第四十五話「美煐」

「こんなところにぼくを呼び出して、一体何の用かな」

 翌日ぼくは、羅美煐ナ・ミヨンに「話がある」と、居酒屋・大浦洞テポドン擁する革命ヒョンミョンマンションの屋上まで連れ出されていた。

 童顔の美煐ミヨンは、栗鼠リスのように愛くるしいそのくるっとした眼で、ぼくにねだるような上目遣いで、こうささやいた。

「その。私も日本で暮らしたいんです。さんやここの皆にはお世話になってるけど、いつ〈党〉に殺されるかもわからないし。かと言って、ここを出てまともに働いても暮らしていけるとは思えないし。自分勝手なことを言ってるのは、わかってます。日本語も必死で勉強しますし、日本では自立した生活を送れるようにします。もちろん、ちゃんとお礼もします」

 緊張した様子で生き残るために必死にぼくというわらにもすが美煐ミヨンの姿はとても痛々しく、ぼくは少し同情してしまった。が、これはぼくの一存で決められることではないし、ここでふたつ返事で聞き入れてしまえば、ぼくのポケットマネーで彼女を養うことになるかもしれない。同じような境遇にある者はこの国に何百万といるのに、ぼくにとって何の関係もない美煐ミヨンだけを救うというのも、またおかしな話である。

「あのね、美煐ミヨンちゃん。残念だが、ぼくは慈善事業をしに来たわけじゃないんだ。君はまだ学生だよね。日本の高校に通いながら生活していけるだけのお金があるのかい。ないと言うのなら、どうするつもりなのかな。ぼくに養ってくれ、と、そう言うのかね」

 ぼくに冷たく一蹴されると、美煐ミヨンは首を横に振った。ぼくはそのまま続けた。

「君のお父さんには助けられたが、我々が約束したのは、お父さんに何かあった時に君を無事にここまで連れてくることだけだ。さんも、君を養うと言ってくれたじゃないか。君の脱北を手伝って日本で養う、などという約束をした憶えはない。冷たいようだが、我々には君を養う義理も、義務もない」

 ぼくの突き放した態度に、それでも美煐ミヨンは首を横に振り続けていた。

「あの。私、学生じゃないです。義務教育は終えてるし、今年二十五歳なので、日本語さえできるようになれば何とか……」

「えっ。同い年だったのかい」

 ぼくは間の抜けたような顔で頓狂とんきょうな声をあげた。どう見ても高校生くらいの少女にしか見えなかったからだ。いや、高校生だった頃の星子や宮美の方が大人びて見えるくらいだった(なお北朝鮮の義務教育は十二年ある。高校までが義務教育)。

「なるほど。君が学生の身分でないのはわかったけど、日本に移住してすぐに生活できるわけでもないだろう。脱北を手伝うにもリスクがある。それを手伝ったとして、ぼくに一体何のメリットがあるというのかな。ぼくはこう見えても、日本の治安を守る立場の人間でもある。君を日本に連れて行って、食いっぱぐれて犯罪にでも走られてはたまらないし、責任を問われて養わなければいけないリスクに見あう対価を、君は支払えるというのかい」

 ぼくの事務的な返答に、美煐ミヨンは黙りこんでしまった。その小動物的愛くるしさと泣き落としで情に訴えれば何とかなるとでも思っていたのか、ひどく落胆している様子だった。可哀想かわいそうだが、この国で暮らしに困っている人間は彼女だけではないし、姉さんがこの国に自由と民主主義の光をもたらせば、すべて解決するのだ。

「き、聞き入れてくれなければ、あなたたちのことを〈党〉に通報する、と言ったら」

 肩をわずかに震わせ、小さな声で精いっぱいに、美煐ミヨンはぼくを脅迫した。

 やれやれ。

 ぼくは肩を竦め、露骨にため息をついた。

「ますますいやになったね。〈我々〉は目的達成のためには如何なる恫喝どうかつにも屈しない。君は〈解放戦線〉の一員だった羅勝元ナ・スンウォンの娘で、今は〈解放戦線〉に世話になっている身、つまり〈解放戦線〉の一員ということだ。そんな君がぼくたちを〈党〉に売るということは重大な裏切り行為であり、同盟の破棄を意味する。それどころか我々の指導者リーダーは〈解放戦線〉全体の敵対行為と看做みなし、武力制裁を下すかもしれない。事実我々には君たちはおろか、キム政権をも粉砕できるだけの能力がある。それをしないのは、あくまで彼らを利用した方が我々にとって利益になるからだ。〈解放戦線〉と組んだのも、そうした方がより確実に作戦を遂行できるからにすぎない。要するに、ただのビジネスだ」

「あなたたちには、血も涙もないの」

 残酷な現実を突きつけられた美煐ミヨンは、眼尻からぼろぼろと涙をこぼし、とうとう泣き崩れてしまった。こんな国に生まれてさえいなければ、彼女も星子せいこ宮美みやびのように善良で可愛らしい年頃の女性として普通に働き、あるいは素敵な男性と恋に落ちて、幸せな家庭を築いていたのかもしれない。美煐ミヨンのように弱く善良な〈普通の人たち〉を、金暻秀キム・ギョンスのような悪の権力から解放するために、ぼくは戦ってきたんじゃないのか。そう自問もした。でも、哀しいかな。ぼくひとりの力でできることなんて、たかが知れている。

 さすがに美煐ミヨン不憫ふびんに思えてきたので、ぼくは冷徹な態度を一変させ、彼女の肩に手を置き、優しく諭すようにこう言った。

「ぼくたちがこの国を解放してみせるよ、美煐ミヨン。そうすれば、この国はもっと自由で豊かになるし、君はいずれ国を出て日本や他の国に移住することだってできるようになる。だから、それまで待っていてほしい。ぼくたちと〈解放戦線〉の活動を妨害するようなことは、しないでほしいんだ」

 美煐ミヨンは首を横に振って喚き続けた。

「無理よ。無理無理。絶対無理。今まで何人も仲間が殺された。パパだって殺されてしまったわ。あなたは〈党〉の恐ろしさを知らないのよ。勝てるわけない。お願いだから、逃げて。一緒に連れてって」

「おい」

 泣き喚く美煐ミヨンの後頭部に、いつの間にか現れた真茶まさがトーラス・カーブの銃口を突きつけていた。

「何を喚いてるんだこいつは。殺しとくか、とりあえず」

 その無機質な石造りの仮面のように冷淡な表情かおは、彼女の言葉が決して洒落しゃれや冗談ではないことを、物語っていた。

 突きつけられた銃口の冷ややかな感触と真茶の殺気に、美煐ミヨンは短く「ひ」と呻くと、スチル写真にとらえられたように固まり、次第にがたがたと肩を震わせた。

「大方こんな国はもうたくさんだから日本へ連れていってくれ、とでも泣きついてきたんだろう。さもなきゃ私らのことを〈党〉に通報するぞ、と」

 朝鮮語がわからずとも、場の雰囲気や声色で何となくわかるのか、真茶の推理は見事に的のど真ん中を射ていた。

 ぼくは首を横に振り、真茶を止めた。

「よせ。むやみに一般人を殺すなと言っただろう。それに彼女を殺したら、どのみち〈解放戦線〉との同盟はなくなる。それどころか報復されるかもしれない」

 真茶は不服そうにふんと鼻を鳴らし、トーラス・カーブの銃口を下げた。

「甘いやつだな。ヒヅル様なら容赦なくってるだろうぜ」

「姉さんは無闇矢鱈やたらと人を殺したりしない。無礼なことを言うな」

 ぼくが怒気をこめた低い声で言うと、真茶は肩をすくめて「そうか」と面倒くさそうに流し、きびすを返して部屋から出て行った。

 すっかり怯えてしまった美煐ミヨンの肩に手を乗せ、ぼくは彼女を安心させたい一心でこう言った。

「我々の目標が何か言わせてもらおう。君のように善良な〈普通の人たち〉が安心して暮らせる世界を作ることだ。そしてそれは必ず実現する。約束しよう。だから少しの間だけ、待っててほしい」

 美煐ミヨンはぼくの言葉に、ただ小さく頷いた。

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