~3~

「指の包帯、取れたんだね」


二学期の始業式の日に久しぶりに教室で会った宇原は、挨拶をするなりそう言った。


「うん。今度は、ちゃんと治ったと思う」

「どれ」


彼女は保護者かなにかのようにぼくの右手をとって、指先を眺めた。


「……傷、痕になっちゃったね」


 結局、完治するまでに一カ月以上もかかってしまった切り傷は、ぼくの右手人差し指の側面に、白い線を残していった。


「でも、全然目立たないし、別に気にならない」


 そっか、と彼女は言って、ぼくの手を離した。


 その年の秋は、なんの事件や事故もなく、穏やかに過ぎていった。土日はチーム練習、平日は下校したあとに広場で自主練習をし、たまに、そこへ慎司と宇原がやってきた。二人は、だいたいいつも、ぼくがバックネットに向けてボールを投げ込んでいる姿をベンチに座って見ていた。慎司はぼくが使っていない硬球を握ってぽんぽんとお手玉のように上に投げたり、宇原は持ってきていた本を読んだりもしていた。不思議なことに、二人がいると、ぼくもより自分の練習に深く集中できた。


 宇原がことを知ったのは、そんな秋が終わり、年が明けて、三学期に入ったときだった。ぼくはその話を、彼女から直接ではなく、噂で聞いた。多くの会社や工場があるこの街では、親の転勤による転校は多く、何人か、中学進学のタイミングでどこかへ越していく友達がいたけれど、宇原もその一人だった。


「宇原、引っ越すんだって?」


 三学期の終わりが徐々に近づいてきていた冬の日、ぼくは彼女に言った。下校途中、たまたま近くを歩いていたからぼくは彼女に近寄って、そう話しかけたのだった。


「うん」と彼女は頷いた。それきり会話は途絶えた。ぼくたちは、それから別れ道に差しかかるまでの長い時間、無言で歩いた。彼女の肯定の仕草に、ぼくは、自分でも意外なほどに動揺していた。今までは、本人に確認したわけではないのだから、本当は違うのかもしれないと、心のどこかで思っていた。それが今、否定されてしまった。


 ぼくのなかに湧いていたのは、単純に寂しいというのとは少し違う感情だった。そこには、悔しさのようなものが、より強くあった。ぼくは彼女と一緒にいる時間が好きだった。いろいろな話をすることが好きだった。それが奪われてしまうということを、理不尽に思った。大人だったら、住むところくらい、自分で選ぶことができるだろうに。ぼくたちには、どうあがいてもそんなことはできない。親や、運命というべきような、なにか巨大なものがぼくたちに用意したものに、ぼくたちは、ただ従うしかない。不満をぶつけたり駄々をこねることは出来ても、それに本当に対抗するための、なんらの力もない。そのことが、腹立たしく、悲しかった。


 やがて宇原は、住んでいるマンションに続く道に差しかかったところで立ち止り、別れ際にこう言った。


「夏休みになったら、また遊びにくるから」


 それから彼女は枯木の並ぶ道を歩き、自分の家がある綺麗な建物へ入っていった。

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