第八十八話「懺悔」
二〇一八年九月四日。ハロルド・ブラックメロンが先日〈終末計画〉の実行を高らかに宣言してからわずか三日でドナルド・プラトン大統領が暗殺された。ぼくはサリーの騎士になってからはヘリオスの工作員としての任務からは外され、結果だけを知らされることとなった。プラトンの護衛の中に白金機関のスパイが数人紛れこんでいたらしいが多勢に無勢、全員抹殺し、こちらの被害は暗殺部隊隊員のひとりが軽傷を負っただけで済んだ。これもひとえにぼくたちが白金機関のスパイや協力者のほとんどを一掃しておいた成果であろう。そして我らヘリオスの目論見通り、死んだプラトン大統領の後任には、ヘリオスの協力者でありハロルド卿の忠実なる
一方で、殺されたプラトンの支持者たちが、アメリカ各地で大規模なデモ活動を連日展開し始める事態となる。プラトンをいともあっさりと殺し、アメリカのメディアの大多数を支配下に置いているヘリオスの力をもってしても、アメリカ国民全員を意のままに操るというわけにはいかない。プラトンを殺したのはかつての副大統領であるマイケル・べンス、あるいはその背後にいる権力者たちだ、と、白金機関や中国国民党のロビイストたちが吹聴しているという情報もある。
親日派のプラトンを排除して反日派のべンスが大統領になり、経済と軍事の両分野で台頭しつつある日本や中国を叩き潰せ、という反日反中キャンペーンが開始され、アメリカ国内の世論も徐々にではあるが、開戦ムードに染まっていく。メディア洗脳恐るべし。
そんなアメリカの動きを警戒してか、日本は中国やロシアに接近し、〈日中露三国同盟〉を締結する。日中露は領土問題を抱えており、関係はあまり良好とは言えなかったが、日本が白金ヒヅルに乗っ取られ、独裁国家と化してからは、アメリカという共通の脅威を持つ者同士、急速に関係を改善しつつある。その判断は正しい。日本は産業改革によってかつての繁栄を取り戻しつつあるとはいえ、GDPはアメリカの半分程度、軍事費では三分の一にも満たない。単独で勝てないなら味方を増やす。基本である。
それからさらに一カ月ほど経ち、ぼくのスマートフォンに久方ぶりに宮美からメールが届いた。ぼくと別れてからまったく音沙汰がなく、サリーの秘書も辞めたと聞いていた。そんな彼女が今ごろ何の用か、と、ぼくは疑念を抱いた。
メールを開き、宮美からのメッセージを読む。
『拝啓。白金ヒデル様。幾分残暑も和らぎ、しのぎ良い日が増えてまいりました(中略)ふたりきりでお会いして、お話ししたいことがあります。大切なお話です。もし私の願いを聞き入れていただけるのであれば、日程や場所の相談をしたいと思いますので、本メールアドレスまでご返信いただきたく存じます。追伸・サリーさんにはくれぐれもご内密に』
サリーには内密に、か。サリーに知られては困るような話だというのだろうか。サリーは今やぼくの
しかしぼく自身、宮美に対する興味はもう露ほどもなかった。もし宮美がこのぼくとの離別を悔い、態度を改め、ぼくの愛をすべて受け入れると言ってきたところで、もうぼくの愛の炎はすっかり鎮火してしまった。もはや手遅れなのだ。
ぼくは宮美にこう返信した。
『元気にしているかい。宮美。またメールしてくれて嬉しいよ。しかし申しわけないが、今ぼくはサリーの騎士だ。サリーに隠し事はできない。よって君と密会するわけにはいかない。君は真面目で誠実な女性だから、いずれきっと素敵な男性に巡り会えるだろう。君が幸せになれることを、心の底から願っている。毎日お見舞いに来てご飯を作ってくれたこと、本当に感謝している。今までありがとう。さようなら』
すると十分後、ふたたびぼくのエイフォーン(多国籍IT企業メロン社製。筆頭株主は何とあのハロルド・ブラックメロン二世)が小気味よいメロディを奏でた。見てみると、宮美からふたたびメッセージが届いている。別れを受け入れたのか、あるいは……
『拝啓。白金ヒデル様。貴方の立場も考えず無理を言ってしまってごめんなさい。わかりました。サリーさんにはお話ししても大丈夫ですので、どうかふたりきりでお会いできませんか。どうしてもお話ししたい、大切な話があるのです。無理を申し上げていることは承知していますが、どうか、お願い致します』
まさか食い下がってくるとは予想外だった。ここまでへり下ってぼくに会おうとする真意は何だろうか。何か裏があるのかもしれない。ここは冷たい言葉であしらうべきだろうか。
「どうしたの。パエトン。難しい顔しちゃって」
ぼくが部屋でスマートフォンと睨めっこしていると、サリーが部屋に入ってきた。
「実は宮美からメールが来ていてね。ぼくに逢いたい、と」
「まあ」サリーは眼を丸くして驚き、それから面白可笑しそうに口角を上げた。「面白いじゃない。パエトン。臨時の休暇を与えるから、宮美に逢ってきなさいよ。うふゝゝ」
晴れてサリーの許可も下りたぼくは、翌日の夕方にニューヨークの郊外で宮美と待ちあわせることにした。念のため時間と場所はぼくの方で指定し、真紅の愛車ポルシェ・918スパイダーで華麗に参上し、少し離れたところにあるホワイトフェイス・マウンテンまでドライブすることにした。
頂上付近にある展望台に辿り着き、ぼくと宮美はニューヨークの百万ドルの夜景を堪能しながら、途中のドライブスルーで買ったハンバーガーを食べていた。鉄柵から下を見おろすと、数十メートル下まで何もない。落ちたら多分、助からないだろう。念のため周囲に意識を向けていたが、今のところぼくたち以外に人の気配はなかった。
「美しい夜景だね。宮美」
ぼくがそう切り出すと、宮美は街のネオンに眼を向けながら、「そうですね」とだけ返した。
だが、君の方が美しい。
いつもなら
暫しの沈黙が続き、何となく気まずい空気が場を支配する。宮美はぼくとの久方ぶりの再会を喜ぶわけでもなく、俯きがちに何かを考えている様子だった。何かを言いたいけど、どう切り出したらいいのかわからない。そんな感じだった。
埒があかないので、ぼくの方から沈黙を破ることにした。
「それで。話ってのは、何かな。宮美」
「実は」宮美は口を開き、そして数瞬
「ごめんなさい。パエト……いえ、ヒデルさん」
「なぜ謝るんだい」
「私が、間違ってました。ヒデルさん。私は今までただ受け身に回っていただけで、あなたの気持ちを考えられなかった。あなたが私を『愛している』と言ってくれても、私はそれに応えてこなかった。私が、愚かでした。言い訳になってしまいますが、私は今までろくに殿方と交際してこなかった。あなたの恋人になれた時、とても嬉しくて、でも何て言っていいのか、わからなかった。でも、今なら言えます。ヒデルさん。あなたのことが、好きです。あなたを愛しています」
宮美の
だが、すべてが遅かった。宮美の気持ちは嬉しかったのだが、今やぼくは完全にサリーの虜だったのだ。
サリーのあどけない少女のような無邪気さと時おり見せる大人の女性としての妖艶さが好きだ。すべてを持って生まれたにもかかわらず恵まれぬ者への慈悲とこの薄汚れた世界の浄化を願い活動するサリーの高潔さが好きだ。雪のように白い肌にまるで夜空のごとく青みのかかった美しいサリーの黒髪が好きだ。すべてを飲みこむ宇宙空間のように深淵なサリーの瞳が好きだ。華奢で小柄な愛らしい体躯に不釣りあいに実るふたつのたわわなサリーの果実が好きだ。夜のベッドで狂ったようにぼくを求めてくる獣のようなサリーが好きだ。マシュマロのように白く柔らかいサリーの唇が好きだ。年甲斐もなく魔法少女のような格好をしてはしゃぎ回るサリーが好きだ。記憶を失ったぼくを無償で介抱してくれて今もなお記憶を取り戻すための治療を受けさせてくれる聖母のようなサリーが好きだ。
ぼくは、サリーを愛している。この命尽きるまでサリーと添い遂げたいと願っている。いつ頃からこう思うようになったのかはわからない。あの夜からかもしれないし、サリーの騎士としてずっと傍に居続けているうちに徐々に惹かれていったのかもしれない。わからない。よく思い出せない。
宮美の肩に手を置き、ぼくはこう告げた。
「君の気持ち、とても嬉しいよ。宮美。ごめんね。ぼくは君の気持ちを疑ってしまった。こんなにも純粋で、真っ直ぐな気持ちを持った君の愛情を。君はぼくのことを『私の王子様』と呼んでくれたのに。ぼくはどうして、君の気持ちに気づけなかったのだろう。本当にごめんね。でも――」
ぼくが次の言葉を躊躇っていると、宮美は
「で、では、許していただけるんですか。もう一度私に、チャンスを与えていただけるんですか」
「いや。ぼくの方こそ君に許しを乞う立場だ。ぼくの方こそ、口先だけで君の本当の気持ちを察することができなくて、ひどいことをしてしまった。サリーとも、その」
ぼくが心底申しわけなさそうに眼を反らせると、宮美はその
「彼女のことは何も言わないでください。私は、何も見ていません」
このぼくの不祥事を、なかったことにしてくれた、全部許してくれた宮美のその度量の大きさにぼくはつい感動してしまった。
宮美は本当に素敵な娘だと思う。少し堅物で恋愛経験値が低いが、真面目で誠実で器量もよく、結婚すれば良い嫁になるだろう。そんな彼女の幸福をぼくは心の底から願っていたし、彼女とよりを戻すのも――
ずきん。
唐突にぼくは激しい頭痛に襲われ、そしてあどけない少女のように微笑むサリーの顔が、脳裏をよぎった。
「ヒデルさん」
宮美が追い打ちをかけるように、ぼくに抱きついてきた。
「宮美」ぼくは動揺を隠すまいと取り繕う。
「あなたを愛しています」耳を赤く染めた宮美が、消え入りそうな声で言った。
ぼくは戸惑った。心臓の鼓動が段々と高まっていくのが、はっきりとわかったのだ。相手に好意を向けられると、自分も相手のことを好きになってしまうという恋愛現象の話は聞いたことがあったが、まさに今のぼくがそんな感じなのだろうか。宮美はこういう嘘を平気でつけるほど器用な女ではない。彼女の胸の奥に秘められた一途な想いが今、言の葉の矢となって、ぼくの
ずきんずきん、と、ふたたび激しい頭痛がぼくを襲い、サリーと過ごしたあの熱い夜が蘇った。
ぼくは一体、どうすればいいんだ。
「愛しています。私の、王子様」
宮美が、今度はいくぶんはっきり聞こえる声で、そう言った。よく見るとその眼尻からは涙がこぼれ落ち、月明りによって白く輝いていた。
『はーいはいはい。これにてハッピーエンド。めでたしめでたし』
ふいにサリーの陽気な声が、拡声器越しに聞こえてきた。
いつの間にか接近していた熊型パワードスーツ〈ブーさん〉に乗ったサリーと、ロボットアニメにでも出てきそうな無骨なパワードスーツに身を包んだ部下数名が、ぼくと宮美を取り囲んでいた。
『実に見事な芝居だったわ。宮美。あなた、スパイの才能あるんじゃないかしら。すべて私の読み通りね。早々に
いつもの陽気な調子で、サリーはさらりとそう述べた。
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