第五夜


「オジサン……いる?」


 明かりを消した部屋の中、香乃はベッドに寝転びながら呼びかける。返答はない。


「いないなら、いいんだけどさ」


 香乃は布団を被り直して瞼を閉じると、ひとりごちるように続けた。


「――オジサン。あたし今、お父さんとちょっとだけ話してきたよ。ほんとにちょっとだけだけど……ケンカ以外で話をしたのは、めちゃくちゃ久しぶりだったかも」


 中学生の後半くらいから、香乃は家族と一緒に過ごす時間が減っていき、話す機会も少なくなっていた。学校のことや友だちのこと、食卓で近況などを尋ねられれば答えるけれど、自分の方から積極的に話しかけるのはあまりなく、家では自室に閉じこもっていることがほとんど。そんな状態だったから、毎日仕事で忙しく、夜遅い時間に帰ってくる父とは特に接する機会が減った。

 

 普段ほとんど話をすることがなく、たまに口を開いたかと思えば、小言や説教ばかりしてくる父親に、香乃は苦手意識を募らせていき、だんだん刺々しい態度を取るようになってしまった。

 

 昔はもっと、仲良しだったはずなのに――


「たぶん不器用だったんだろうね。あたしも、お父さんも……」


 ほんとは嫌いなんかじゃないのに、お互い変な気恥ずかしさとか強がりとかで上手に接することができなくて、溝がどんどん広がったんだろう。


「……家族だからさ。似た者同士だ」


 苦笑する。温和で優しい母よりも気難しくて強情な父の方が、香乃は自分によく似ていると思った。だから、


「明日からはもうちょっと、その……普通にお話ししてみるよ。いつもオジサンと話してるみたいに……ケンカしないよう気をつける。お父さんがぐちぐち言ってくるのは、別にあたしが嫌いなわけじゃないって、なんとなくわかったし……あたしもお父さんのこと、思ってたほど嫌いじゃないってわかったからさ」


 それに気がつけたのは――


「オジサンのおかげだよ。オジサンが向き合わせてくれたんだ。今まであたしが見れてなかった……見ようともしてなかったものと」


 開いた溝を埋めるのに、必要なのは『きっかけ』だった。それをくれたのはオジサンだ。十五センチの、小さいオジサン。


「……ありがとね」


 ぼそりと呟く。姿を見せないオジサンが、ここにいるかはわからない。けれど影からこっそり見守ってくれているのを期待しながら、香乃は眠りに落ちるのだった。

 

 ――その、翌日からである。


 初めて出会った夜から欠かさず毎日、絡みにきてくれていたオジサンが、香乃の前に現れなくなったのは……。


「……ふわあ。ねむ」


 一週間後。中間テストが無事終わり、週末は思う存分友だちと遊んで、迎えた月曜の朝。重たい瞼を擦りつつ香乃が一階に降りると、父親が食卓についており、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。


「おはよ」


 香乃の口から自然に挨拶が出る。

 新聞から顔をあげ、父も「……おはよう」と返した。そのやり取りを見て、キッチンにいる母が柔らかく笑む。ほんの一週間前までは、あり得なかった光景だ。

 

 香乃は自分も食卓の椅子に座ると、ぼんやり周囲を見回した。

 棚の陰とか小物の後ろ、部屋の隅に視線をめぐらせてみるが、特に変わったところは見られない。香乃は物憂げな溜め息を吐く。


(オジサン、今日もいないなあ……)


 香乃が父親と仲直りできた後。オジサンは、まるで最初からそれが目的だったとでも言わんばかりにパタリと姿を現さなくなり、香乃の前から消えてしまった。

 たぶん、実際そうだったんだろう。あの親切なオジサンは香乃と父親の仲を修復するために現れ、積極的に絡んでくれていたのだ。

 

 それを嬉しく思う反面、やっぱり寂しくもあった。ただ、


「どうした? なにか悩みごとでもあるのか?」

「……ううん。別に」


 香乃には父親がいる。オジサンと話す時間が減ったぶん、父たち家族と接する時間が増えればいいと香乃は思った。


「なんでもないよ。ねえ、お父さん」


 オジサンについて考えていたらふと気になったことがあり、香乃は尋ねる。

 いつも小言や説教でしか口を開かない父がなぜ、あの日の夜に限って声をかけてきたのか。香乃が勉強していると、誰の口から聞いたのか。不器用な父の背中を、一体誰が押したのか。答えは、きっと――


「……『小さいオジサン』って知ってる?」


 香乃の口からその名が飛び出した瞬間。父が目を剥き、飲んでいたコーヒーを盛大に噴き出した。

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