第七十六話「恋人」

 任務を終えると、ぼくは毎回サリーが用意してくれたミラクル・オラクル財団の治療施設の一室に戻る。ここは同財団が運営する、失われし記憶を取り戻すための脳科学研究所兼病院で、正式名称は〈幸福病院ハッピー・ホスピタル〉という。ここでSF映画ばりの複雑煩雑奇奇怪怪な装置を頭に被り、小一時間〈治療〉を受けた後、自室に戻るのだ。記憶を取り戻すための治療には時間がかかるようで、ぼくは最低でも半年以上はここに入院することになるらしい。

 唯一の救いは、殺風景な部屋で退屈に暮らすぼくのところに、サリーの秘書の宮美みやびが、仕事帰りにご飯を作りに毎日来てくれることだ。宮美は父親を四年前に失い、母親とはもう六年以上も連絡を取りあってないため、日本にいた頃は働きながら大学に通い、ひとり暮らしをしながら自炊をしていた苦学生だったという。そんな中、勉強に費やす時間を少しでも稼ぐために、手間のかからない最低限の料理しかしてこなかったから、あまり期待はしないでほしい、と。しかしぼくにとっては宮美がわざわざ仕事帰りにここまで足を運んで飯を作ってくれる、その気持ちだけで充分すぎた。

「調子はいかがですか。パエトンさん。何か思い出せましたか」宮美はぼくに訊ねた。

「いや。さっぱり」

 ぼくがそう返すと、宮美はやや落胆した調子で「そうですか」と眼を伏せた。

「なあ。宮美さん」ぼくは以前から気になっていたことについて、意を決して宮美に訊いてみることにした。「記憶を失う前のぼくについて、何か知っているのかい。こうして個人で見舞いに来て料理まで作ってくれるし、最初見た時から思っていたんだが、君の視線は、何というかその、特別な感じがするんだ。もしかして記憶を失う前のぼくと君は、恋人同士だったのかい」

「えっ」

 宮美は眼を丸くし、頬を赤らめた。

「ああ、間違っていたならごめんね。ただ、君のように美しくて知的な女性が恋人だったらな、と思ってね。ははは」

 ぼくが無遠慮にそう言うと、宮美はさらに顔を赤くし、数瞬沈黙した後で、こう切り返した。


「いいえ。間違ってなんかいませんよ。ヒデルさん。私はあなたの……恋人、でした」


 瞬間、ぼくの頭に痛みが走った。

「ヒデル……それが、ぼくの本当の名前なのかい」

 うっかり口を滑らしたのか、宮美ははっとして口を手で覆い隠した。ぼくの本当の名前を教えるな、と、サリーあたりに口止めされていたのだろうか。

「忘れてください。どのみち、あなたが捨てた名です。……パエトンさん」

「まあ名前なんてどうでもいいさ。それにしても、まさか本当にぼくと君が恋人同士だったなんてね」

「そうですよ。そうです。本当に。ええ」宮美はまるで擦りこむように何度も繰り返した。

「でもね。本当に申しわけないんだけれど、宮美さん、君のことは何ひとつ、思い出せないんだ。自分の生まれ育った場所や、親の顔すらも、すべて忘れてしまった。本当にすまない。君のように素敵な女性を忘れてしまうなんて、男として失格だ。ぼくは」

「そんなことはないです」宮美は突然立ちあがり、興奮気味に叫んだ。「たとえ記憶を失っても、私を救ってくださったあの日からずっと、あなたは私にとっての、王子様です」宮美の眼尻から、数粒の涙がこぼれ落ちた。

「ありがとう。宮美さん。君のおかげで、少し元気が出た」

 ぼくは力なく微笑み、テーブル越しに宮美のあごを引き寄せ、彼女の唇に接吻キスをした。

 宮美はストーブのように顔を真っ赤にしたまま、固まってしまった。

 クールな人かと思っていたけれど、可愛らしい面もあるんだなあ。

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