第二話「蹂躙」

 どんどんどんどんどんどんどんどんどん。

 さっきよりも幾ばくか強く玄関の扉がたたかれ、ぼくは思わずのけぞった。

「警察だ。朱井空あかいそらくぅーん。おとなしく出てきなさい。悪いようにはしないから」

 警察がぼくに、何の用だろう?

 捕まるようなことをした憶えは、まったくなくはない(バイト先での経歴や性別を偽った詐欺罪および私文書偽造罪)が、たぶんそんな瑣末さまつなことではなくて、もっと別の、想像はしていたがどうにもならないので無視していて、どうか訪れないようにと神に祈ることしかできなかった最悪の未来が、とうとうやってきてしまった気がして、ぼくは恐慌状態に陥った。

 もし彼らが、母さんを殺した連中の関係者だとしたら?

 どうしよう。

 このまま居留守を使ってやりすごしてしまうべきだろうか。

 いや、部屋の電気も換気扇もついている。

 窓から逃げるか?

 ここは二階だから、飛び降りて逃げようと思えば逃げられるだろう。

 けど、その後どうする?

 ぼくにはかくまってくれるような身内も友人もいない。

 残された星子のことは?

 ……数瞬考えても、妹を捨てて逃げるという決断は、ぼくにはできそうになかった。

 それに、まだ彼らがぼくを殺しにきたと決まったわけじゃない。物事を何でも悪い方向へ持っていくのはぼくの悪い癖である(もっともそういうネガティブ人間の方が生き延びる可能性は高いだろうけれど)。

 だったらせめて、最悪でない未来の可能性に、賭けてみよう。

 玄関の鍵を開け、チェーンロックを外し、ぼくは恐る恐る扉を開けた。

 身長一九〇センチほどもある、西洋人のように大きく突き出た鼻と、分厚いたらこ唇、そしてどこか愛嬌を感じさせる丸い眼が特徴的な大柄の中年男が、警察手帳をまるで印籠いんろうのごとくぼくに突きだした。

 黄金の桜の代紋の下に「警視庁」の三文字。そして彼の顔写真の下に警部補・安那子善三あなごぜんぞうと書かれている。

「朱井空くん。覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕する」

 安那子は言うやいなや、軍手のようにぶ厚い手をぼくの肩にどすんと乗せ、家から引っぱりだした。

 覚醒剤だって?

 いわれなき罪状にぼくの頭はますます混乱を極め、頭の中がまっ白になっていた。

 むろんぼくは覚醒剤を使ったことなどないし、持ってもいない。見たことすらないのだ。

 まさか、星子が?

 ……と、一瞬思ったが、すぐにその思考をかき消す。いくら不良少女のような姿形なりをしていても、麻薬に手を出すほど彼女は愚かではないだろう。この朱井空の妹だぞ。

「そ、そんなばかな。何かの間違いです」

 震え声で弁明するぼくを尻眼に、警官のひとりが土足で家に侵入し、まるでそこにあることがわかっているかのように寝室へ直行し、ふすまの戸を開けた。

 するとあろうことか、白い粉の入った透明のジップロックが、大量に雪崩なだれ出てきたのだ。

「嘘だ」

 ぼくは思わず叫んだ。

 昨日の時点では、そんなものは襖の中に存在しなかった。

 でっちあげだ。

 きっとぼくを陥れるために、誰かが留守中に侵入して仕組んだにちがいない。そうに決まっている。

「弁明は署でゆっくりと聞かせてもらうよ。朱井くぅーん」

 安那子はもはやそのいやらしい笑みを隠そうともせず、ぼくを拘束し、その手に手錠をはめようとした。


「ちょっと。兄貴に何やってんの。あんたら」


 ふいに、我が妹の声が聞こえた。

 星子がぼくを拘束する安那子の背後に佇立ちょりつしている。その手には、近所のケーキ屋シャトー・プラチーヌの袋。もしかしてこの兄への誕生日ケーキをこんな時間まで選んでくれていたのか、と、場違いな感激が一瞬頭をよぎった。

 安那子はぼくを拘束したまま、星子に眼を向け、口角をぐにゃりと、つりあげた。

「ああ。そういえば、朱井くぅーんには娘もいたんだったか。これはまたお母さんに似て、美人だこと」

 そして急になだめるような、妙に優しい口調で、続けた。

「君のお兄さんには何もしないよ。ちょっと署で聞きたいことがあるだけだよ」

「う、うそだ。パパとママも、そうやって拉致して、殺したんだろ。この、人でなし。きちがい」

 ぶるぶると震えながらも、星子は安那子を鋭い眼つきでにらみつけ、声を荒げて叫んだ。父さんと母さんの死について、彼女もやはり不審に思っていたのだ。

 そして安那子に、スマートフォンをまるで印籠のごとく突きだし、星子は言った。

「動画、撮ったぞ。兄貴を離せよ。さ、さもないとネットで全部ばらしてやるから」

 安那子は面倒くさそうに肩をすくめ、ため息をついてこう言った。

「まったく最近の若者は。礼儀を知らないばかりではなく、現状把握能力もないとは。いいかね、お嬢ちゃん。我々にたてつくということはね、国家への反逆なのだよ。公務執行妨害。犯罪なの」

 だが、星子は一歩も引かなかった。そんな星子にぼくはある種の頼もしさすら憶えたが、無論それ以上に彼女の身が気がかりだった。

「やめろ。星子。逆らっちゃだめだ。携帯を捨てて、逃げてくれ」

 震え声でぼくは言ったが、星子はそんな兄の哀願も聞く耳持たず、自分の倍はありそうな屈強な警察の猛者たちに対し、ぶるぶる震えながらも、続けた。

「ほら。あとボタンいっこで、アイチューブにアップできるぞ。そしたら、おまえら困るだろ。兄貴を解放して私たちを逃してくれたら、あとで消すから」

 星子の必死の交渉も虚しく、安那子は余裕の態度を崩さなかった。

「何か勘違いしているね君は。知らないかもしれないが、実は彼は大量の覚醒剤を所持していたんだ。ひとりで使うにはあまりにも量が多すぎる。貧乏生活に厭気がさして、薬でも売ってひと儲けしようとでも考えたんだろう。最近はそういう若者が増えていると聞く。まったく、嘆かわしい。つまり我々はね、ただ法的手続きに則って空くぅーんを逮捕しようとしていただけだよ。何もやましいことはしていない。アイチューブだか何だかしらんが、やりたければ勝手にやりたまえ。おい。おまえたち」

 いいかげん痺れをきらしたのか、安那子があごで指示を出すと、彼の部下の警官たちはぞろぞろと星子を取り囲み、力ずくでアパートの中へ引きずりこみ、床に押し倒し、スマートフォンを奪い取ってしまった。持っていたシャトー・プラチーヌの袋は妹の手を離れて床に落下、安那子の三十センチはあろうかという黒光りする巨大な革靴に踏みつけられ、つぶれた箱の中から苺のデコレーションケーキが飛び出し、小豆あずき色のフローリングを白く染めあげた。箱の中から「お誕生日おめでとう」と書かれたチョコプレートが見え、ぼくは思わず「あ」と呻いた。

 安那子は星子のあらわになったパンティや太ももを見て、舌なめずりをした。

「ふん。他愛もない。それにしても、何て格好だ。まったく。子供のくせに色気づきおって。大人を挑発するのも大概にしなさい。そういういけない子には、大人がしっかりと教育してやらないとね」

 安那子は、星子のブラウスの襟元に手をかけ、左右に思いきり引き裂いた。

「きゃ」と、星子は短い悲鳴をあげた。

「妹に何をする」

 ぼくは反射的に安那子に手をのばした。


 べき。


 いやな音と同時に、ぼくの左腕を、すさまじい衝撃が襲った。

「え」

 警官のひとりが、いつの間にか腰から警棒を抜いていた。

 そして、ぼくの前腕に、新しい〈関節〉ができあがっていた。

 皮膚が大きく裂け、赤黒い血肉の中から白い骨が顔を覗かせ、すぐにじわじわと血がにじみ出し、床にこぼれ落ちていく。

「あ、ひいいい」

 そんな世にも恐ろしいホラー映像を見せられ、そして数瞬遅れてやってきた、これまで体験したこともない、あまりに耐えがたい激痛に、ぼくは金切り声をあげた。

「静かにしないか」

 もうひとりの警官が、ぼくの鳩尾みぞおちに強烈なボディブローをたたきこんだ。ぼくはぐえとうめき、激しい衝撃と痛みに襲われ、横隔膜が痙攣けいれんし、しばらく呼吸ができなかった。怒りと悔しさと悲しさと無力感がいっぺんにやってきて、ぼくの頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していく。涙があふれ出し、頬を流れ落ちていく。

「情けなあーい。男が簡単に涙を見せるんじゃないよ。まったく」と、安那子が吐き捨てるように言った。

 今度は星子が金切り声をあげた。

「何するんだよ。やめろよ。それでも警察か。やめろ。やめろってば。きいいい」

 最初こそ気丈に抵抗していたものの、何度か頬を張られ、ブラウスを引き裂かれ、ブラやパンティを引きちぎられると、星子は恐怖に顔を歪ませ、涙をぼろぼろこぼしながら、ひたすら許しを乞い願うようになっていった。

「やめろ。やめて。やめて。いや。許して。いや。いや」

 むろん哀願したところで、安那子の暴走が止まる気配はなかった。彼はそのままベルトを外し、ズボンを脱ぐと、まるで我が家にでもいるかのように、リビングのソファに放り投げた。

「助けて。お兄ちゃん」

 妹のそんな声が、ぼくの胸に突き刺さった。

 むろん、助けてやりたい。

 でも、抵抗したら殺されるという恐怖感が、それを上回ってしまった。

 腕と同時に、ぼくの心は完全にへし折られてしまった。

 この折れ曲がって骨が飛び出た左腕のように、ぼくは警棒で全身の骨という骨を打ち砕かれ、殺されてしまう。そう考えると体がすくみ、腰は抜け、立ちあがることすらままならなかった。

「やめてください。お願いします。何でも言うとおりにしますから。妹だけは。お願いします。お願いします」

 何てざまだろう。

 妹が眼の前で犯されても、ただ泣き寝入りし、得られるはずもない許しを請うことしかできない。

 この無念が、悔しさが、わかるだろうか。

 圧倒的な暴力を眼の前に、話しあいなどまったく意味をなさない。暴力では何も解決しないなどというのは欺瞞ぎまんであり、人間の歴史を変えるのはいつも暴力だということを、身を以って、思い知らされた。

 こいつらを今すぐ全員殺すことができるなら、ぼくは悪魔に魂でも何でも売り渡すだろう。

 どんな犠牲を払ってでも、この悪党どもを皆殺しにできるだけの力を手に入れたいと、願うだろう。

 だが、それだけだった。

 結局ぼくは何もできず、星子が一生もののトラウマを植えつけられていく様子を、ただ傍観していただけだった。


「あー」

 ぼくは白痴のような声をあげ、床にうずくまって声を殺して泣いていた星子を、ただ茫然と見つめていた。

 あまりの無力感、絶望感に打ちひしがれていたぼくに、安那子は手錠すらかけず、そのままアパートの外へ連れだした。

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