第五十六話「開戦」

 金暻秀キム・ギョンスによって、一発の核ミサイルが日本へ向けて発射された。

 ミサイルが東京に着弾するまで、およそ五分。


 だが、ミサイルは軌道を外れ、東京上空を通過し、太平洋上に落下した。


 金暻秀キム・ギョンスは、まるでこうなることを予見していたように、ニヤリと笑った。

「やはり何か仕込んでいたか。貴様のような狡賢ずるがしこい女狐が、みすみす自国を破滅に導くようなものを我らに与えるはずがない。いざ日本に照準が向けられた際に軌道を外れるよう、技術者に細工させていたのだろう」

 ヒヅル姉さんは富士山と金色の太陽が描かれた派手な扇子を拡げ、その口もとに当てて微笑んだ。

「ほゝゝ。何の話やら、わかりかねますね。ただの誤作動ではないかと」

「どこまでもしらを切る気か。まあいい。そろそろ我が軍の精鋭〈千里馬チョンリマ部隊〉がここへ着く頃だろう。真実は、ゆっくり拷問でもしながら貴様の体に訊いてやる。ミサイルに仕掛けた細工を無効化するまで帰さんぞ」

「ほゝゝゝゝ。〈千里馬チョンリマ部隊〉ですか。凄腕の精鋭揃いと聞いていますわ。しかし、無意味なことはしない方がよいかと」

 ヒヅル姉さんの口もとが、大きくいびつな弧を描いた。

「無意味かどうかはすぐにわかる」

 金暻秀キム・ギョンスも、一歩も退かなかった。

「……残念ですね。あなたとは、良きパートナーになれると思っていましたのに」

 姉さんが素早く腰に手を当て、そのまま両手を前に突き出した。

 ぱあんぱんぱん。

 姉さんの手には、何も握られていなかった。

 にもかかわらず、まるで銃でも発砲したようにこだます撃発音、まばゆく光る発火炎。

 直後。異世界かどこかから召喚したのか、姉さんの手の中に、いきなり黄金のデザートイーグルが出現した。

 そう。白金機関〈兵器開発局〉によって光学迷彩機能が加えられた、姉さんの新しい愛銃であった。

 が、しかし……


「とうとう本性を現したな。女狐が」


 驚くべきことに金暻秀キム・ギョンスは、機械の如く正確な姉さんの早撃ちを、即座に身を低くしてかわしていた。

 金暻秀キム・ギョンスは間髪入れずに腰から一瞬で黄金の〈白頭山ペクトサン拳銃〉を抜き、数発、姉さんに向けて発射した。

 姉さんは〈全能反射〉によって素早く、しかし華麗に横に飛び、弾丸を避けた。

「ふん。俺をただの為政者と思うなよ。キム家に生まれし者は、王として相応しい大器となるため、幼少の頃より朝鮮人民軍に入隊し、厳しい指導を受ける。そんな猛者たちの、血みどろの権力闘争を勝ち抜いた者だけが、朝鮮の最高指導者となれるのだ」

 姉さんは特に驚いた様子もなく、ただいつものように柔和にゅうわな笑みを浮かべていた。

「存じておりますわ。相手にとって不足はありません」

「貴様もなかなかの手練てだれのようだな。権力の座に胡座あぐらをかいているだけの日本の支配層どもとは、ひと味違う。久しぶりにたのしい闘いになりそうだ。おい、右大臣うだいじん。お前は護衛の銀髪の女を殺せ。左大臣さだいじん。お前は緑髪の男を殺れ」

「御意」

 金暻秀キム・ギョンスの背後に控えていた黒スーツの護衛ふたりが、それぞれぼくと真茶まさに襲いかかった。

 右大臣と呼ばれた狐のように吊りあがった眼が印象的な黒スーツの長身の男は、一直線にぼくに向かって飛びかかってきた。

 ぼくは咄嗟とっさに懐からワルサーPPKを抜き、右大臣の頭と心臓目がけて二回、引金を引いた。

 右大臣は両腕で顔を覆い、弾丸を〈防御ガード〉した。

 弾け飛んだスーツの生地の下に垣間見える、黒光りする鋼の手甲。

 おそらく腕だけでなく、全身に防弾鎧でも着込んでいるのだろう。

 右大臣はぼくの手前で大きく横に飛ぶと、足を大きく天高く上げ、ぼくの眉間に狙いを定め、振りおろした。

 踵落としネリョチャギ

 跆拳道テコンドーの達人か。

 ぼくは体捌たいさばきで間一髪右大臣の踵落としネリョチャギを避けると、そのまま彼の顔面に掌底を繰り出した。

 無論ただの掌底と思っていたら、袖の下に仕込まれたナイフに頸動脈けいどうみゃくを抉られることになる。

 だが右大臣は、手甲でぼくの仕込みナイフを受けた。

 ぱきいん、と、疳高かんだかい悲鳴をあげ、ナイフが折れてしまった。

 金暻秀キム・ギョンスの動きは、一兵士のレベルをはるかに上回っていた。各国の特殊部隊の猛者たちと比肩しうるほどの腕前、と言ってよかった。

 が、相手が悪かった。〈人工全能〉であり、引退したとはいえ長年秘密結社ヘリオスのエージェントを務めてきた姉さんが相手では、荷が重かった。

 姉さんは金暻秀キム・ギョンスの放った弾丸を超人的反射神経と流水の如き体捌きで躱し、一気に間合いを詰め、キューバンヒールの先で抉るように、金暻秀キム・ギョンス鳩尾みぞおちを蹴りあげた。

「うげえ」

 金暻秀キム・ギョンスの百九十センチほどもある巨体が宙に浮き、そのまま彼は背中から壁に、叩きつけられた。

 そのまま金暻秀キム・ギョンスけ寄り、黄金銃デザートイーグルの銃口を向ける姉さん。

「安心なさい。今はまだ殺しません。あなたには利用価値があります。今度はわたくしがあなたを、日本へ招待しましょう。歓迎しますよ。キム委員長」

 勝負あった。

 すごい。やはり姉さんは圧倒的だ。

 おのが主の危機に、右大臣と左大臣が、我が身を顧みずにキムに加勢を試みた。

 当然ながら、そんなことを許すぼくではない。

 一瞬の隙を逃さず、ぼくは折れたナイフの先を、右大臣の首に叩きつけた。

「げっ」

 そして首に突き刺さったナイフを容赦なくねじり、さらには横に走らせ、喉を裂き、頸動脈を引きちぎった。

 右大臣の首の裂け目から噴き出た返り血を、ぼくは大量に浴びてしまった。血もしたたるいいオンナ……いや、女装男子。

 すかさずぼくは、左大臣と交戦中の真茶に加勢に行く。

「こいつ、毒針を使うぞ。気をつけろ」男装した真茶が、ぼくの横でささやいた。

 ほぼ同時に、左大臣の投げ放った針の雨がぼくに襲いかかった。

 甘い。甘すぎる。〈全能反射〉を持つぼくに、正攻法は通用しない。

 針の雨は誰もいない空中を穿うがち、ぼくと真茶は息のあったコンビネーションで左右から左大臣を挟み撃ちにする。

 よく見ると、左大臣は女性であった。

 しかしお生憎様、戦場において性別は関係ない。血で血を洗う殺しあいの戦場では、老若男女一切容赦すべきではないのだ。


「そこまでだ」


 突如聞き憶えのある男の叫び声が、室内に響き渡った。

 姉さんの足下で無様に伸びていた金暻秀キム・ギョンスに、ふたたび笑みが戻った。

「いいところに来たぞ、千里馬チョンリマ部隊。彼奴らはこの金暻秀キム・ギョンスたばかり、我が国を乗っ取ろうと画策した朝鮮の敵だ。速やかに処刑せよ。ただし中央の太陽の女、白金ヒヅルだけは殺すな。生かして捕らえ、拷問にかけるのだ」

 勝ち誇ったように意気揚々とした金暻秀キム・ギョンスが、千里馬チョンリマ部隊の中央にいる隊長・宋赫ソン・ヒョクに命じた。

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