だ。かばっている今はまだ手を出せないが、作戦が終わればどのみち我々の〈偉大なる太陽〉が然るべき裁きを下すだろう。あの御方は裏切りの類だけは決してゆるさない。君がその綺麗な手を血でけがすことはないんだよ。そういうことはぼくたちに任せてほしいんだ。君は〈こちら側〉に来るべきじゃない」

 ぼくの真摯しんしな説得が通じたのか、美煐ミヨンうつむき、黙りこんでしまった。

 彼女の手をぼくが握ると、美煐ミヨンは「あっ」と小さく声をらし、頰を紅く染め、恥ずかしそうに顔を背けた。

「君は内通者スパイあぶり出しという大変重要な貢献をしてくれた。このことを姉さ……〈偉大なる太陽〉に話せば、日本への移住も特別に認めてもらえるだろう。ぼくたちはこの国を解放してみせるが、君が望めば、日本に来て第二の人生を送ることだってできる。君は自由を手に入れたんだ」

日出イルチェ、さん」

 美煐ミヨンの眼尻から涙がぼろぼろとこぼれ落ち、とうとう泣き出してしまった。考えてみれば両親を失い、こんな希望もくそもない国で、彼女はたったひとりで生きていかねばならなかったのだ。何とも理不尽な運命ではないか。何の罪もない(そして可愛らしい)娘が理不尽な眼に遭っているというのに、何もしないというのは紳士として、相応しくない振舞いなのではないか。元はと言えば、羅勝元ナ・スンウォンに協力を依頼したのはぼくたちで、無関係な美煐ミヨンをこの血で血を洗う戦に巻きこんでしまった。たとえ姉さんが美煐ミヨンの渡航に反対しても、ぼくは私費で彼女を養うつもりでいる。

「ありがとう。ありがとう」

 自分を救ってくれたこの救世主ぼくに、美煐ミヨンは何度も礼を言い続けた。

「いいんだよ。君のような可愛らしい女の子が絶望の淵に立たされているのに、黙って見過ごすわけにはいかないのさ。紳士ジェントルマンとして」

 ぼくは美煐ミヨンの両肩に手を置き、慈愛の紳士微笑ジェントル・イケメンスマイルを披露した。

「私が……可愛らしい……? 嬉しい。そんなこと、今まで言われたことなかったから……」

「それは意外だね。君の周囲の男たちは女性を見る眼がないのだろう」

 美煐ミヨンは耳まで赤くして再びぼくから視線を逸らし、落ち着きなく身をよじっていた。彼女のそんな姿は、やはりどう見ても色恋を知って間もない思春期の中学生か高校生くらいの少女にしか見えない。

「何だ、ヒデル。今度はそのお嬢ちゃんを口説いてんのか」

 いつのまにか部屋の入口付近にいた真茶が、ぼくを揶揄からかうように意地の悪い笑みを浮かべて言った。続けた。

「まったくお前はとんでもない女たらしだな。美煐ミヨンを助けたのも、口説いて手前てめえの女にするためだったのかよ。おい、お嬢ちゃん。爽やかな見かけにだまされるなよ。下半身でしかもの考えてねえケダモンだぜ、こいつは。ぶははは」

「あ、あの。日出イルチェさん。彼女は一体何と言ってるの」

 無論真茶は日本語で喋っているので、美煐ミヨンには何を言っているのかさっぱりである。

「ぼくが白馬の王子様のように眉目秀麗びもくしゅうれい、才能と気品に満ち溢れた貴公子であると賞賛しているのさ。ふふふ」

 日本語がわからないのをいいことに正反対の朝鮮語訳をしてみたが、美煐ミヨン怪訝けげんそうに眉をひそめていた。

 真茶がぼくの肩にふてぶてしく腕を乗せて言った。

「ま、そうでもなきゃ、美煐ミヨンを使って泰希テヒを始末させてるよな。お前としちゃ、白金機関の代表として落とし前つけさせるところだったろうよ。でも、のやつが、それを許す雰囲気じゃなかった。美煐ミヨン泰希テヒをぶち殺してりゃ、美煐ミヨンの溜飲も下せるし、裏切り者を処刑できるしで一石二鳥だろ」

「本気で言ってるのかい」

「もちろんさ。まさか、白金機関のエージェントともあろう御方が、復讐なんてよくないです、そんなことをしても死んだパパとママは生き返りません! ……なんて、戯言を言うつもりじゃないだろうな」

 悪魔のように邪悪な笑みを浮かべ、真茶はぼくに顔を寄せた。

 ぼくは考えた。

 そうだ。彼女は殺し屋。彼女にとって、殺しは〈日常〉。美煐ミヨンが憎き親の仇敵泰希テヒを怨念こめて亡き者にするのも当然と考える類の人間だ。ぼくはどうだろう? 〈完全世界〉のためとはいえ、任務で何人もの人間を葬り去ってきたぼくに、美煐ミヨンを止める資格があったのだろうか? ぼくにはわからなかった。

「そんなんじゃないさ。もし間違って美煐ミヨンの銃弾が君に当たってしまったらいけないからね。ぼくは美しい女性が傷つくのを見るのは好きじゃない」

 ぼくが爽やか美男子微笑イケメンスマイルを浮かべて真茶の顔に手を伸ばすと、彼女は心底不快そうに顔を歪め、ぼくの手をべしとはたいた。

「気持ち悪い。本当に気持ち悪いやつだなお前は。気障きざったらしい。この色きちがい。ろくな死に方しねえぞ」

 きびすを返し、ぼくに中指を立てて真茶は部屋から去って行った。

「あの……日出イルチェさん。いきなり不躾ぶしつけなことを聞いてごめんなさい。彼女は、その、あなたの恋人なのかしら?」

 遠慮がちに視線を泳がせ、美煐ミヨンは唐突にそんなことを聞いてきた。

「なぜ」

 まったく想定外の質問に、ぼくはつい頓狂とんきょうな声をあげてしまった。日本語での会話をまったく理解できていないが故か、何か誤解させてしまったようだ。


 同日夜。〈解放戦線〉の皆と居酒屋・大浦洞テポドン一階の食堂で夕飯を食べ終えた後、誰もいなくなった食堂に泰希テヒがふたりで入っていくのを見たぼくは、入口の影に身を潜め、しばらく様子を伺っていた。彼らが今後のことについて話し始めたため、間に割って入ることにした。

宋泰希ソン・テヒさん。あなたに確認しておきたいことがある」

 ぼくが鋭い声でそう告げると、泰希テヒの顔に同時に緊張が走った。

「我々の仲間である無津呂むつろが、耀徳ヨドク収容所にいるという情報は本当か」

 ぼくが高圧的に問い詰めると、泰希テヒの肩にぽんと手を置いた。

「本当のことを話すんだ、泰希テヒ

 が優しくなだめるように言うと、泰希テヒは観念したように伏し目がちになり、それからゆっくりと口を開いた。

「無津呂さんが耀徳ヨドク収容所にいるかは正直わからない。その情報を私に与えたのはヒョク。彼らは無津呂さんを餌にあなたたちをおびき寄せて、捕らえるつもりだったの。あなたたちを無事捕らえることに成功すれば、ヒョクは〈党〉からの信頼を取り戻せるだろう、と」

 おそらくあの日、耀徳ヨドク収容所の周囲では、朝鮮人民軍の大軍が我々を待ち伏せしていたことだろう。あのまま忍美しのみを行かせていたら、彼女は今ごろ殺されているか、無津呂のように収容所で拷問を受けているに違いない。まったくとんでもない女だ。

「なるほど。しかしあなたが〈党〉の作戦を暴露したことで、弟さんのスパイ容疑は晴れなくなってしまったわけだ」

 ぼくが意地の悪い笑みを浮かべて泰希テヒいじめると、が助け舟を出した。

キム……いや、白金さん。どうか泰希テヒゆるしてやってくれねえか。こいつには選択肢がなかったんだ。おたくらが泰希テヒを歓迎できねえのはわかってる。こいつにゃ〈解放戦線〉の活動からは離れて、実家のある恵山ヘサンで暮らしてもらうことにする」

さん。彼女は〈我々〉の仲間を〈党〉に売り、勝元スンウォン星蓮ソンリョンを死に追いやった。そして先日、我々を〈党〉の罠に誘導しようとした張本人だ。そのことに対して、あなたは『仕方がなかった』で済ませるつもりなのか」

 ぼくは呆れを隠さず、にそう告げた。まだ無津呂が死んだと決まったわけではないが、彼を〈党〉に売った裏切り者を、ぼくは立場上許すわけにはいかないのだ。それはもわかっているのか、申し訳なさそうにうつむき、ぼくに許しを請うための算段をしているようだった。とことん身内に甘い男だ。そんなことで、よく朝鮮全土の〈解放戦線〉をまとめてこれたものである。それとも、泰希テヒとは単なる〈解放戦線〉の同志以上の関係なのだろうか。

 拉致らちがあかないので、ぼくの方から沈黙を破ることにした。

「まあ、いいでしょう。我々が今やるべきは無津呂の救出と、工作活動の継続。泰希テヒの処遇について揉めている暇はない」

「ずいぶんあっさり引き下がるんだな」は眼を丸くして言った。

「合理主義なのでね」

 ぼくが今するべきは、まず作戦を成功に導くことで、正義を執行することではない。勝たなければお話にもならないのだ。とは言え、作戦を終えれば、泰希テヒには〈我々〉を裏切った落とし前をつけてもらうことになるだろう。その執行役がぼくになるのか、他の誰かになるのかはまだわからないが。

「その代わり、ひとつ条件がある。宋泰希ソン・テヒ。あなたは〈解放戦線〉の一員として、我々に協力する意志はあるか」

「ええ。もちろんよ」泰希テヒは即座に承諾した。

「では、宋赫ソン・ヒョクフェイク情報を流し、朝鮮人民軍の動きを撹乱かくらんしていただこう」

「う。それは」

 ぼくの提案に対し、泰希テヒは露骨に顔を曇らせ、眼を泳がせた。無論そんなことをすれば、弟のヒョクにかけられたスパイ容疑はますます濃厚になるだろう。しかし泰希テヒの協力で朝鮮人民軍の動きを操作して無津呂をうまく救出できれば、姉さんからの恩赦も期待できるかもしれない。

さん。構わないかな」

 ぼくがに確認すると、彼は躊躇ためらいなく首肯しゅこうした。

「俺は構わねえよ。まさか勝元スンウォンを殺した野郎が、よりにもよって泰希テヒの弟のヒョクだったなんてな。仲間に引き入れようとかとんでもねえ話だ。美煐ミヨンがヒステリー起こすのも無理はねえ。俺が甘かった」

 そして逡巡している泰希テヒの肩に手を置き、こう付け加えた。

泰希テヒ。やるしかねえよ。ヒョク勝元スンウォン星蓮ソンリョンを殺しちまったんだ。辛いのはわかるが、お前はそれだけのことをやっちまったんだ。これでゆるしてもらえりゃ御の字ってもんだ。頼むよ」

 ゆるすと言った憶えはないがね。

 に説得され、泰希テヒはようやく諦めたように項垂うなだれ、了承した。

「決まりだな」

 そうと決まれば善は急げ、である。こうしている間にも、耀徳ヨドク収容所で無津呂が拷問を受け続けているかもしれない。作戦決行は、早ければ早いほどいい。ぼくは作戦会議を行うため、足早に真茶や忍美のいる寝室へ向かった。


 突如、からんからんという音が鳴り響き、居酒屋・大浦洞テポドンの入口扉が開かれた。


「悪いな。今日はもう店じまいだ」招かざる客にがそう言った。

 だが客の姿を見るや否や、ぼくたち三人、特に泰希テヒの顔が強張った。

 扉の前に立っていたのは、朝鮮人民軍精鋭〈千里馬チョンリマ部隊〉隊長、宋赫ソン・ヒョクだった。

 恐慌状態に陥った泰希テヒが、首を横にぶるんぶるんと振った。

ヒョク。な、なぜあなたがここに……ち、違う。私じゃない。私は彼とはもう」

 ヒョクは冷淡な眼で泰希テヒを見おろし、邪悪な笑みを浮かべた。

「ああ。姉貴のせいじゃないよ。最後に会った時に、こっそり発信機を仕掛けさせてもらった」

 まったく悪びれもせず淡々とそう言ってのけたヒョクに対し、泰希テヒは「きい」と金切り声をあげ、もはや弟にあらずと殺意むき出しの形相で腰に下げたトカレフを抜いた。


「ごぽ」


 直後、泰希テヒの口から赤い滝が、流れ落ちた。

 ぼくは眼を疑った。

 泰希テヒの背中から、真っ赤な腕が、生えていた。

 いつの間にか彼女の眼の前にいた、赤い全身タイツに身を包んだ謎の男が、〈拳〉で彼女の腹に、大穴を開けていたのだ。

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