第十二話「覚醒」
あれからぼくたち
ぼくはあの後タワー内の最先端設備を備えた病院で折れた腕を治し、特に働くこともなく、ただビル内のスポーツジムやプールで体を動かしたり、図書室で本を読み漁ったり、映画を見たり、ゲームに興じたりして時間を過ごしていた。家事は居住区専属のメイドがすべてこなし、ぼくが望めば欲しいものは白金ヒヅルが何でも買い与えてくれた。試しに始めたFXで何百万も溶かしても何の
最初は白金ヒヅルの厚意を疑っていた星子も、次第にぼくたち兄妹を援助してくれる恩人として受け入れ、新しい学園生活にも慣れ、友達もできたようだった。以前とは比較にならないほど
だが一方で、ぼくはこの生活に段々と疑問を抱くようになっていった。
白金ヒヅルからただ一方的に与えられるだけの、今の生活を続けていいのか。後で借金の
ぼくたちを支援する理由を訊くと、白金ヒヅルはこう答えた。
『姉が弟を助けるのに、理由が必要ですか』
たしかに彼女は世界の長者番付に名を連ねるレベルの金持ちだが、果たして弟のぼくがかわいいという理由だけで、こんなずぶずぶに甘やかそうとするだろうか。むしろ本当にかわいい子には旅をさせようと考えるのが、親心ならぬ姉心ではないだろうか。
ちゃらりーん、と、ふいにぼくのスマートフォンにメッセージが届いた。
白金ヒヅルからだった。
ビル内のコンサートホールで彼女が
仕事もなく暇を持て余していたぼくに断る理由はなかったし、これだけ世話になっているので彼女には頭が上がらない。ふたつ返事でOKした。
指定されたコンサートホールは白金タワーの五階にあり、まるでルネサンスの巨匠が描いたような豪華
正面の壇上には巨大なパイプオルガンが設置されており、しばらくして黒の燕尾服を着た長身の金髪の女性が現れ、ぼくたちに深く一礼すると、パイプオルガンの前に座った。
「お待ちしていましたよ。ヒデル。今日のコンサートは貸切です。彼女の演奏は芸術ですよ。今日はふたりだけで楽しみましょう」
直後、壇上の名も知らぬ奏者は、いきなり手を左右に大きく広げ、ぼくが小学校のころ音楽の授業で聴いた、たぶん日本人の大半が知っている名曲、バッハのトッカータとフーガ・ニ短調の特徴的な旋律を奏ではじめた。大きなコンサートホール内の空気を、パイプオルガン特有の神聖な音色が満たしていく。元は神への音の捧げ物を紡ぐための神聖な楽器であり、その建造には膨大な費用がかかった、と、音楽の授業で習った気がする。
「最近どうですか。ヒデル。元気に過ごしていますか」
白金ヒヅルは、唐突にそんなことを訊いてきた。
「あなたには本当に感謝しています。白金さん。ぼくのことばかりか、星子の面倒まで見ていただいて」
ぼくがそう言うと、白金ヒヅルは少し露骨に、残念そうにため息をついた。
「まだ姉とは呼んでくれないのですか。ヒデル」
ぼくはその言葉にはっとして、あわてて取り
「あっ。ごめんなさい。じゃあ姉さん、と、呼ばせていただきます」
ぼくが律儀に深々と一礼してそう言うと、姉さんはどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「無理強いはしません。事情が事情とはいえ、十八年間まったく音沙汰もなかった
「いえ。そんな。謝らないでください。姉さん。命を救ってもらったばかりか、住む場所まで用意してもらって、何から何まで世話してもらって。ぼくが謝りたいくらいです。何だかその、穀つぶしみたいで」
心のどこかで負い目を感じていたせいか、ぼくは姉さんを直視できなかった。
「自分を卑下するのはお止めなさい。ヒデル。あなたを愛する者たちに失礼です」
姉さんに真剣な眼差しではっきりと言われ、ぼくは
「だから、その、ぼくにも何か、役に立てることはないでしょうか」
ぼくのその言葉を待っていたかのように、姉さんは口角を吊りあげた。
「実は、今日はその話をするために、あなたをここへ招待したのですよ。ヒデル」
姉さんのその黄金の瞳はぼくからオルガン奏者に向けられ、ぼくは姉さんと少しの間、その荘厳にて美しい音色を堪能していた。
「あなたは、今の日本や世界の現状について、どう考えていますか」
唐突に、姉さんはそんなことを訊いてきた。
「どうって」
ぼくが答えに詰まっていると、姉さんはさらに質問を重ねた。
「今の日本、世界は、人類にとって素晴らしい楽園だと思いますか」
「いいえ」
ぼくは即座に否定した。それが呼び水になったのか、思いつくままに続けた。
「科学は進歩していってるし、年々便利な世の中になっていってるが、それでぼくら庶民の暮らしがよくなったかと言えば、そうじゃない。戦争やテロリズムの脅威は年々増しているし、貧富の格差が広がったせいで、貧乏で凶暴な独身の若者が増えて進む少子高齢化、失われた二十年なんて情緒的な言葉でごまかして何も変えてこなかった結果、新居なんて夢のまた夢、親から受け継いだ家も修理できずに老朽化して、道路や建物もぼろっちくなって、まるで老人ホームのような街が増えた。まじめに勉強すればいい人生が待っているなんて大嘘で、どんなに苦労して受験戦争を勝ち抜いても、いつ
急に
姉さんは若干意地悪そうに眼を細め、こう訊いた。
「では、あなたは世の中を変えるために何かをしてきた、と」
姉さんの問いに、ぼくは即答した。
「父さんと一緒にデモに参加したり、議員に手紙を書いたりしたことくらいなら」
実際に一家総出でイラク戦争に反対するデモに参加したり、父に
「なるほど。なるほど。すばらしい。おほゝゝゝゝ」
何がツボに触れたのか、姉さんは突然派手な黄金の極楽鳥が描かれた扇子を広げ、口もとを隠して笑いだした。
「それで。あなたは何かを変えられましたか。お父様と行ったデモは、世論を動かしましたか。議員さんは、手紙の返事をくれましたか」
姉さんの少し意地悪な質問に、ぼくはただ
「そうでしょうね。社会制度とは本来、権力を手にした者たちがそれを利用、維持するために警察や教育、団体などを支配するためのもの。何の力も持たない一般人が、そこから逸脱せずに世の中を変えようと思っても、よほどセンセーショナルな事件でも起きないかぎり難しいでしょう」
「ではテロでも起こせと言うんですか。どこかのきちがいみたいにトラックで歩行者天国に突っこんだり、火だるまになってビルから飛び降りろ、と」
「そうではありません。そんなことをしてもあなたは狂人として社会から抹殺されるだけ。もっと頭を使いましょう」
ぼくが興奮して反論すると、姉さんは子供を
「ぼくのような貧乏人にできることなんて、せいぜいそんなものですよ。選挙に行くとか、デモに参加するとか。ぼくには金も権力も人脈もない。あなたとは違う」
「そうでしょうか。
聞いているこっちが気恥ずかしくなるようなことを、姉さんは平然と言った。
「
姉さんの突然の強い口調と言葉に、ぼくは血の気が引いた。
恐れ
「
理想に酔いしれる独裁者。
ヒトラーやスターリンといった、大勢の人間を虐殺した歴史上の狂人たちが、ぼくの脳裏をよぎった。
「あ、あなたは、この日本で、一体何をするつもりなんだ。暴力革命でも起こすつもりなのか。ぼ、ぼくはいやだ。流血の上に何かを築くなんて。もっと平和的なやり方が」
姉さんはぼくの言葉を遮って言った。
「
姉さんはまるでぼくをいじめるように、とどめの一言を放った。
「わあ」
安那子に犯される星子の姿と、それを眼の当たりにしながら何もできないでいた、あのトラウマが蘇った。そしてがたがたと震えるその手で顔を覆い隠し、ぼくは泣き出してしまった。
「うわあん。母さん」
姉さんは容赦なくぼくの顔から手を強引に引きはがし、反対の手で顎をぐわしと掴み、自分の方へと引き寄せた。鼻先が触れるほどすぐ近くに、先ほどとは打って変わって大きく見開かれた姉さんのふたつの黄金の瞳。そこには神秘的というよりは悪魔的、まるで見るものすべてを焼き尽くす暴力的で禍々しい破壊の光が、宿っていた。
「ああ。やめて。許して。助けて。母さん」
「泣けば許されるとでも思っているのですか。あなたは。明子はもうこの世にはいない。あなたがそんなことでは、今度こそ星子はご両親の後を追うことになるでしょうね」
見た目のか細さとは裏腹に万力のような力で顔を締めつけられ、ぼくは抗いようがなかった。
「い、いやだ。いやだ。星子まで失ってしまったら、ぼくはもう生きていけない。いやだ。いやだ」
「ならば戦いなさい。戦えない者に権利などありません。自由と幸福は決して天から降ってはこない。それが現実です。
とたん姉さんの太陽を模したと思われる黄金の髪飾りが輝き、彼女から後光がさしたかのような錯覚を、ぼくに与えた。姉さんがもはや人ではなく、人類を超越した何か、そう、全知全能の神のように思えたのだ。彼女が世界を変えるのは運命。彼女と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。どんな理想をも実現できる。そんな圧倒的カリスマ、意志を強く持たねば思わず
「あなたは自分の本当の価値に気づいていない。あなたはダイヤの原石です。我々のもとで学び、鍛錬を積めば、やがて世界を変える大器となる。この
姉さんのその言葉は岩清水のごとくぼくの心の奥底まで浸透し、
そうだ。ぼくは何を迷っているんだ。この糞ったれな世界に神も仏もいるものか。この世界には正義も秩序もない。だから父さんや母さんは殺され、星子は強姦された! こんな世界は滅びるべきだ。そして、我々の手で、平和で秩序ある新世界を創りあげるのだ。我々がやらねば、誰がやる!
「倒す。この手で。星子を傷つけようとする腐れ外道どもは、全部全部、ぼくが殺して、肥溜めにぶちこんでやる!」
「あなたと
そう! この
「あなたについて行きます、姉さん! 我々の手で〈完全世界〉を!」
ぼくは拳を振りあげ、美しいパイプオルガンの音色をかき消すような
「大変よろしい。おほゝゝゝゝゝ」
そんなぼくを見て、姉さんは満足げに朗らかな、しかしどこか
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