第七十六話「恋人」
任務を終えると、ぼくは毎回サリーが用意してくれたミラクル・オラクル財団の治療施設の一室に戻る。ここは同財団が運営する、失われし記憶を取り戻すための脳科学研究所兼病院で、正式名称は〈
唯一の救いは、殺風景な部屋で退屈に暮らすぼくのところに、サリーの秘書の
「調子はいかがですか。パエトンさん。何か思い出せましたか」宮美はぼくに訊ねた。
「いや。さっぱり」
ぼくがそう返すと、宮美はやや落胆した調子で「そうですか」と眼を伏せた。
「なあ。宮美さん」ぼくは以前から気になっていたことについて、意を決して宮美に訊いてみることにした。「記憶を失う前のぼくについて、何か知っているのかい。こうして個人で見舞いに来て料理まで作ってくれるし、最初見た時から思っていたんだが、君の視線は、何というかその、特別な感じがするんだ。もしかして記憶を失う前のぼくと君は、恋人同士だったのかい」
「えっ」
宮美は眼を丸くし、頬を赤らめた。
「ああ、間違っていたならごめんね。ただ、君のように美しくて知的な女性が恋人だったらな、と思ってね。ははは」
ぼくが無遠慮にそう言うと、宮美はさらに顔を赤くし、数瞬沈黙した後で、こう切り返した。
「いいえ。間違ってなんかいませんよ。ヒデルさん。私はあなたの……恋人、でした」
瞬間、ぼくの頭に痛みが走った。
「ヒデル……それが、ぼくの本当の名前なのかい」
うっかり口を滑らしたのか、宮美ははっとして口を手で覆い隠した。ぼくの本当の名前を教えるな、と、サリーあたりに口止めされていたのだろうか。
「忘れてください。どのみち、あなたが捨てた名です。……パエトンさん」
「まあ名前なんてどうでもいいさ。それにしても、まさか本当にぼくと君が恋人同士だったなんてね」
「そうですよ。そうです。本当に。ええ」宮美はまるで擦りこむように何度も繰り返した。
「でもね。本当に申しわけないんだけれど、宮美さん、君のことは何ひとつ、思い出せないんだ。自分の生まれ育った場所や、親の顔すらも、すべて忘れてしまった。本当にすまない。君のように素敵な女性を忘れてしまうなんて、男として失格だ。ぼくは」
「そんなことはないです」宮美は突然立ちあがり、興奮気味に叫んだ。「たとえ記憶を失っても、私を救ってくださったあの日からずっと、あなたは私にとっての、王子様です」宮美の眼尻から、数粒の涙が
「ありがとう。宮美さん。君のおかげで、少し元気が出た」
ぼくは力なく微笑み、テーブル越しに宮美の
宮美はストーブのように顔を真っ赤にしたまま、固まってしまった。
クールな人かと思っていたけれど、可愛らしい面もあるんだなあ。
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