白金記

Enin Fujimi

第一章「日本編」

第一話「訪問者」

 時々、夢を見る。

 薄暗い群青の、生温かいガラス張りの海の中に、ぼくはいる。

 ガラスの向こうからこちらを見ている女性がいる。

 彼女が誰なのかぼくにはわからないが、ぼくの知っている人に、よく似ていた。


    *  *


 西暦二〇一〇年七月。

 もはや何百回言ったかわからない「ありがとうございました」を今日も口に出し、無言で去っていく客たちにぼく、朱井空あかいそらは頭を下げた。

「空ちゃん、おつかれ。あと替わるから、あがっていいよ」

 頬に冷たい感触。バイトで働いているコンビニの店長(男性。三十九歳未婚)が、夜勤を終えたぼくの頬に冷たい缶コーヒーを当てていた。これから家に帰って寝るというのにコーヒーを差しだすあたりが、この男の思慮のなさを表している。むろんそんなことを口にするはずもなく、その場で缶のタブを開けて一気飲みし、「おいしかったです。ありがとうございました」と朗らかに言うぼくの無邪気な天使の笑顔に、彼は少しあたふたしながら「うむ」とうなずき、その河馬かばに似た顔をすぐレジの方へと向け、引き出しを開けて金を数えはじめた。

「あのさ、空ちゃん。今度の休み、よかったらご飯でも一緒にどうかな。なんて」

 横目でちらちらとこちらを伺いながら、店長は言った。

 なお、誤解しないでほしいが、ぼくは男である。

 そして店長には、ぼくはおそらく女性、しかも自分で言うのもなんだがかなりの美女に見えていることだろう。

 ぼくの趣味は女装。もともと中性的な外見だったせいもあって、中学のとき出来心で母の化粧品を無断拝借し、ネットであれこれメイクのやり方を調べて試していたら、いつのまにか完全に女性と化した鏡の前の自分の姿に驚愕し、そして同時に興奮した。

 化粧の歴史は長く、古代エジプトではすでに目元を強調する原始的なアイメイクが発明されており、我が国日本でも古墳などから出土した埴輪はにわに赤い顔料で顔や体に化粧を施していたといわれている。そして現代、不細工を美人にするのはおろか性別の壁(外見的意味で)すらも超えられるほどに、その技術やノウハウは進化しているのである。

「残念ながら、その日は先約があるので」と、丁重にお断りするぼく。

 特に面白みもないアラフォー男の傾聴ボランティアをするほど暇ではないし、うっかりぼくが男であることが知れても面倒だ。

「じゃあ、その次の休みにでも」と、食い下がってくる店長。

「考えておきます」と、お茶を濁すぼく。

 言いよってくる男どもに性別をばらして幻滅させるのも面白いけれど、こうやって本当の性別を隠して男をたぶらかすのも面白い。叶うはずのない恋にさいなまれる様を見ているのは、実に気分がよかった。時折いやらしい眼でぼくの胸やお尻をちらちら見てくるが、特に不快ということはなく、どちらかといえば疑似餌に釣られる魚類を見ているようで滑稽だった。悪趣味という自覚はあるが、面白いんだからしょうがない。性別も経歴もまるっきり嘘八百の履歴書をろくに裏取りもせず、外見だけで採用を決めるからこういうことになる。まあバイトなんて大体そんなものかもしれないけれど。

 更衣室ですばやく制服の上にコートを羽織る。体のラインがわかりにくく、特に余計なアクセサリーもつけていない。靴は歩きやすいようにと元々スニーカーを履いているので、このまま化粧を落としてウィッグを外せば、ぼくは本当のぼくに戻る。


 一週間ほど前に、母が死んだ。

 死因は窒息死。自宅の風呂場で全裸で口にタオルをねじこまれガムテープを貼られ、局部にバイブレータを突っこまれ、後ろ手に手錠をかけられ、鍵を握ったまま死んでいたという。争った形跡はなく、部屋からはSMグッズが多数見つかり、警察は事件性は薄いと判断。捜査は打ち切られた。なお、ぼくの知るかぎりでは母にそんな趣味はない。

 四年前に父さんが通勤中の交通事故で死んで以来、ぼくは母さんと妹の星子せいこの三人で暮らしていたが、母さんの仕事の都合で三ヶ月ほど前に今の2LDKのアパートに引っ越して、翌日、母さんは突然ぼくと星子に「二人で暮らせ」という書き置きだけして出ていってしまい、以降まったく音沙汰がなかった。警察に捜査願を出しておいたものの何の進展もなく、来たのはただ死んだ、という報せのみ。以来ぼくは星子とふたりで暮らしている。アパートは母さんの友人の所有であるらしく家賃は相場の半分以下だったが、自分の生活費はもちろんのこと、まだ中学二年生である星子を養うためにも、働かなければならない。

 就職も試みたが、二〇〇八年アメリカ発のリーマンショックにより以後今日まで戦後空前とも言われる就職氷河期が続き、ゆうに五十を超える会社に応募したものの、結局高卒のぼくを雇う会社は現れなかった。同期の多くが氷河期を生き延びるべく親の金で大学へと進学していく中、ぼくは起死回生の作戦として、趣味の女装を利用して大企業の面接官をたらしこもう、と、性別を偽って求人に応募するが、どの会社からも連絡は来なかった。こうしてぼくのサラリーマンとしての人生はあっけなく幕を閉じた(まあたとえうまくいったとしても、男女間での年収格差が激しいこの国ではコンビニのバイトに毛が生えた程度の金にしかならないが)。

 生活保護の申請をしに役所へ行っても結果は惨敗で、両親が死に、まだ中学生の妹がいることをしきりにアピールしても、「お前が働いて食わせろ」の一言でばっさり。この日本に神も仏もいるはずがない。

 数字の上でこそ我が国日本は世界第三位の経済大国であるが、長引く不況に少子高齢化、移民や難民の受け入れを強化した結果治安は悪化し、昨年はとうとうコンサート会場での爆弾テロによって多くの死者が出てしまった。愛国党政権はここぞとばかりに世紀の悪法と呼ばれる〈愛国法〉を強行採決。国家保安委員会(日本秘密警察、略してNHKとネット上で呼ばれている)を組織し、国民に対する監視を強化。今や政府に批判的なことを言ったりそれを何らかの形で表現すれば、思想犯として思想刑務所に送られてしまうという噂をときどき耳にする。最近痴漢やら麻薬やらで芸能人や作家が逮捕されているが、彼らに共通していたのは公の場で政府を批判したり、風刺作品を書いていたり、要するに政府に楯突くような〈反乱分子〉であったということだ。

 実は、ぼくは父さんと母さんは政府によって(具体的には日本秘密警察の手によって)消されたんじゃないかと、疑っている。

 父さんは職人気質の頑固親父だったが、愛国党の金権政治やアメリカに対する隷従路線に批判的で、よくデモなどに参加していたし、ぼくや星子には自分の人生のためにも成人したらかならず選挙に行けと口癖のように言っていた。母さんはそんな父さんの政治活動からは一線を引いていたが、父さんの強い要望で一緒にデモに参加することはあったし、そもそも反乱分子の妻というだけでマークされる理由としては充分すぎる。

 だったらその子供であるぼくや星子は? と考え、監視の眼に怯えながら過ごすこともあったが、考えたところでどうにもならなかった。今や国民のことはユアナンバー制度によって収入や資産はおろか、学歴や経歴、病歴、趣味や特技、思想や信仰といった内面的なことまで政府に把握されている。自分や星子の生活のためにも働かねばならず、そのためにはユアナンバーをバイト先に提出しなければならない(それで性別がバレるかとも思ったが、空、なんていう性別不詳な名前のせいかスルーされた。あるいは、店長はぼくが男だと知った上で口説いているのか。だとしたら嫌すぎる)。

 結局政府や秘密警察が父さん母さんを殺した証拠なんてないし、この国で生きていこうとするかぎり、国家に歯向かうということは、父さん母さんの後を追う、ということを意味するのである。そしてぼくが死んだら、星子はたぶん施設で暮らすことになるだろうが、中には職員による虐待が横行していたり、国防軍への入隊を強いられたりとろくでもないところもあるようで、そんな場所へかわいい我が妹を差し出すわけにはいかないのである。


 ぼくの住んでいるアパートの近くにある森の中には小さな池とキャンプ場があり、あまり人気がないため〈変身〉にはうってつけの場所であった。すばやくトイレへと駆け込み、ウィッグやパット入りのブラジャーを外し、化粧を落とす。その間およそ十秒。鏡を覗けば、ついさっきまでとは別人の顔がそこにはあった。男らしさとは縁のない優男だな、と我ながら思う。どちらかといえば母さん似だと思うが、それでもあまり似ていない(星子は母さんに似て、そのへんの大人数アイドルの平均よりはだいぶかわいらしい)。

 頭頂部の髪の生え際からうっすらと白い領域が、冠雪しだした富士山よろしく顔を出していた。

 そろそろ髪を染めなきゃな、と、ぼくは思った。

 これをこのまま放置しておくと、頭頂部が禿げたフランシスコ・ザビエルのような髪型に見えてしまう。

 母さん曰く、ぼくの髪は先天性の遺伝子疾患でメラニン色素が欠乏し、白くなってしまうらしい。所謂アルビノというやつだ。しかし幼少の頃から母さんにしつこく白髪染めで黒く染められていたので、学校や友人にこの病気のことが知れることはなかった。当時はなぜ染めなければいけないのか理解できなかったが、小学校三年の頃アメリカかどこかから転校してきた金髪のハーフの男の子がクラスのガキ大将に眼をつけられていじめられているのを見て、周囲に溶けこんでいじめのターゲットにならないようにするための予防策だったんだな、と、理解した。さらに中学や高校では校則が厳しく、髪を染めるなど言語道断、生まれつきというならば幼少の頃の写真を添付した地毛証明書を提出しなければならず、ほんの出来心で髪を脱色する少年少女あらば、その日のうちに教師が束となって襲いかかり、力ずくで黒く染めあげられてしまった。


 キャンプ場を後にし、アパートへと戻る頃には、ちょうど星子が戸締まりをして学校へと出かけるところだった。

「あ。兄貴。おかえり」

「ただいま」

「ご飯置いてあるから」

「うん。ありがとう」

 それだけ言葉を交わすと、我が妹はウェーブのかかった亜麻色の髪を棚引かせ、小走りで駅へと向かっていった。夜勤から戻ってくるときは大抵コンビニの売れ残りをもらってきて食べているのだが、時々ぼくを労ってか、朝ご飯を星子が用意してくれることがあった。彼女はあまり料理は得意ではなく、スーパーの冷凍物にインスタントのスープ、そして三角にならずまん丸の球状に凝縮されたおにぎり(いわゆる爆弾おむすび)とせいぜい焦げ気味の目玉焼きがついてくる程度ではあるが、そんなことは問題ではない。

 しかし母が死んでしまってから一週間、星子とは会話という会話をしていなかった。夜勤を始めてからぼくは昼間ほとんど寝ているし、星子もこの頃学校が終わってからどこかほっつき歩いているのか、ぼくが夜勤に出てから帰宅するようなことも多くなった。名家のお嬢様じゃあるまいし、帰りが遅くなるときは電話なりメールを寄越してくる(大体が友達の家で遊んでいるという報せだった)ので、特にそれ以上詮索することはなかった。今となっては髪を染めピアスを開け、スカートは短く化粧は濃く、ワイシャツのボタンは外れ、まるで花魁おいらんのように肩を露出させていて昔の面影は見る影もなくなっていたが、中身は相変わらずぼくにご飯を作ってくれる星子のままだ。人間は見た目じゃない。世のおじさんたちが眼のやり場に困るようなあられもない格好で学校に通うのは、軽率で思慮に欠いていてあとで恥ずかしさのあまり枕に顔をうずめて足をばたばたさせるほどみっともない黒歴史になるかもしれないが、彼女が強姦されていい理由にはならない。そんなやつがいたら、兄であるこのぼくが、ぼこぼこにして陰茎を切断して肥溜めに捨ててやる所存である。

 ふと、星子の進路のことが頭をよぎった。

 ぼくひとりの収入では、星子を公立の高校へ通わせるのが精一杯だ(私立学校の天文学的数字な学費を見て、世の親たちは一体どれだけ裕福なんだろうと歯噛みした)。そして、このままだとまず大学へ進学させることはできない。もしどうしてもというなら奨学金を使ってもらうことになるだろうが、給付型でもないかぎり奨学金というのは要するに学生金融で、就職活動に失敗すればただ高額な借金だけが残ってしまうし、実際にこの就職氷河期で奨学金が返せないという若者が増えており、政府は返済を肩代わりする条件で国防軍への入隊を推進している。いわゆる経済的徴兵というやつで、アメリカをはじめとしたいくつかの国ですでに導入されているらしい。ぼくが大学進学をあきらめた最大の理由はこれである。もっとも今の日本の国防軍はまだ志願制で、身体測定や体力試験が存在するので、ぼくはともかく、割と小柄で運動もあまり得意とは言えない星子が入隊できるとは思えないが。

 部屋へ入り、まだほのかに温かかった星子の、裏側の焦げた目玉焼きに塩をふりかけ、ご飯に乗せて食べる。お世辞にも美味しいとは言えないが、そこは家族愛補正がカバーしてくれる。そして早々に朝ご飯を済ませた後は、やはりまだ温かかった、星子が入ったばかりの風呂へと突入した。


 どうやら入浴中に寝てしまったようだ。

 体が痛い。

 窓の外ではすっかり日が傾き、もう夕刻、といったところだろう。一体何時間寝ていたのか、ぼくは。

 とりあえず風呂から上がると、脱衣所に着替えを用意してなかったことに気づく。大声で星子せいこを呼ぶわけにもいかないので、裸のままリビングまで取りに行く。

 リビングの時計は午後五時を指していた。星子はまだ家には戻っていないようだった。

 カレンダーの赤い丸印を見て、ふと思い出す。

 今日は七月十日。

 ぼくの十九歳の誕生日だった。

 去年は母と星子の三人でデコレーションケーキを食べて祝ったものだが、母はもういない。兄の誕生日に妹はどこをほっつき歩いているのか。もしかしてぼくへの誕生日プレゼントを買いに行ったのかもしれない、というほのかな期待もあった。あるいは、ぼくの誕生日のことなどすっかり忘れていつもと同じように友人たちとカラオケにでも行ったのかもしれない。

 だけど、ぼくは考えた。星子がぼくよりも友人とともに過ごすことを選んだのであれば、それはそれでいい。母が死んでからずっと元気のなかった妹が、それで少しでも元気を取り戻してくれるなら。

 しかし、午後八時を回っても、星子は帰ってこなかった。

 スマートフォンを確認してみたが、特に星子からの着信もメールも来てない。これまでも夜遊びをすることはあったが、この兄には欠かさず連絡を寄越していたので、何だか心配になってしまう。あまり束縛するようなことはしたくないが、一応安否確認の電話でも、と、思ったその矢先……

 ぴんぽおーん、というインターフォンの音で、ぼくの思考は中断した。

 また新聞か宗教の勧誘かな、と、ぼくはなかばうんざりして玄関のドアスコープを覗きこんだ。


 ……警察?


 三人の制服姿の警官と、彼らを率いるように背広姿の大柄な中年の男がひとり、前に立っていた。

 どんどん、と、今度はけたたましく玄関の扉がたたかれた。

「こんばんわー。警察の者です。朱井さーん。開けて下さーい。いるのはわかってますよオー」  

 まるで犯罪者に対するような、高圧的で横柄なその態度に、ぼくの頭は混乱を極めていた。

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