第二十四話「地獄」

『私は今、〈白金しろがねつるぎ〉とともに、ビル全体の状況を確認しながら、警察や消防隊とも協力してヘリで上層階に取り残された人々の救護にあたっています。アルマと一緒に屋上まで来てください』

 補足しておくと、〈白金の剣〉とは姉さん直属の精鋭部隊の名前である。

 姉さんの指示を受け、ぼくはすぐに返答できなかった。

 飛行機が衝突して崩壊した箇所は、白金タワーの六十階から六十五階。

 白金学園がある箇所と、ちょうど重なっていた。

 星子せいこ宮美みやびがいたはずの白金学園高等部は、ちょうど真ん中に位置する六十三階。

 まるで、悪い夢でも見ているようだった。

 あきらめろ、ということなのか。姉さん。

 ふたりを見捨てて、逃げろ、と。

『ヒデル。聞こえていますか。アルマと一緒に』

「アルマ。ひとりで屋上まで、行けるね」

 姉さんの声を無視して、ぼくはアルマに言った。

「大丈夫だと思うけど……でも、ヒデル、まさか」

 ぼくの次の言葉を、まるで女性特有の読心術で読んだかのように、アルマは表情を強張こわばらせた。

「ぼくは星子と宮美を助けに行く。君は屋上で姉さんに助けてもらうんだ。いいね」

『正気ですか。あなたは足を負傷しているのですよ。ヒデル。だから任務から外した。ふたりのことは、近くにいる機関の職員に任せるのです。行ってはなりません』

 姉さんの声は平静へいせいそのものだったが、どこか冷たい刃のように逆らいがたい鋭さが、あった。

「だ、だめ。だめ。行っちゃ。死んじゃうよ。お願いだから、一緒に来て」

 アルマもぼくにしがみつき、駄々をこねる子供のように、涙眼で懇願こんがんし続けた。

「行かなきゃいけない」

 ぼくを行かせまいと力いっぱいしがみつくアルマだったが、しょせんは小柄な女の子、ぼくが力任せに振り払うと、あっけなくふっ飛ばされてしまった。

「頼むから、ぼくを困らせないでくれ。アルマ。お願いだ。行ってくれ」

 もはや止めても無駄だと悟ったのか、ぼくの不退転ふたいてんの決意が伝わったのか、アルマは泣きながら立ちあがり、非常階段のある方向へと走っていった。

『まったく。頑迷さは星二せいじ譲りですか』

 姉さんが無線機の向こうで露骨にため息をついた。

「血はつながってなくても、子供は親の背中を見て育つんだよ。姉さん」

『わかりました。止めても無駄のようですね。星子と宮美が見つかり次第、連絡をください。救助に向かいます。こちらでもふたりを見つけ次第、お知らせします』

「ああ。頼んだよ。姉さん。ありがとう。愛してるよ」

 ぼくの言葉に、姉さんは一瞬間を置いてから、ふたたび言った。

『必ず、生還しなさい。ヒデル。もしふたりの生存が絶望的なら、すぐに連絡すること。これは命令です』

「わかった」

 耳もとに当てた手を離し、ぼくは全速力で非常階段とは逆の方向へ走り出した。


 白金タワーには、各階に避難安全区域なる場所が存在する。簡単に言うと、高層ビル火災に備えて消火設備と防炎壁、防煙マスク、除煙設備を備えた一時避難場所で、ぼくの狙いは防煙マスクと消火栓だった。

 すでにほとんどの人が機関職員の避難誘導に従い、非常階段から屋上へと向かっている最中(飛行機が衝突した階の非常階段が寸断されている、となつめ先輩が無線で言っていた)、そこには誰もいなかった。

 防煙マスクと消火用ホースを取り出し、ぼくはエレベーターのある方向へ走りだした。

 非常階段は屋上へ上る人たちで埋めつくされており、下へ降りるのは容易なことではない。それなら、完全にその機能を停止したエレベーターの昇降路から降りた方がまだ早い。

 エレベーターの扉を力ずくでこじ開けると、予想通り大量の煙が充満していた。防煙マスクを装着し、エレベーターシャフトの内部に侵入。扉の脇に通っていたパイプに消火用ホースを巻きつけ、ラペリングの要領で下へと降りていく。充満している煙のせいで視界は極めて悪く、特に下の方はほとんど見えなかった。

 しばらく降りていくと、飛行機の衝突現場付近で火災が起きていたのか、エレベーターシャフト内が熱くなってきた。六十七階の扉の前を通り過ぎると、少し下の方が大きく崩れていて、瓦礫がれきの山によって塞がれているのが、うっすらと見えた。

 瓦礫の山の上に降り、すぐ眼の前にあった六十四階の扉を、力ずくでこじ開ける。六十四階は白金学園大学部があるフロアで、星子と宮美の通っている高等部は、この下だ。

 六十四階部分はビルの外壁が大きく崩落し、炎と煙に包まれていた。

 そして何より衝撃的だったのは、〈犠牲者の海〉だった。

 飛行機衝突時の衝撃で崩壊した壁や棚の下敷きになっている人、炎に焼かれて全身の皮膚が焼けただれてしまった人、煙を吸ってしまったのか大きな外傷もないのに床に倒れている人。

「う」

 あまりに凄惨な地獄絵図と、血や人肉が焼かれた強烈な悪臭の影響で胃液が逆流したのか、食道のあたりに焼けるような痛みが走った。

 くそ。今は狼狽うろたえている場合じゃない。

「た、助け」

 誰かの声が、聴こえた。

 崩壊した壁に足を挟まれていたスーツ姿の中年の女性が、半分血で真っ赤に染まった顔で、こちらを見ていた。

 彼女を助けるべきか。ぼくは一瞬、迷った。

 しかしこうしている間にも、ビルの壁はぼろぼろと崩れ落ち、炎が凄まじい勢いでその領域を拡げていく……

 本来、命に優先順位をつけるなんて、あってはならない。

 白金機関が本気で世界を征服して、人々の上に君臨するつもりであれば、なおのこと。

 でも、今のぼくの中で、星子と宮美を見捨てるという選択肢は、なかった。

 星子と宮美を助けたければ、ここで時間をかけるわけには、いかなかった。

「ごめんなさい」

 震える声で、ぼくは静かに言った。

 自分の無力さが悔しかったのか、涙が自分の頬を伝い落ちていくのが、わかった。

「あ。あ。お願い。行かない、で」

 ぼくというたったひとつの希望を打ち砕かれた彼女の絶望は、どれほど深いものだっただろう。

 ぼくには、想像すらできない。

 フロア内の空気はひどく熱く、全身を異常な量の汗が、濡らしていく。

 炎の向こう側に、複数の人影が見えた。

 瓦礫と炎に遮られて、孤立してしまっているようだった。

 若い男女が、崩壊した壁の向こうを、ただ茫然ぼうぜんと見つめ、手をつないでいた。どうやら若いカップルのようだった。

 がらがら、と、彼らの近くの天井が崩落し、炎はまるで彼らを追い詰めるように、その勢いを増す。

 そして彼らは、崩落した壁の向こう側、背後の灼熱しゃくねつの炎とは対照的な、清々しいほど蒼い空に向かって、共に歩き出した。

「よせ」

 咄嗟とっさに叫んだものの、彼らは手を繋いだまま、倒れこむように、ビルの外へと落ちていった。

「くそ」

 ぼくは歯噛みしながら、しかし星子と宮美を探すため、非常階段からさらに下へと降りていった。時計を確認すると、今は午後三時十六分。飛行機突入は今日の午後二時四十六分ごろだったから、白金タワーに飛行機が衝突してからすでに三十分が経過している。

 ビルはいつ崩壊するかわからないが、しかし六十四階の床の大部分が崩落していないということは、まだ六十三階部分も無事な箇所はあるかもしれない。飛行機が衝突したのは、実際には六十階よりも少し下、五十七階から五十八階のあたりだろう、と、ぼくは推測した。

 六十三階に降りると、そこには異様な光景が広がっていた。

 白金学園高等部があるフロアは、外壁と床の半分以上が崩れ落ち、もはやビルの一フロアと呼べる場所ではなかった。

 そして六十四階同様、逃げ遅れた人々の死体が、そこかしこに、転がっていた。

「星子お! 宮美い!」

 ぼくは大きく息を吸いこみ、防煙マスクを一瞬外して、彼女たちの名を叫んだ。

 返事は、なかった。

 星子と宮美がすでに非常階段から上の階へ無事に逃げ出せた可能性も、考えてはいた。だが無事に屋上まで逃げていれば、姉さんがぼくに無線で報せてくれるはずだ。ぼくの生死がかかっているのに、そんな重要な連絡を忘れる姉さんではない。

 となれば、まだどこかに取り残されているか、あるいは……フロアの崩壊に巻きこまれてしまったのか。

 ぶんぶん、と、最悪の可能性を脳から追い出すべく、ぼくは激しく左右に頭を振った。

 がし、と、何者かが、ぼくの足を掴んだ。

「ひゃ」

 ぼくは思わず、女性のように裏返った悲鳴をあげた。

「たすけて、くれ」

 血に塗れ、片足を失った男性が、わらにでもすがるようにぼくの足を掴んでいた。

「放せ」

 半ば焦りもあったのか、ぼくは男性の手を強く踏みつけてしまった。

 彼はうぎゃあと呻くと、ぼくの足を放し、そのまま動かなくなった。

「星子! いるか! いたら返事しろ!」

「こ、ここです。ごっほごほ」

 煙の奥から細い女性の声がかすかにしたのを、ぼくは聞き逃さなかった。

 宮美の声だ。

 ぼくは声のした方向へ、走り出した。

 道中、折り重なるように倒れていた人を踏みつけてしまったが、正直なところ、今ぼくはそれどころじゃなかった。

「無事か。宮美さん。ぼくだ。助けにきた」

「ヒデルさん。星子さんが」

 宮美は煙を避けるように地面にうずくまっていた。

 そして、そのすぐ脇で、星子が、大きな本棚の下敷きになって、倒れていた。

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